プロローグ
信濃の山々を白い霧が覆っていた。
春の終わり。
山桜はすでに盛りを過ぎ、淡い花びらだけが風に乗って舞っている。
どこか物悲しい夕暮れだった。
空は厚い雲に覆われ、今にも泣き出しそうな色をしている。
遠くで雷鳴が響いた。
まるで世界そのものが嘆いているかのようだった。
黒姫は湖のほとりに立っていた。
風が長い黒髪を揺らす。
着物の裾を握る指先は冷たく震えていた。
けれども、その瞳だけはまっすぐ前を見据えている。
湖の中央。
静かな水面の上に、一頭の龍がいた。
白銀の鱗は薄暗い空の下でもなお美しく輝いている。
月の光を閉じ込めたようなその姿は、神々しいという言葉すら足りなかった。
黄金の瞳が黒姫を見つめている。
深い悲しみを宿した瞳だった。
村人たちは恐れた。
山の神だと。
災いを呼ぶ化け物だと。
だが黒姫にとっては違う。
彼は恐ろしい存在などではなかった。
誰よりも優しく。
誰よりも孤独で。
そして――誰よりも愛しい人だった。
「姫を渡せ!」
山の向こうから怒号が響く。
「龍に惑わされた娘など不要だ!」
「化け物を討て!」
たいまつの光が木々の隙間から揺れて見えた。
黒姫はそっと目を伏せる。
もう時間がない。
村人たちはすぐそこまで来ていた。
白龍も気付いているのだろう。
黄金の瞳が苦しそうに揺れた。
「行ってはなりません」
低く、優しい声が響く。
黒姫はその声が好きだった。
何度聞いても胸が温かくなる。
だからこそ辛い。
「人の世へ戻りなさい」
白龍は静かに言う。
「あなたがいるべき場所はここではありません」
黒姫は首を横に振った。
「嫌です」
震える声だった。
それでも迷いはない。
「黒姫」
「私はあなたを愛しています」
言葉にした瞬間、涙が零れた。
もう隠したくなかった。
叶わない恋だとしても。
神と人が結ばれないとしても。
この想いだけは偽りたくなかった。
白龍は目を閉じた。
長い沈黙が落ちる。
風だけが二人の間を通り過ぎていく。
「……私も」
やがて白龍は静かに言った。
「あなたを愛しています」
黒姫の胸が苦しくなる。
嬉しいのに。
幸せなはずなのに。
どうしてこんなにも悲しいのだろう。
「私が人なら」
白龍は続けた。
「あなたを妻に迎えていました」
黒姫は涙を拭う。
そして小さく笑った。
「なら私は龍になります」
白龍が困ったように目を細める。
「なれません」
「それでも」
黒姫は一歩前へ進む。
湖の水が足元を濡らした。
「あなたの傍にいたいんです」
その言葉に、白龍は何も返せなかった。
返せるはずがなかった。
誰よりも同じ願いを抱いていたのだから。
だが現実は残酷だった。
人と龍。
本来なら交わることのない存在。
この恋に未来はない。
それでも。
黒姫は決めていた。
愛する人を守るためなら、何だってする。
たとえ自分が消えることになったとしても。
村人たちの声がさらに近付く。
たいまつの明かりが湖畔を照らした。
もう時間がない。
黒姫は白龍を見つめる。
愛しい人の姿を瞳に焼き付けるように。
「何を考えている」
白龍の声が揺れた。
初めてだった。
いつも穏やかな彼が、こんなにも動揺しているのは。
黒姫は微笑む。
涙を流しながら。
それでも笑った。
「次に生まれ変わったら」
風が吹く。
桜の花びらが二人の間を舞った。
「その時は迎えに来てください」
黄金の瞳が大きく見開かれる。
「黒姫!」
悲痛な叫びが響く。
けれども黒姫はもう止まらなかった。
愛する人を守るために。
もう一度会うために。
湖へ身を投げる。
白い水しぶきが空へ舞い上がった。
その瞬間。
白龍が咆哮した。
山々が震える。
空が裂ける。
雷鳴が轟く。
まるで世界そのものが悲鳴を上げているようだった。
白龍は狂ったように湖へ飛び込む。
一度。
二度。
三度。
何度も。
何度も。
何度も。
だが見つからない。
愛する姫は消えてしまった。
どこにもいない。
手を伸ばしても届かない。
名前を呼んでも返事はない。
その日。
白龍は人前から姿を消した。
人々は語り継ぐ。
黒姫は死んだ。
白龍は天へ帰った。
悲しい恋物語だったと。
けれども。
それは真実ではない。
白龍は帰っていない。
今もなお、待ち続けている。
たった一人の花嫁を。
千年。
二千年。
永遠にも等しい時を越えて。
それでも諦めることなく。
約束だけを胸に抱いて。
――迎えに来てください。
その願いを果たすために。
そして今。
止まっていた運命の歯車が、再び動き出そうとしていた。
