龍王の花嫁 ~記憶を失くした私を夫が百年待っていました~

「もう、こんな生活は耐えられない……」
母のいない日常は、空虚だった。干したままの洗濯物が、いつまでも胸に棘を刺し続ける。涙さえ、もう枯れてしまった。
気が付けば、黒姫山の池の前に立っていた。
冷たい水が足元を満たしていく。静かな湖面。誰もいない。誰も来ない。私はゆっくりと目を閉じた。
これで終わりだ。苦しかった日々も、孤独だった時間も、全部。
その時だった。
ふわり、と目の前を白い光が横切った。まるで小さな龍のような姿をしていた。
『黒姫、やっと呼んでくれたか』
どこか懐かしい声が聞こえる。
『まったく、世話の焼ける娘だ』
誰……?
そう思った瞬間、身体が深く沈んだ。意識が闇へ溶けていく。最後に聞こえたのは、誰かの泣きそうな声だった。
『杉本志穂、ようやく迎えに行ける』
私の名前だ。その意味を考える前に、意識は途切れた。
◇◇◇
風の音がする。
頬を撫でる空気は、驚くほど澄んでいた。私はゆっくりと目を開けた。
青空だった。どこまでも高く、どこまでも広い、雲ひとつない蒼穹。
「……ここは?」
身体を起こすと、足元に広がる景色に息を呑んだ。白銀の雲海。見渡す限りの雲。その上に私は立っていた。
夢だろうか。そう思った瞬間、空を影が横切った。巨大な影が。見上げると、固まった。
龍だった。
赤い鱗、青い鱗、金色の鱗。見たこともないほど美しい龍たちが、空を埋め尽くしていた。一頭ではない。何百、何千。数え切れないほどの龍が頭上を舞っている。
「うそ……」
思わず後ずさる。その時、ざわりと龍たちの動きが止まった。次の瞬間、一斉に頭を垂れた。まるで王に忠誠を誓うように。
「えっ?」
意味が分からない。後ろに誰かいるのかと振り返ったが、誰もいない。私だけだ。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
当然、返事はない。代わりに、どこからともなく声が響いた。
『黒姫様、お帰りなさいませ』
黒姫。誰のことだろう。少なくとも私ではない。
「人違いです!」
慌てて叫んだ。けれども龍たちは動かない。むしろ歓喜に震えているようだった。
その時、空が光った。眩しいほどの白い光。龍たちがさらに深く頭を下げる。空気が変わった。本能で分かる。この場に集うすべての存在より格上の何かが近づいてくる。
白い龍が現れた。
巨大で、美しく、神々しいという言葉がこれほど似合う存在を私は知らない。白銀の鱗が太陽を反射して輝いている。金色の瞳が、真っ直ぐこちらを見つめていた。
なぜだろう。初めて見るはずなのに、胸が痛い。泣きそうになる。
白龍はゆっくりと地上へ降り立ち、光に包まれる。眩しさが消えた時、そこには一人の青年が立っていた。白銀の髪。金色の瞳。整いすぎるほど整った顔立ち。けれどもその表情だけが、妙に切なかった。
青年は私の前まで歩いてくる。そして、壊れ物に触れるような手つきで頬に触れた。
「ようやく会えた」
その声を聞いた瞬間、理由も分からず涙が溢れた。
「……え?」
なぜ泣いているのだろう。この人を知らないはずなのに。青年は泣きそうな顔で、それでも嬉しそうに微笑む。
「長かった」
私は戸惑いながら尋ねた。
「あなたは……誰ですか?」
その瞬間、青年の表情が凍りついた。周囲の龍たちもざわめく。金色の瞳が大きく見開かれる。
「……覚えて、いないのですか」
低い声だった。私は首を振る。
「ごめんなさい。初めて会ったと思うんですけど……」
沈黙。青年はしばらく何も言わなかった。やがて目を閉じる。何かを必死に堪えるように。苦しそうに。
そして遠くの空から、大きな声が響いた。
「どけぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
空気が震える。龍たちが一斉に顔を上げた。
「我が娘はどこだぁぁぁぁ!!」
私は思わず目を丸くした。青年は額を押さえ、深いため息をついた。
「……来てしまいましたか」
その答えを知る前に、黒い巨大な影が雲海を突き破った。