龍王の花嫁 ~記憶を失くした私を夫が百年待っていました~

龍の背に乗ることになるなんて、思ってもみなかった。
それも、龍王と呼ばれる存在の背中に。
白龍がゆっくりと私へ手を差し出す。
「落ちないように」
低く穏やかな声だった。
私は少しためらいながら、その手を取る。
指先が触れた瞬間、胸が小さく跳ねた。
温かい。
龍神なのに、人の手と変わらない温もりだった。
むしろ、人よりも優しい温度かもしれない。
「失礼します……」
おずおずとそう言うと、白龍はわずかに目を細めた。
どこか嬉しそうにも見える。
けれども次の瞬間。
「待て」
低い声が響いた。
闇龗神だった。
漆黒の髪を揺らしながら、こちらへ歩いてくる。
「なぜ貴様の背に乗せる」
「安全だからです」
「儂の方が安全だ」
「私の方が安全です」
「儂だ」
「私です」
また始まった。
私は思わず周囲を見回す。
だが龍たちは誰一人驚いていない。
むしろ慣れた様子で眺めている。
日常茶飯事らしい。
結局、見かねた私が口を挟んだ。
「あの……どちらでも大丈夫です」
二人が同時に固まる。
そして次の瞬間。
「儂だな」
「私ですね」
綺麗に重なった。
全然まとまっていない。
私は小さくため息をついた。
どうして龍神という存在は、こんなにも大人気ないのだろう。
最終的に白龍が押し切る形になり、私は彼の背へ乗ることになった。
闇龗神は納得していなかった。
ものすごく納得していなかった。
だが白龍は完全に無視している。
そのまま大きな翼が広がった。
風が巻き起こる。
次の瞬間。
身体がふわりと浮いた。
「っ……!」
思わず息を呑む。
景色が遠ざかっていく。
地上が小さくなる。
雲海が広がる。
白い波のような雲がどこまでも続いていた。
風が頬を撫でる。
髪がなびく。
美しい。
言葉が出ないほど。
今まで見たどんな景色よりも。
遠くには空中に浮かぶ巨大な滝が見えた。
空から流れ落ちた水が、再び空へと昇っている。
その周囲を何頭もの龍が舞っていた。
まるで神話の世界だった。
「すごい……」
思わず声が漏れる。
すると白龍が少しだけ振り返った。
「お気に召しましたか」
「はい……」
本当に綺麗だった。
夢なら覚めないでほしいと思うほどに。
しばらく飛び続けた先で。
それは見えた。
巨大な宮殿。
黄金と白銀で造られた楼閣。
空へ伸びる塔。
幾重にも重なる回廊。
雲の上に広がる庭園。
まるで天上の都だった。
私は呆然と見上げる。
「ここが……」
「龍王宮です」
白龍の声が静かに響く。
そして。
「あなたの家でもあります」
その言葉に胸が締め付けられた。
家。
その言葉は不思議なほど重かった。
私にはそんな場所があったのだろうか。
帰る場所が。
待っていてくれる人たちが。
白龍の背から降りる。
その瞬間だった。
宮殿中が騒然となった。
「黒姫様!」
「黒姫様がお戻りになった!」
歓声が広がる。
侍女たちが涙ぐみ。
護衛たちが頭を垂れ。
役人たちまでもが跪く。
まるで奇跡を目の当たりにしたかのようだった。
私はただ戸惑う。
何も覚えていない。
なのに。
皆はこんなにも喜んでいる。
その時、一人の老女が進み出た。
銀色の髪を結い上げた上品な女性だった。
震える手が私の頬に触れる。
「本当に……」
老女の目から涙が零れ落ちた。
「本当にお帰りなさいませ」
その言葉に胸が痛んだ。
どうしてだろう。
知らない人のはずなのに。
なぜか泣きそうになる。
まるで大切な何かを忘れてしまった気分だった。
その時。
「騒ぎすぎです」
冷たい声が広間に響いた。
空気が変わる。
誰もが振り返った。
階段の上。
一人の男が立っていた。
銀髪。
眼鏡。
整った顔立ち。
そして氷のように冷たい瞳。
男は真っ直ぐ私を見下ろしていた。
まるで真実を見極めようとするように。
「……記憶がないそうですね」
私は小さく頷く。
男の表情は変わらない。
「ならば問題です」
その言葉に胸がざわついた。
「龍界の女王が、自分自身のことすら分からない」
冷たい声が続く。
「それは大問題だ」
何も言い返せなかった。
だって、その通りだから。
私は俯く。
すると白龍が一歩前へ出た。
静かに。
けれども確かな意思を持って。
「金龍」
普段より低い声だった。
白龍の黄金の瞳が細められる。
「責めるために来たのですか」
銀髪の男――国之常立神は首を振った。
「いいえ」
そして私を見つめる。
その瞳だけは決して逸れなかった。
「確かめるためです」
静寂が落ちる。
次の言葉を聞くのが怖かった。
けれども。
彼は容赦なく告げた。
「あなたは本当に黒姫なのですか?」
胸が強く痛んだ。
その問いは。
誰よりも私自身が知りたい答えだったから。