信濃の山々を白い霧が覆っていた。
春の終わり。
山桜はすでに盛りを過ぎ、淡い花びらだけが風に乗って舞っている。
どこか物悲しい夕暮れだった。
空は厚い雲に覆われ、今にも泣き出しそうな色をしている。
遠くで雷鳴が響いた。
まるで世界そのものが嘆いているかのようだった。
黒姫は湖のほとりに立っていた。
風が長い黒髪を揺らす。
着物の裾を握る指先は冷たく震えていた。
けれども、その瞳だけはまっすぐ前を見据えている。
湖の中央。
静かな水面の上に、一頭の龍がいた。
白銀の鱗は薄暗い空の下でもなお美しく輝いている。
月の光を閉じ込めたようなその姿は、神々しいという言葉すら足りなかった。
黄金の瞳が黒姫を見つめている。
深い悲しみを宿した瞳だった。
村人たちは恐れた。
山の神だと。
災いを呼ぶ化け物だと。
だが黒姫にとっては違う。
彼は恐ろしい存在などではなかった。
誰よりも優しく。
誰よりも孤独で。
そして――誰よりも愛しい人だった。
「姫を渡せ!」
山の向こうから怒号が響く。
「龍に惑わされた娘など不要だ!」
「化け物を討て!」
たいまつの光が木々の隙間から揺れて見えた。
黒姫はそっと目を伏せる。
もう時間がない。
村人たちはすぐそこまで来ていた。
白龍も気付いているのだろう。
黄金の瞳が苦しそうに揺れた。
「行ってはなりません」
低く、優しい声が響く。
黒姫はその声が好きだった。
何度聞いても胸が温かくなる。
だからこそ辛い。
「人の世へ戻りなさい」
白龍は静かに言う。
「あなたがいるべき場所はここではありません」
黒姫は首を横に振った。
「嫌です」
震える声だった。
それでも迷いはない。
「黒姫」
「私はあなたを愛しています」
言葉にした瞬間、涙が零れた。
もう隠したくなかった。
叶わない恋だとしても。
神と人が結ばれないとしても。
この想いだけは偽りたくなかった。
白龍は目を閉じた。
長い沈黙が落ちる。
風だけが二人の間を通り過ぎていく。
「……私も」
やがて白龍は静かに言った。
「あなたを愛しています」
黒姫の胸が苦しくなる。
嬉しいのに。
幸せなはずなのに。
どうしてこんなにも悲しいのだろう。
「私が人なら」
白龍は続けた。
「あなたを妻に迎えていました」
黒姫は涙を拭う。
そして小さく笑った。
「なら私は龍になります」
白龍が困ったように目を細める。
「なれません」
「それでも」
黒姫は一歩前へ進む。
湖の水が足元を濡らした。
「あなたの傍にいたいんです」
その言葉に、白龍は何も返せなかった。
返せるはずがなかった。
誰よりも同じ願いを抱いていたのだから。
だが現実は残酷だった。
人と龍。
本来なら交わることのない存在。
この恋に未来はない。
それでも。
黒姫は決めていた。
愛する人を守るためなら、何だってする。
たとえ自分が消えることになったとしても。
村人たちの声がさらに近付く。
たいまつの明かりが湖畔を照らした。
もう時間がない。
黒姫は白龍を見つめる。
愛しい人の姿を瞳に焼き付けるように。
「何を考えている」
白龍の声が揺れた。
初めてだった。
いつも穏やかな彼が、こんなにも動揺しているのは。
黒姫は微笑む。
涙を流しながら。
それでも笑った。
「次に生まれ変わったら」
風が吹く。
桜の花びらが二人の間を舞った。
「その時は迎えに来てください」
黄金の瞳が大きく見開かれる。
「黒姫!」
悲痛な叫びが響く。
けれども黒姫はもう止まらなかった。
愛する人を守るために。
もう一度会うために。
湖へ身を投げる。
白い水しぶきが空へ舞い上がった。
その瞬間。
白龍が咆哮した。
山々が震える。
空が裂ける。
雷鳴が轟く。
まるで世界そのものが悲鳴を上げているようだった。
白龍は狂ったように湖へ飛び込む。
一度。
二度。
三度。
何度も。
何度も。
何度も。
だが見つからない。
愛する姫は消えてしまった。
どこにもいない。
手を伸ばしても届かない。
名前を呼んでも返事はない。
その日。
白龍は人前から姿を消した。
人々は語り継ぐ。
黒姫は死んだ。
白龍は天へ帰った。
悲しい恋物語だったと。
けれども。
それは真実ではない。
白龍は帰っていない。
今もなお、待ち続けている。
たった一人の花嫁を。
千年。
二千年。
永遠にも等しい時を越えて。
それでも諦めることなく。
約束だけを胸に抱いて。
――迎えに来てください。
その願いを果たすために。
そして今。
止まっていた運命の歯車が、再び動き出そうとしていた。

