片手に綿を持ち、カラカラと、母が輪についた取ってを回す。
『おかあさま、なにをなさっているの?』
幼い瑠璃が尋ねれば、母は笑って答えてくれた。
『糸を紡いでいるのよ』
綿を持った左手を少し後ろに引きながら、同じペースで糸車を回し続ける。すると、大きな輪での運動が綿に伝わって、それは糸となってつむに巻き取られていく。
不思議だ、と瑠璃は思った。
まるで母が呼んでくれた本に出てきた『まほう』のようだ、と瑠璃は思った。
そしてそんな『まほう』を使える自分の母は、とても素敵な人であるように瑠璃には思えた。
『誰かを想って糸を紡ぐとね、その糸は、誰かを守る力になるのよ』
紫乃は、瑠璃の頭を優しく撫でて笑う。この世界で一番大切なのは、私の宝物は貴方だと、そう伝えるかのように。
銀色の髪に、色素の薄い青の瞳。
母は桜霞の国の人間とは少し違う見目をしていたが、それでも瑠璃は、母のことが大好きだった。
『おねがいするの?』
『そう。愛しい人が無事に帰ってきますように。健康で、ずっと長生きしてくれますように。幸せでいてくれますように。そうやって祈りながら糸を紡いで、その糸で縫うとね、思いが人を守ってくれるの』
糸を紡ぐときに少しだけ、母の瞳には薄い紫色に見える瞬間があった。
糸を紡ぐ母を知るのは瑠璃だけだから、それは自分の記憶違いだろうと瑠璃は思うけれど――ただカラカラと楽しそうに糸車を回すその姿は、まるでお伽噺のお姫様みたいだ、と瑠璃は思った。
『人の祈りには、その力があるのよ』
瑠璃の母の両親は分からない。彼女は捨て子で、瑠璃の父とは偶然の出会いだったという話はうっすら母から瑠璃は聞いたが、母とは違う女を迎えて、その女は瑠璃たち親子につらく当たり、父はそんな女を責めもせず――ついにはその女と子供まで成してしまった。
だから瑠璃にとって、信じられるのは母だけだった。
母だけが、瑠璃にとってのすべてだった。
自分を愛してくれる人。瑠璃は、母が与えてくれるすべてが好きだった。瑠璃は、母が笑ってくれるのが好きだった。
幼い瑠璃にとって、母だけが、瑠璃の世界のすべてだった。
『るりも。るりも、できる?』
だから――だから。
『るりも、おかあさまにつくりたい』
『教えてあげる。じゃあ、この綿を持って――』
あの頃は信じていたのだ。
いつまでも、自分と母はともにあれると。
父が自分たちに関心を寄せなくなっても、継母に嫌われて、父がその女との間に子供ができても。
母さえ生きていれば、母さえそばにいてくれさえしたら、瑠璃は心を守ることができた。
自分は、生きている意味があるのだとそう思えた。
「……おかあさま」
朝だ。
瑠璃は、眠気眼をこすって、それからいつものようにその髪飾りを見て頭を下げた。
一針一針丁寧に縫われた刺繍の施された髪飾りは、今の少女たちが身に着けるには、少しだけ古めかしい。
「おはようございます。『お母様』」
■
「姉様! 何をなさっているの?」
「糸を紡いでいるの」
いつものように家族での食事を終えてから、瑠璃は部屋に戻って糸車を回していた。
橘の屋敷に、瑠璃のものはほとんどなく、花嫁として一條家に持ってきたもののなかに瑠璃の愛用品はほとんど無かったが、この糸車は別である。
これは伊織が瑠璃の誕生日にかつて贈ってくれたもので、瑠璃が橘の屋敷にいる頃から大事にしていた品だ。
「お姉様は、手先が器用なのね」
沙良は、立ったまま糸車のそばを歩いて回った。
どうやら気になるらしい。瑠璃がちらっと沙良をみると、そわそわした様子の沙良が瑠璃に言った。
「ねえ、瑠璃お姉様。私もやってみていい?」
「ええ、勿論」
瑠璃は、にこっと笑って沙良と場所を移動した。
「この綿を持ってね。それから、少しだけ後ろに引くようにして、少しだけ綿を出しながら取っ手を回すの」
沙良の手に自分の手を重ねながら教えてやる。沙良は、不慣れな手つきながらも楽しそうだ。何かに挑戦する、ということが、もしかしたら沙良は好きなのかもしれないと瑠璃は思った。
だが、糸を紡ぐにはコツがいる。
