龍王の花嫁 ~記憶を失くした私を夫が百年待っていました~

龍王宮は広かった。
いや、広いという言葉では足りないかもしれない。
長い回廊はどこまでも続き、窓の外には雲海が広がっている。
まるで空そのものが宮殿になったような場所だった。
案内役の侍女の後ろを慌てて追いかけて、私は小さく息を吐く。
「こちらです」
案内役の侍女が微笑む。
私は慌てて後を追った。
宮殿に来て三日。
未だに現実感がない。
死んだはずなのに。
龍界にいて。
龍王が婚約者で。
女王候補だと言われている。
どれも信じられなかった。
案内された先は大きな広間だった。
中にはすでに数十人が集まっている。
龍王たち。
役人たち。
そして金龍。
私を見るなり金龍が口を開いた。
「始めましょう」
嫌な予感けれどもない。
「何をですか?」
「黒姫様の審査です」
審査。
その言葉に会場がざわつく。
闇龗神が即座に立ち上がった。
「ふざけるな!」
「我が娘を試す気か!」
国之常立神は涼しい顔だった。
「龍界の女王候補です」
「当然でしょう」
「当然ではない!」
「当然です」
また始まった。
白龍は慣れているらしい。
無言でお茶を飲んでいる。
私だけが取り残されていた。
「えっと……」
「審査って何をするんですか?」
金龍が一枚の紙を差し出した。
「簡単です」
簡単には見えなかった。
紙には大量の文字。
税。
祭事。
龍脈管理。
気候調整。
外交。
私は目を疑った。
「多くないですか?」
「少ないです」
即答だった。
絶対嘘だ。
会場の誰もが目を逸らした。
つまり多いのだろう。
私は泣きたくなった。
大学のレポートですら苦労していたのに。
女王の仕事なんてできるはずがない。
その時だった。
金龍が突然尋ねた。
「黒姫様」
「はい」
「あなたは女王になりたいですか?」
私は固まった。
その質問は予想外だった。
なりたいか。
そんなこと考えたこともない。
私は人間だった。
普通の女子大生だった。
少なくともそう思っていた。
だから答える。
「分かりません」
会場が静かになる。
金龍は表情を変えない。
私は続けた。
「私には記憶がありません」
「本当に黒姫なのかも分かりません」
「皆さんが言うからそうなのかなって思うだけで……」
情けない。
女王候補とは思えない言葉だ。
けれども嘘はつきたくなかった。
私は俯いた。
すると、誰かが笑った。
白龍だった。
私は驚いて顔を上げる。
白龍は優しく微笑んでいる。
「それでいいのです」
「え?」
「昔のあなたも同じことを言いました」
胸が跳ねた。
「昔の私?」
白龍は少し懐かしそうに目を細める。
「私は女王になど向いていない」
「そう言って泣いていました」
私は息を呑む。
知らない記憶。
なのに。
なぜか胸が締め付けられた。
白龍は続ける。
「ですが」
「あなたは誰よりも民を愛していました」
静かな声だった。
会場も耳を傾けている。
「だから皆があなたを選んだのです」
私は何も言えなかった。
その時。
金龍が立ち上がる。
「なるほど」
彼は初めて少しだけ表情を緩めた。
「少なくとも偽物ではなさそうですね」
「え?」
「偽物ならもっと上手く演じます」
失礼だった。
かなり失礼だった。
だが会場から笑い声が漏れる。
闇龗神まで笑っている。
私は頬を膨らませた。
その瞬間。
広間の外から悲鳴が聞こえた。
「た、大変です!」
兵士が飛び込んでくる。
顔面蒼白だった。
「龍脈が暴走しています!」
会場が凍りついた。
金龍の顔色が変わる。
白龍が立ち上がる。
闇龗神も険しい顔になった。
私だけが状況を理解できない。
だが、次の言葉で全員が息を呑む。
「暴走地点は……」
兵士は震える声で告げた。
「黒姫様の封印の間です」