その夜、龍王宮はいつもより静かだった。
静かというより、“音を抑えられている”ような違和感がある。
まるで、誰かがこの世界に薄い膜を張っているみたいに。
「眠れませんか」
白龍の声が、障子越しに聞こえた。
私は少し間を置いてから答える。
「……少しだけ」
扉が開く音はしなかった。
気づけば、白龍はすでに部屋の中にいた。
いつものことなのに、今日は少しだけ驚く。
「驚かせてしまいましたか」
「いえ……慣れてきました」
そう答えると、白龍はほんのわずかに目を細めた。
それは微笑みに見えたけれども、どこか遠かった。
「散歩でもしますか」
唐突な提案だった。
「今からですか?」
「今だからです」
理由は言わない。
でも、それが白龍らしい気もした。
廊下を歩く。
龍王宮は夜になると、昼とはまるで別の顔になる。
白銀の光は弱まり、影が深くなる。
その影が、今日はやけに“人の形”に見えた。
「白龍様」
歩きながら、私は尋ねた。
「私の名前って、本当に“志穂”だけなんですか?」
白龍の足が、一瞬だけ止まる。
ほんの一瞬。
それだけで、答えは出ていた。
「どうして、そう思ったのですか」
逆に聞き返される。
私は言葉を選ぶ。
「時々、違う名前が浮かぶんです」
「でもすぐ消えてしまって」
白龍は何も言わない。
その沈黙が、やけに長く感じた。
回廊の窓から、雲海が見える。
その奥に、何かが一瞬だけ光った。
黒い輪郭。
白い光。
そして――
「黒姫」
口が勝手に動いた。
自分でも驚く。
白龍が、はっきりとこちらを見る。
「今、何と言いましたか」
その声は静かだった。
けれども、空気が変わる。
私は戸惑う。
「……分かりません」
「ただ、そう呼ばれた気がして」
白龍は視線を外す。
そして、いつもより少しだけ低い声で言った。
「それは」
「気のせいです」
その言葉は、優しいはずなのに重かった。
私は足を止めた。
「白龍様」
「はい」
「私のこと、本当に全部知ってますか」
沈黙。
風の音だけが聞こえる。
白龍はゆっくり振り返る。
その瞳は、いつもの優しさの奥に“深い影”を含んでいた。
「知っています」
「誰よりも」
その答えは完璧だった。
なのに。
なぜか怖かった。
私は一歩近づく。
「じゃあ」
「私が誰か、ちゃんと説明できますか」
白龍のまつ毛が、ほんのわずかに揺れた。
それは初めて見る“揺らぎ”だった。
「あなたは」
そこで一度、言葉が止まる。
そして続く。
「私の妻です」
即答だった。
けれども、その前の“間”が、私の中に残った。
私は微笑む。
「それ、答えになってないです」
白龍は一瞬だけ目を閉じる。
「……志穂」
初めて、名前が少し重く響いた。
その瞬間。
また頭の奥が痛む。
黒い影。
泣いている自分。
そして――
“もう一つの名前”。
私は息を止める。
その名前が、喉まで出かかっているのに出ない。
白龍が一歩近づく。
「思い出さないでください」
その声は、初めて少しだけ強かった。
私は顔を上げる。
「どうしてですか」
白龍は答えない。
代わりに、視線を逸らした。
その沈黙が、すべてだった。
私は確信する。
この人は優しい。
でも――
優しさの中に、何かを隠している。
雲の上の風が、急に冷たくなる。
私は小さく呟く。
「……私、ほんとは誰なんですか」
白龍は答えなかった。
ただ、夜の空を見上げていた。
静かというより、“音を抑えられている”ような違和感がある。
まるで、誰かがこの世界に薄い膜を張っているみたいに。
「眠れませんか」
白龍の声が、障子越しに聞こえた。
私は少し間を置いてから答える。
「……少しだけ」
扉が開く音はしなかった。
気づけば、白龍はすでに部屋の中にいた。
いつものことなのに、今日は少しだけ驚く。
「驚かせてしまいましたか」
「いえ……慣れてきました」
そう答えると、白龍はほんのわずかに目を細めた。
それは微笑みに見えたけれども、どこか遠かった。
「散歩でもしますか」
唐突な提案だった。
「今からですか?」
「今だからです」
理由は言わない。
でも、それが白龍らしい気もした。
廊下を歩く。
龍王宮は夜になると、昼とはまるで別の顔になる。
白銀の光は弱まり、影が深くなる。
その影が、今日はやけに“人の形”に見えた。
「白龍様」
歩きながら、私は尋ねた。
「私の名前って、本当に“志穂”だけなんですか?」
白龍の足が、一瞬だけ止まる。
ほんの一瞬。
それだけで、答えは出ていた。
「どうして、そう思ったのですか」
逆に聞き返される。
私は言葉を選ぶ。
「時々、違う名前が浮かぶんです」
「でもすぐ消えてしまって」
白龍は何も言わない。
その沈黙が、やけに長く感じた。
回廊の窓から、雲海が見える。
その奥に、何かが一瞬だけ光った。
黒い輪郭。
白い光。
そして――
「黒姫」
口が勝手に動いた。
自分でも驚く。
白龍が、はっきりとこちらを見る。
「今、何と言いましたか」
その声は静かだった。
けれども、空気が変わる。
私は戸惑う。
「……分かりません」
「ただ、そう呼ばれた気がして」
白龍は視線を外す。
そして、いつもより少しだけ低い声で言った。
「それは」
「気のせいです」
その言葉は、優しいはずなのに重かった。
私は足を止めた。
「白龍様」
「はい」
「私のこと、本当に全部知ってますか」
沈黙。
風の音だけが聞こえる。
白龍はゆっくり振り返る。
その瞳は、いつもの優しさの奥に“深い影”を含んでいた。
「知っています」
「誰よりも」
その答えは完璧だった。
なのに。
なぜか怖かった。
私は一歩近づく。
「じゃあ」
「私が誰か、ちゃんと説明できますか」
白龍のまつ毛が、ほんのわずかに揺れた。
それは初めて見る“揺らぎ”だった。
「あなたは」
そこで一度、言葉が止まる。
そして続く。
「私の妻です」
即答だった。
けれども、その前の“間”が、私の中に残った。
私は微笑む。
「それ、答えになってないです」
白龍は一瞬だけ目を閉じる。
「……志穂」
初めて、名前が少し重く響いた。
その瞬間。
また頭の奥が痛む。
黒い影。
泣いている自分。
そして――
“もう一つの名前”。
私は息を止める。
その名前が、喉まで出かかっているのに出ない。
白龍が一歩近づく。
「思い出さないでください」
その声は、初めて少しだけ強かった。
私は顔を上げる。
「どうしてですか」
白龍は答えない。
代わりに、視線を逸らした。
その沈黙が、すべてだった。
私は確信する。
この人は優しい。
でも――
優しさの中に、何かを隠している。
雲の上の風が、急に冷たくなる。
私は小さく呟く。
「……私、ほんとは誰なんですか」
白龍は答えなかった。
ただ、夜の空を見上げていた。