沙良はなかなか感覚がつかめないようで、何度も瑠璃に助けを求めた。
「瑠璃お姉様、駄目。だまになるわ」
取っ手を回す速度に波があるのかもしれないし、綿から繰り出す量が異なるのかもしれない。
「瑠璃お姉様、糸が切れてしまったわ!」
同様に、糸車を回す速さと左手の動きがうまくいっていないのだろう。
「瑠璃お姉様……っ! 糸が太くなって戻らないわ!」
一度太くなった糸を下の太さに戻すには、最初からやり直したほうが得策だ。
「瑠璃お姉様!!!!」
助けて! と言わんばかりの瞳で見つめられ、瑠璃は少し面白くなってしまった。
「ふふ」
「笑わないで、瑠璃姉様」
「だって、あまりにも可愛くて……」
瑠璃は幼い頃の自分も、母に同じことを言ったような気がした。
(母様も、同じ気持ちだったのかしら……)
「何度でも教えるわ。だから、もう一度やってみる?」
「うん! ありがとう。瑠璃お姉様!」
■
昼間、つきっきりで沙良に指導をしていた瑠璃は、その夜一人ランプの明かりの前に正座していた。
(橘の家にいたときは、油が貴重で夜は早めに寝るようにしていたけれど、今はこんな物があるのね)
桜霞国には妖魔が出る。一條家は、その妖魔を退治するのが昔からの役目。ただ今、この国は他国との交流を始めている。
他国の文化は優れており、桜霞国は自国でも取り入れられないか研究を進めているらしい。
いつか牙を向くかもしれない敵は、妖魔だけとは限らない。
(難しい問題よね)
目指すべきは国防と発展だ。
自国の文化を保ちながら、他国の良さを受け入れる。そのまま利用するのではなく、他国の製品を改良するのもよいだろう。
伊織から聞いた話によると、他国の織り機は桜霞国とは少し違っているらしい。一つだけ買うことができたらしく、有識者たちが今それを桜霞国に合わせた素材で複製して大量生産できるよう動いているとのことだった。
(……伊織様)
一條伊織は、常に先を見て物事を話す男だった。
他国の文化を柔軟に取り入れたら、この国は、桜霞国はより強くなれるのだと彼は信じていた。
彼は、違う国の言葉も学んでいた。一條家の長男ということもあり、外交の席に今後立つこともあるかもしれないから、と伊織は笑っていた。
瑠璃は、そんな伊織を心から信頼して尊敬していた。
香月のような物理的な強さがなかったとしても、伊織という人は、その存在そのものが、この国を変化させ、守ってくれる人のように瑠璃には思えた。
時折先を歩きすぎて、瑠璃の考え方及ばずに話についていけずに置いていかれそうに感じてしまう瞬間はあったけれど、瑠璃がお願いすれば、伊織は必ず立ち止まって、瑠璃に合わせて話をしてくれた。
(駄目駄目。伊織様のことを考えるのはやめなくては。……これからは針を使うのだから)
瑠璃は頭《かぶり》をふると、青い布と自らが紡いだ糸を取り出した。
一條家の家紋は梅の花。
藍染の手巾に施す刺繍など、ありふれたものかもしれないが、今の瑠璃に用意できるのはこれくらいしかない。
(せめて、気持ちを込めて縫おう)
一針、一針。
香月の健康、無事、長寿を祈って針を通す。
日中と比べ、春の夜《よ》は静かな冷気を孕んでいる。
厳しい冬の後に、春の訪れを告げるかのように咲く白い梅の花のように、どうかこの花が、香月の心を少しでも和ませてくれることを瑠璃は願った。
朝、仕事に向かう前の香月に渡せば、香月は、瑠璃から渡された手巾を両手で受け取った。
「瑠璃さんが……これを、私に……?」
「はい。こんなお礼しかできず、申し訳ありませんが……」
瑠璃の予想より、香月は瑠璃からの贈り物を喜んでくれているように瑠璃には見えた。
「ありがとう、ございます」
香月は、珍しく言葉に詰まっていた。
はっきり話す香月が、少し考えるように話すのは、いつも瑠璃の前だけだった。
真面目という画面を常につけたような仏頂面で、あまり表情が変わらないと家族に言われる香月は、今はほんのりと頬を赤く染めて、緩みかける口元を手で隠していた。
「……絶対に、大切にいたします」
珍しい、と沙良が口にしていた笑顔を浮かべ、香月は瑠璃に礼を述べた。
