龍王の花嫁 ~記憶を失くした私を夫が百年待っていました~

夜が深くなるほど、龍王宮は静かになる。
その静けさが、今日はやけに胸に残った。
白龍は「少し外へ」とだけ言って、私を庭へ連れ出した。
白銀の桜が、夜でも淡く光っている。
風が吹くたび、光の粒が舞うようだった。
「ここは……」
「龍界の中でも特別な場所です」
白龍はそう言って、少しだけ前を歩く。
その背中を見ていると、不思議と目が離せなかった。
理由は分からない。
でも、知っている気がする。
この景色も、この空気も、この人の歩き方さえも。
私は立ち止まる。
その瞬間、右腕の痣が強く熱を持った。
「っ……!」
視界が揺れた。
白銀の桜が逆さまに落ちる。
空が割れる。
声が聞こえる。
『黒姫』
呼ばれた。
確かに。
誰かが私をそう呼んだ。
私は膝をつく。
白龍がすぐに支える。
「志穂」
「無理はしないでください」
でも、今はその声すら遠い。
頭の中に映像が流れ込む。


——白銀の玉座。
涙をこらえる黒姫。
怒号の中で差し出される背中。
『あなたは罪人ではない』
叫ぶ白龍。
それでも崩れていく世界。
そして最後に。
『必ず戻る。だから、待っていて』
「……私」
息が震える。
「私、知ってる」
白龍が動きを止める。
私はゆっくり顔を上げた。
涙が止まらない。
でも、怖くない。
「黒姫……」
その名前を、初めて自分で口にした。
空気が変わる。
桜が静かに舞い落ちる。
白龍は何も言わない。
ただ、目を閉じて小さく息を吐いた。
「……遅いですよ」
その声は、怒っていなかった。
むしろ、安心していた。
私は立ち上がる。
身体の奥から、何かが戻ってくる感覚。
記憶ではない。
もっと深いもの。
“自分”そのもの。
「ごめんなさい」
自然に言葉が出た。
白龍は首を振る。
「謝る必要はありません」
「あなたは帰ってきただけです」
風が吹く。
桜が一斉に光を帯びる。
遠くで龍たちが静かに頭を垂れる気配がした。
私は自分の手を見る。
そこには、かつての紋が戻っていた。
黒と銀が交わる龍の印。
「これが……私」
白龍は静かに頷く。
「はい」
「龍王妃、黒姫です」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
でも、もう迷いはなかった。
私は一歩、白龍へ近づく。
「ねえ」
「はい」
「百年、待ってたんですよね」
白龍は少しだけ目を伏せた。
「はい」
私は小さく笑う。
「怒ってもいいですか」
白龍がわずかに驚く。
「……どうぞ」
私は一瞬だけ黙って、それから言った。
「長すぎです」
白龍は固まる。
そして――ほんの少しだけ、笑った。
「申し訳ありません」
「反省はしていません」
「え?」
「それでも、待ってよかったと思っています」
その言葉に、胸がいっぱいになる。
私はゆっくりと手を伸ばした。
白龍の手を取る。
温かい。
ずっと昔から知っている温度だった。
「じゃあ」
私は少しだけ顔を上げる。
「今度は一緒にいてください」
白龍の目が揺れる。
そして、とても静かに頷いた。
「はい」
「今度は、離れません」
風が止む。
桜が舞う。
空がゆっくりと開いていく。
龍たちの声が、遠くで響いた。
『龍王妃、還御』
『龍王、帰還』
でももう、それは遠い言葉だった。
私は白龍の隣に立つ。
肩が少し触れる距離。
それだけで十分だった。
白龍が小さく呟く。
「おかえりなさい」
今度は、迷わず答えられた。
「ただいま」
そしてもう一度、心の中で思う。
——私は、この人を愛している。
記憶よりも前から。
ずっと。