愚行権

 換気扇が死にかけの虫みたいな音を立てて回っていた。
 安アパートの台所に据え付けられたそれは、埃と年月を吸い込みすぎて、もう何を外へ逃がして何を部屋に戻しているのか分からなかった。白かったはずの羽根は黄ばんで、網目には黒い油汚れがこびりついている。その前に、将大(しょうた)は背を丸めて立っていた。切ったばかりらしい黒髪には、寝ぐせが残ったまま首筋のあたりで跳ねている。

 肩が落ちていた。

 タバコを吸う人間の背中は、大抵どこか諦めている。けれど将大のそれは、諦めたあとにもまだ何かを待っているように見えた。当たるはずのない抽選の落選通知が、もうとっくに来ているのに画面を更新し続けているような、厚みの足りない背中だった。

「それ、外に出てると思ってんの」

 畳に寝転がったまま、恭佑(きょうすけ)が言った。

「何が」
「煙」
「気持ちの問題だよ」
「その気持ち、こっちまで来てるけど」

 将大は返事の代わりに、換気扇の下で煙を吐いた。灰色の煙は一度吸い込まれかけ、半分くらい部屋に戻ってきた。恭佑は眉をしかめたが、起き上がりはしなかった。

 ここは将大の部屋だった。
 部屋には、昨日の夜から動かされていないものがいくつもあった。コンビニの白いビニール袋。中途半端に容器に押し込まれたカップ麺の蓋。充電器に繋がれたまま死んでいるスマホ。流しに積まれた片手鍋に角の欠けた皿。そして、ちゃぶ台の脇には空き缶が六本並んでいた。

 エナジードリンクが二本。ストロング系チューハイが四本。
 どれも捨てるつもりで、捨てられていない。

 恭佑は朝、目が覚めたときにそれを見て、今日こそ捨ててやろうと思った。思っただけだった。袋にまとめるところまでは想像した。階段を下りて、このアパートのゴミ置き場まで行く自分の姿も頭をよぎった。けれど、その空想の中の自分はやけに立派で、現実の自分とは似ても似つかなかった。
 現実の恭佑は、畳の上で膝だけ曲げて寝転がり、天井の染みを見ている。色の抜けた長髪が畳に散って、首周りの伸びた黒いバンドTシャツの裾が腹の上でよれていた。

「今日、燃えないゴミの日だったっけ」
 将大が言った。

「俺が知るか」
「調べてよ」
「そのくらい覚えとけって」
「最近毎日ゴミ出しすぎて分かんねえんだよ」
 
 玄関の脇には、引越業者のロゴの入った段ボールが三つ積まれていた。
 もうすぐこの部屋を引き払う将大のために、昨日、恭佑が詰めたものだ。
 
「缶は資源。資源の日は木曜」
 恭佑はスマホの画面から目を離さずに言った。

「今日、何曜」
「月曜」
「まだ勝ってるな」
「何に」
「木曜に」
「なんだそれ」

 恭佑は少し笑った。笑ってから、その笑いが部屋の湿気に吸われていくのを感じた。


 その年、二人は二十六になっていた。
 大学を卒業して四年。恭佑はバンドを続け、将大はまだお笑いをやっていた。
 一時期だけ、二人は同じ舞台に立っていた。共通の友人に引き合わされ、出囃子(でばやし)とリズムネタを作っただけの恭佑は、いつの間にか将大の横にいた。就活に身が入らなかった二十一の年、二人は半ば現実逃避の勢いで正式にコンビを組み、卒業の年に解散した。

 友人、と言うには二人は親しくなりすぎていた。元相方、と言うには一緒に立った舞台は少なすぎた。家族、と言うには責任がなさすぎた。
 本当は、もう少し長く、将大の隣で同じ失敗を背負う人間でいたかった。
 けれど恭佑は、その場所から自分で降りた。
 関わっていることと、隣に立てることは違う。その違いを、恭佑はずっと見ないふりをしていた。