『おかあさま、なにをなさっているの?』
幼い瑠璃が尋ねれば、母は笑って答えてくれた。
『糸を紡いでいるのよ』
綿を持った左手を少し後ろに引きながら、同じペースで糸車を回し続ける。すると、大きな輪での運動が綿に伝わって、それは糸となってつむに巻き取られていく。
不思議だ、と瑠璃は思った。
まるで母が呼んでくれた本に出てきた『まほう』のようだ、と瑠璃は思った。
そしてそんな『まほう』を使える自分の母は、とても素敵な人であるように瑠璃には思えた。
『誰かを想って糸を紡ぐとね、その糸は、誰かを守る力になるのよ』
紫乃は、瑠璃の頭を優しく撫でて笑う。この世界で一番大切なのは、私の宝物は貴方だと、そう伝えるかのように。
銀色の髪に、色素の薄い青の瞳。
母は桜霞の国の人間とは少し違う見目をしていたが、それでも瑠璃は、母のことが大好きだった。
『おねがいするの?』
『そう。愛しい人が無事に帰ってきますように。健康で、ずっと長生きしてくれますように。幸せでいてくれますように。そうやって祈りながら糸を紡いで、その糸で縫うとね、思いが人を守ってくれるの』
糸を紡ぐときに少しだけ、母の瞳には薄い紫色に見える瞬間があった。
糸を紡ぐ母を知るのは瑠璃だけだから、それは自分の記憶違いだろうと瑠璃は思うけれど――ただカラカラと楽しそうに糸車を回すその姿は、まるでお伽噺のお姫様みたいだ、と瑠璃は思った。
『人の祈りには、その力があるのよ』
瑠璃の母の両親は分からない。彼女は捨て子で、瑠璃の父とは偶然の出会いだったという話はうっすら母から瑠璃は聞いたが、母とは違う女を迎えて、その女は瑠璃たち親子につらく当たり、父はそんな女を責めもせず――ついにはその女と子供まで成してしまった。
だから瑠璃にとって、信じられるのは母だけだった。
母だけが、瑠璃にとってのすべてだった。
自分を愛してくれる人。瑠璃は、母が与えてくれるすべてが好きだった。瑠璃は、母が笑ってくれるのが好きだった。
幼い瑠璃にとって、母だけが、瑠璃の世界のすべてだった。
『るりも。るりも、できる?』
だから――だから。
『るりも、おかあさまにつくりたい』
『教えてあげる。じゃあ、この綿を持って――』
あの頃は信じていたのだ。
いつまでも、自分と母はともにあれると。
父が自分たちに関心を寄せなくなっても、継母に嫌われて、父がその女との間に子供ができても。
母さえ生きていれば、母さえそばにいてくれさえしたら、瑠璃は心を守ることができた。
自分は、生きている意味があるのだとそう思えた。
「……おかあさま」
朝だ。
瑠璃は、眠気眼をこすって、それからいつものようにその髪飾りを見て頭を下げた。
一針一針丁寧に縫われた刺繍の施された髪飾りは、今の少女たちが身に着けるには、少しだけ古めかしい。
「おはようございます。『お母様』」
■
「姉様! 何をなさっているの?」
「糸を紡いでいるの」
いつものように家族での食事を終えてから、瑠璃は部屋に戻って糸車を回していた。
橘の屋敷に、瑠璃のものはほとんどなく、花嫁として一條家に持ってきたもののなかに瑠璃の愛用品はほとんど無かったが、この糸車は別である。
これは伊織が瑠璃の誕生日にかつて贈ってくれたもので、瑠璃が橘の屋敷にいる頃から大事にしていた品だ。
「お姉様は、手先が器用なのね」
沙良は、立ったまま糸車のそばを歩いて回った。
どうやら気になるらしい。瑠璃がちらっと沙良をみると、そわそわした様子の沙良が瑠璃に言った。
「ねえ、瑠璃お姉様。私もやってみていい?」
「ええ、勿論」
瑠璃は、にこっと笑って沙良と場所を移動した。
「この綿を持ってね。それから、少しだけ後ろに引くようにして、少しだけ綿を出しながら取っ手を回すの」
沙良の手に自分の手を重ねながら教えてやる。沙良は、不慣れな手つきながらも楽しそうだ。何かに挑戦する、ということが、もしかしたら沙良は好きなのかもしれないと瑠璃は思った。
だが、糸を紡ぐにはコツがいる。
沙良はなかなか感覚がつかめないようで、何度も瑠璃に助けを求めた。
