龍王の花嫁 ~記憶を失くした私を夫が百年待っていました~

この世に生を受けたその日から、私の心臓には小さな穴が宿っていた。
むろん、産声を上げた頃の記憶などありはしない。けれども母はことあるごとに語り聞かせてくれた。
「先生にね、『この子は心臓が弱いです』って言われたのよ」
幼い私はその言葉の意味が解らず、小首を傾げるばかりだった。
心臓が弱い——それはいったい、どういうことなのだろう。 皆とどこが違うというのだろう。
そんな問いに答えを見つけるには、私はまだあまりに幼かった。
ただ、ひとつだけ分かることがあった。
少し走っただけで息が上がる。階段を上れば膝が震える。公園の砂場で友と遊んでいても、気づけば私だけがひとり、木陰のベンチに腰を落としていた。
母はいつも、憂いを帯びた眼差しで私を見つめた。
「志穂、無理しちゃだめよ」
「……うん」
私は素直に頷く。本当に苦しいのだから、仕方がない。
他の子たちのように野を駆け回ることは叶わない。それが私の、生まれながらの定めだった。


三つになった春頃のことだ。
保育園の園庭に、柔らかな陽光が降りそそいでいた。砂場の端にひとりしゃがみ込んでいた私は、ふと顔を上げた。
——その瞬間だった。
視界の端に、何かが映った。
黒い。大きい。ひどく、大きい。
保育園の塀よりも高く、庭の大木よりもさらに巨大な、黒いもの。煙のように揺らめきながらも、確かな輪郭を持っている。
私は息をのんだ。
その黒いものは、じっとこちらを見ていた。爬虫類めいた面立ちに、澄んだ金色の瞳。不思議なほど美しく——そして、ひどく恐ろしかった。
「ひっ……」
指先から震えが這い上がる。
黒いものは動かない。ただ私だけを見つめ続ける。まるで何かを確かめるかのように。
怖い。怖い。怖い。
「うわあああああん!」
私の泣き声に、先生が慌てて駆け寄ってくる。
「どうしたの!?」
私は震える指で塀の向こうを指差した。
「あれ……! こわい!」
先生が振り返る。けれどもそこには、風にそよぐ木々があるばかり。黒いものの影など、どこにも見えない。
「何もないよ? 夢でも見たのかな」
違う。夢ではない。本当にいた。確かにいた。
けれども幼い私には、それ以上を言葉にする術がなかった。先生は困ったように微笑むばかりで——私の訴えは、春風に散る花びらのように、誰にも届かなかった。
その夜のことだ。
外は台風が来ていた。雨音が世界を劈くように打ちつけ、窓硝子が細かく震えていた。
布団の中で丸くなりながら、私はカーテンの隙間から目が離せずにいた。見たくない。なのに見てしまう。
月明かりの滲む夜空の彼方に——いた。
巨大な黒い影が、静かに私を見下ろしていた。
「……っ」
声も出ない。布団を頭から被り、ただ震える。
怖い。怖い。怖い。
けれども——不思議だった。
昼間に感じた恐怖とは、どこか違う。あの金色の瞳が注ぐ視線は、冷たくはなかった。むしろどこか温かで——まるで夜の帳の向こうから、そっと見守られているような。
そんなはずはない、と思いながら。
私はいつしか眠気に攫われていった。意識が遠のく刹那、どこかから声が聞こえた気がした。
『……娘ちゃぁぁぁん』
低く、泣きそうな声。
三つの私には、その意味を解く力などなかった。だからそのまま、夢の中へと落ちていった。
翌朝には、ほとんど忘れてしまっていた。
ただひとつだけ——あの金色の瞳だけが、胸の奥にひっそりと残っていた。
あの日から私は時々見るようになった。誰の目にも映らない、黒いものを。
そしてそれはいつも、少し離れた場所から——ただ静かに、私を見守り続けていた。