 将大がタバコを灰皿に押しつけた。
 灰皿は、空き缶を適当に潰して作ったものだった。将大はそれを「リサイクル」と、恭佑は「文明の敗北」と呼んだ。

「面接、何時?」
 恭佑が訊ねた。

「二時」
「今」
「十一時半」
「行けるじゃん」
「行けるな」

 将大はそう言って、動かなかった。

 今日は将大の面接の日だった。全国チェーンの大手ホームセンター。待遇は悪くない。受かれば勤務地は長野になる。小春(こはる)の実家から、車で二十分くらいの店だという。小春の腹が少し目立ち始めてから、将大は「お笑いをやる」と口にすることが、ほとんどなくなっていた。

「こはるさんには言ったの」
「何を」
「今日、面接だって」
「言うわけないだろ。まだ荷物まとめてないの、って詰められる」
「詰められろよ。父親になる男だろ」

 恭佑は壁を見た。よれよれのスーツが、ぎこちなくハンガーにかけられている。
 小春なら、きっとこういうところも笑って流さないのだろう。
 そういう人の前では、将大はまともな人間の顔をし始めていた。
 
「……スーツ、しわしわだぞ」
「しわも個性だろ」
「面接官に個性見せてどうすんだよ」
「味かな」
「人間味で雇われる仕事じゃない」
「じゃあ無理だ」

 恭佑は起き上がり、ちゃぶ台の上にあったエナジードリンクの空き缶を手に取った。振ると、中で残った液体がわずかに音を鳴らす。缶の底から、甘酸っぱい匂いがうっすら漂ってきた。
 昨夜、将大が「明日は面接だから景気づけ」と言って飲んだものだ。そのあとチューハイを三本空け、「景気がつきすぎた」と言って寝た。
 ちゃぶ台の端には、恭佑のノートパソコンも開きっぱなしになっていた。昨夜、引越し荷物を詰める合間に、結局ひとつもデモ作りの作業が進まなかったやつだ。

「行けよ」
 恭佑は言った。

「行ったほうがいい」
「分かってる」
「分かってるやつの動きじゃない」
「今、心の中で立ち上がってる」
「肉体も動かせって」

 将大は換気扇の下から離れ、冷蔵庫にもたれた。冷蔵庫は低い唸り声を上げていた。
 冷蔵庫には、ていねいな字で「ゴミの日、ちゃんと確認」と書かれたカレンダーが貼ってあった。少し先の日付に、大きな赤丸で「引越」と書き込まれている。将大が「小春に貼られた」と言っていたものだ。

「恭佑」
「何」
「人には愚行権(ぐこうけん)ってあるだろ」

 恭佑は空き缶を手にしたまま、将大を見た。

「急に何」
「自分にとって損なことを、自分の責任で選ぶ権利」
「それ、もう少し立派な文脈で使う言葉だぞ」
「俺が今日面接に行かないとしたら、愚行権の行使では」
「ただのバックレじゃねーか」
「言い方」
「お前の愚行は、権利っていうより滞納に近い」

 将大は笑った。笑うと、少しだけ若く見えた。恭佑はその顔を見るのが嫌いではなかった。嫌いではないから、余計に腹が立つことがある。

 こいつは、ちゃんとすれば何とかなる。

 そう思っている時点で、自分も同じ場所に留まっているのだろう。ちゃんとすれば何とかなる人間が、できなかったからここにいる。能力がないのではない。意志がないのでもない。ただ、朝起きて顔を洗い必要な場所へ行くという、普通の人間が普通にしていることの接続が、どこか錆びついて上手くいかない。

「じゃあ聞くけど」
 将大が言った。

「お前は今日、何する予定だったんだよ」
「俺?」
「そう。俺の面接を監視する以外で」

 恭佑は答えようとして、言葉に詰まった。

 バンドの新曲を詰める。ライブハウスに連絡する。シフト希望を送る。作りかけのデモを仕上げる。知り合いから回ってきた短編映画の劇伴(げきばん)募集に、問い合わせを入れる。