「瑠璃お姉様、駄目。だまになるわ」
取っ手を回す速度に波があるのかもしれないし、綿から繰り出す量が異なるのかもしれない。
「瑠璃お姉様、糸が切れてしまったわ!」
同様に、糸車を回す速さと左手の動きがうまくいっていないのだろう。
「瑠璃お姉様……っ! 糸が太くなって戻らないわ!」
一度太くなった糸を下の太さに戻すには、最初からやり直したほうが得策だ。
「瑠璃お姉様!!!!」
助けて! と言わんばかりの瞳で見つめられ、瑠璃は少し面白くなってしまった。
「ふふ」
「笑わないで、瑠璃姉様」
「だって、あまりにも可愛くて……」
瑠璃は幼い頃の自分も、母に同じことを言ったような気がした。
(母様も、同じ気持ちだったのかしら……)
「何度でも教えるわ。だから、もう一度やってみる?」
「うん! ありがとう。瑠璃お姉様!」
■
昼間、つきっきりで沙良に指導をしていた瑠璃は、その夜一人ランプの明かりの前に正座していた。
(橘の家にいたときは、油が貴重で夜は早めに寝るようにしていたけれど、今はこんな物があるのね)
桜霞国には妖魔が出る。一條家は、その妖魔を退治するのが昔からの役目。ただ今、この国は他国との交流を始めている。
他国の文化は優れており、桜霞国は自国でも取り入れられないか研究を進めているらしい。
いつか牙を向くかもしれない敵は、妖魔だけとは限らない。
(難しい問題よね)
目指すべきは国防と発展だ。
自国の文化を保ちながら、他国の良さを受け入れる。そのまま利用するのではなく、他国の製品を改良するのもよいだろう。
伊織から聞いた話によると、他国の織り機は桜霞国とは少し違っているらしい。一つだけ買うことができたらしく、有識者たちが今それを桜霞国に合わせた素材で複製して大量生産できるよう動いているとのことだった。
(……伊織様)
一條伊織は、常に先を見て物事を話す男だった。
他国の文化を柔軟に取り入れたら、この国は、桜霞国はより強くなれるのだと彼は信じていた。
彼は、違う国の言葉も学んでいた。一條家の長男ということもあり、外交の席に今後立つこともあるかもしれないから、と伊織は笑っていた。
瑠璃は、そんな伊織を心から信頼して尊敬していた。
香月のような物理的な強さがなかったとしても、伊織という人は、その存在そのものが、この国を変化させ、守ってくれる人のように瑠璃には思えた。
時折先を歩きすぎて、瑠璃の考え方及ばずに話についていけずに置いていかれそうに感じてしまう瞬間はあったけれど、瑠璃がお願いすれば、伊織は必ず立ち止まって、瑠璃に合わせて話をしてくれた。
(駄目駄目。伊織様のことを考えるのはやめなくては。……これからは針を使うのだから)
瑠璃は頭《かぶり》をふると、青い布と自らが紡いだ糸を取り出した。
一條家の家紋は梅の花。
藍染の手巾に施す刺繍など、ありふれたものかもしれないが、今の瑠璃に用意できるのはこれくらいしかない。
(せめて、気持ちを込めて縫おう)
一針、一針。
香月の健康、無事、長寿を祈って針を通す。
日中と比べ、春の夜《よ》は静かな冷気を孕んでいる。
厳しい冬の後に、春の訪れを告げるかのように咲く白い梅の花のように、どうかこの花が、香月の心を少しでも和ませてくれることを瑠璃は願った。
朝、仕事に向かう前の香月に渡せば、香月は、瑠璃から渡された手巾を両手で受け取った。
「瑠璃さんが……これを、私に……?」
「はい。こんなお礼しかできず、申し訳ありませんが……」
瑠璃の予想より、香月は瑠璃からの贈り物を喜んでくれているように瑠璃には見えた。
「ありがとう、ございます」
香月は、珍しく言葉に詰まっていた。
はっきり話す香月が、少し考えるように話すのは、いつも瑠璃の前だけだった。
真面目という画面を常につけたような仏頂面で、あまり表情が変わらないと家族に言われる香月は、今はほんのりと頬を赤く染めて、緩みかける口元を手で隠していた。
「……絶対に、大切にいたします」
珍しい、と沙良が口にしていた笑顔を浮かべ、香月は瑠璃に礼を述べた。

