龍王の花嫁 ~記憶を失くした私を夫が百年待っていました~

黒いものを見るようになってから、私は少しだけ空を見上げる癖がついた。
保育園の帰り道。
公園。
家の窓。
どこかにあの黒い影がいる気がしたからだ。
けれども、あれ以来はっきり姿を見ることはなかった。
だから私は少しずつ忘れ始めていた。
三歳の子どもにとって、昨日の不思議より今日のおやつの方が大事なのだ。
そんなある日のことだった。
私は熱を出して寝込んでいた。
昔からよく熱を出した。
少し疲れるだけで熱が上がる。
病院も慣れたものだった。
母は氷枕を替えながら私の額を撫でる。
「しんどい?」
「うん……」
身体が重い。
息も苦しい。
心臓がドクドクとうるさい。
私は目を閉じた。
すると、不思議な夢を見た。
白い世界だった。
雲の上みたいな場所。
ふわふわしていて暖かい。
私はそこで一人立っていた。
「ここ、どこ……?」
声を出す。
返事はない。
けれども。
背後から風が吹いた。
振り返る。
そこにいた。
大きな龍。
真っ白な鱗。
雪みたいに綺麗な身体。
月の光みたいな瞳。
私は息を呑んだ。
本当なら怖いはずだった。
なのに不思議と怖くなかった。
むしろ。
懐かしかった。
「りゅう……?」
白い龍は何も言わない。
ただ静かに私を見つめていた。
優しい目だった。
まるで、ずっと前から知っているみたいに。
私は一歩近づく。
龍も動かない。
逃げない。
だから私は思わず聞いていた。
「あなたも、わたしをみてたの?」
龍は少しだけ目を細めた。
笑ったように見えた。
その瞬間。
頭の中に声が響く。
『ようやく見つけました』
男の人の声だった。
優しくて。
どこか泣きそうな声。
『お会いしたかった』
私は首を傾げる。
「だれ?」
龍は答えない。
ただ私の頭を鼻先でそっと撫でた。
暖かい。
優しい。
父とも母とも違う安心感だった。
すると遠くから大声が聞こえた。
『娘ちゃぁぁぁぁん!!』
私はびくっとした。
白い龍が露骨に嫌そうな顔をする。
龍なのに表情が分かる。
不思議だった。
『やっと会えたなぁぁぁ!!』
空の向こうから黒い影が飛んでくる。
あの黒いものだった。
私は慌てて白い龍の後ろに隠れる。
『あっ!? 隠れた!? なんでだぁぁぁぁ!!』
黒い龍が本気でショックを受けていた。
その様子が少し面白い。
私は思わず笑ってしまった。
すると白い龍が小さくため息をつく。
『近づきすぎです』
『父親だぞ!?』
『まだ三歳です』
『娘だぞ!?』
何を言っているのかよく分からない。
でも二匹が言い争っている姿は、なぜか家族みたいだった。
私は少しだけ笑った。
すると白い龍がこちらを見る。
その目が優しく細められる。
『大丈夫です』
また頭の中に声が響く。
『あなたは一人ではありません』
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が少し暖かくなった。
いつも苦しかった心臓が。
少しだけ楽になった気がした。
私は安心して目を閉じる。
そして――目を覚ました。
そこはいつもの自分の部屋だった。
窓から朝日が差し込んでいる。
母が驚いた顔をする。
「熱が下がってる!」
私はゆっくり身体を起こした。
不思議なくらい身体が軽い。
そして窓の外を見る。
誰もいない。
龍もいない。
夢だったのだろうか。
そう思った。
けれども、窓辺には一枚だけ。
真っ白な羽のようなものが落ちていた。
私はそっと拾い上げる。
柔らかくて。
暖かかった。
その時の私はまだ知らない。
あの白い龍が。
百年以上の時を越えて、自分を待ち続けていて夫になることを。