 やるべきことはいくらでもあった。
 だから何もしていなかった。

「缶、捨てるとか?」
 恭佑は言った。

「小さいな」
「お前の面接よりは実現可能性が高い」
「木曜だろ」
「今日まとめる」
「月曜に木曜の準備をする人間、怖いな」
「社会復帰の第一歩だよ」

 恭佑は立ち上がった。足の裏に畳のささくれが引っかかった。台所の下から半透明のゴミ袋を取り出し、空き缶を入れていく。
 缶を拾うたび、ギターの弦で硬くなった指先に、アルミの薄い冷たさが触れた。エナジードリンクの缶は軽く、チューハイの缶はなぜか少し重く感じる。アルコール度数ではなく、昨日の自分たちの重さが残っている気がした。

 将大は黙って見ていた。

「手伝えよ」
「俺、今から面接行く人間だから」
「まだ行ってない人間だろ」
「精神的にはもう御社(おんしゃ)にいる」
「御社の前にこの缶を持てって」

 将大は渋々、床の缶を拾った。二人で部屋の中を見回すと、思っていたより空き缶は多かった。カーテンの裏に一本、ベッドの下に二本、玄関に一本。そこまで集めて、数えるのをやめた。数には、責任が発生する。
 缶をまとめると、袋はずっしり重くなった。

「生活の音がするな」

 将大が袋を持ち上げると、中で缶がぶつかって安っぽい金属音が鳴った。
 その軽い音で、恭佑はふいに昔のことを思い出した。まだ将大とコンビを組んでいた頃、インディーズの企画ライブで拍手が跳ね返ってきた夜のことだ。人生を勘違いするくらいにウケた。
 あの日だけは、二人とも本当に、何かになれるような気がしていた。

 恭佑は玄関のドアを開けた。
 外の廊下は昼前の光で白く濁っていた。隣室のドアには、古い宅配便の不在票が挟まったままになっている。階段のほうからは、切り忘れた目覚まし時計のアラーム音が響いていた。生活は、どの部屋でも少しずつ失敗している。

 サンダルを履き、袋を持って階段を下りた。
 ゴミ置き場はアパートの脇にある。錆びた金網の箱で、カラスよけのネットがかけられていた。中にはすでに、分別の怪しい袋がいくつか置かれている。将大は缶の袋を入れようとして、手を止めた。

「資源の日、木曜だよな」
「そうだな」
「今日出したら駄目だよな」
「普通はな」

 二人はゴミ袋を持ったまま、箱の前で立ち尽くした。

 初夏の空気はぬるかった。前乗せ用のチャイルドシートに小さな子どもを乗せた自転車が、車道を通り過ぎていった。笑い声が遠ざかる。恭佑は、自分が社会のどの時間帯にも所属していないことを唐突に意識した。通勤の時間でも、昼休みでも、下校時刻でもない。二十六にもなって、平日の昼前に缶の袋を持って立っている。

 将大がぼそりとつぶやいた。

「戻すか」
「戻したら負けだろ」
「何に」
「木曜に」

 将大はしばらく黙り、それから言った。

「じゃあ、部屋の外に置いておく。で、思い出したら木曜に捨てる」
「お前が木曜を覚えてるわけないだろ」
「失礼だな。父親になる男だぞ」
「可能性に生活を賭けるな」

 恭佑は袋を持ち直した。缶が鳴る。妙に腹が立って、妙に笑えてきた。

「じゃあ、こうしよう」
 恭佑は言った。

「お前は面接に行く。缶は木曜に捨てる。どっちか成功したらプレモルで乾杯。両方成功したら、焼肉」
「どっちも失敗したら?」
「ひたすら反省しろ」
一番(いっちゃん)ありそう」

 何がそんなにおかしいのか、将大はしばらく肩を揺らしていた。
 くだらない。
 本当にくだらない。

 けれど、くだらない約束ほど、指に引っかかることがある。
 空き缶を捨てるとか、晩飯をおごるとか。人生を変えるには足りないけれど、部屋から出る理由くらいにはなる。

 
 部屋に戻ると、将大はスーツを着た。
 やはりしわしわだった。肩に少し余った上着のせいで、いつもより頼りなく見える。ネクタイも少し曲がっていた。

「将大」
 こっちへ来い、と指先だけで手招きすると、将大は恭佑の正面で軽く顎を上げた。近くで見ると、寝不足のせいか目の下が薄く青い。
 
 ネクタイの結び目を直すあいだ、将大は珍しく黙っていた。
 恭佑の指のすぐ先で、将大が一瞬息を止める。何かを言うより先に、片方の口角だけが少し上がった。

 昔からそうだった。舞台に出る前も、解散を切り出した夜も。
 本気の話をする直前、将大はいつも笑う準備をした。
 あの夜も、肝心なことを言う前に笑おうとしたのを覚えている。笑うなよ、と思ったことも。
 たぶん今も、何かを冗談に変えようとしている。
 恭佑も、聞かないでいる。
 
 恭佑が直し終わると、将大は眉を寄せた。

「近い」
「仕方ないだろ、ネクタイ曲がってたんだから」
「母親かよ」
「母親なら泣いてる」
「じゃあ何」

 恭佑は手を止めた。
 何だろう、と思った。

 友達。腐れ縁。元相方。元相方、という言葉だけは、まだ少し痛かった。
 けれど、それでも足りなかった。

 将大の人生に残れるなら、恭佑は、席の名前なんて何でもよかった。
 それが何と呼ばれるものなのか、自分でもよく分からないまま。

「観客」

 恭佑は言った。
「お前がちゃんと失敗するところを、最後まで見てる観客」

 将大は目を細めた。

「成功したら?」
「そのときは席を立つ」
「うわー薄情ー」
「成功者の物語は他でやってる」

 将大は玄関で靴を履いた。革靴の先は傷だらけだったが、磨けばまだ見られる程度ではあった。
 
「じゃあ、行ってくる」
「行け」
「落ちたら?」
「帰ってこい」
「受かったら?」
「こはるさんとこ行け」
「現実的だな」
「まあ、どっちでも、連絡しろ」

 将大は口元を軽く緩ませると、ドアを開けた。

 その背中は、換気扇の前に立っていたときより、ほんの少しだけまっすぐだった。たぶん気のせいだ。そういうことにしておいたほうがいい。

 ドアが閉まると、部屋は急に静かになった。

 恭佑は台所に立ち、換気扇のスイッチを切った。死にかけの虫の羽音が止まる。空気はまだタバコ臭かった。畳も、カーテンも、服も、きっと自分の髪も臭い。

 窓の外からは、駅前行きのバスの発車音がかすかに聞こえた。
 玄関の外には、資源ゴミの袋。忘れられなければ、木曜には捨てられる。

 恭佑はちゃぶ台に戻り、ノートパソコンを開いた。画面には、知り合いから送られてきた短編映画の劇伴募集のメールが開きっぱなしになっていた。ギャラは安い。名前も小さくしか出ない。バンドの客を増やす助けにもならない。けれど、自分の音が、誰かの創った()の後ろで鳴る。

 それを欲しいと思ってしまったことに、悪い気はしなかった。

 メールの末尾には、担当者の電話番号が載っていた。恭佑はスマホを手に取った。充電は六パーセントだった。

 電話をかけるかどうか、しばらく迷った。

 人には愚行権がある。
 電話をかけない権利も、曲を送らない権利も。

 けれど、たぶん。
 愚行権には、愚行をやめる権利も含まれている。

 さっきドアの向こうへ消えた将大の背中が、まだ目の裏に残っていた。
 恭佑は電話番号を押した。呼び出し音が鳴る。

 一回。
 二回。
 三回。

 その間に、玄関の外で缶の袋が風に揺れて、かすかに音を立てた。
 呼び出し音の隙間に混じった空き缶の音は、部屋の中にはもう戻ってこなかった。