「あ……朝……朝ご飯!」
朝、部屋に差し込んだ陽の光と鶏の声で目を覚ました瑠璃は、見慣れない室内を見て跳ね起きた。
「早く行かなければ!」
婚家の朝食は早起きして用意するのだと聞いていたのに、すっかり眠ってしまっていた。これもすべて、昨日の疲労と、実家より明らかに高い質の良すぎる布団のせいだ。
(どうしよう。嫁いで早々、悪く思われるわけにはいかないのに)
だが、瑠璃が急いで身支度を整え炊事場へ向かおうとしたところ、廊下の向こうから走ってきた少女に、瑠璃は押し倒された。
「おねーさま!!!」
「きゃっ!」
瑠璃は、いたたと頭を押さえたあとに、自分の上に乗っかった少女を見てぎょっとした。
「おはようございます。お目覚めですか? 瑠璃お姉様!」
(だ……誰!?)
花の盛りとはいえ、桜の花をふんだんにあしらった着物は、明らかに瑠璃から見て派手だ。
「その……貴方は……?」
瑠璃が困り顔で尋ねれば、少女は捨てられた犬のように悲しそうな目をして瑠璃を見つめてきた。
「瑠璃お姉様は、沙良をご存じではないのですか……?」
知っていて当然、という口ぶり。
その言葉を聞いて、瑠璃のなかである人物が頭に浮かんだ。彼女はまさか、伊織と香月の――?
「こらこら、わが家に新しくやってきたお姉様を、そう困らせてはいけないでしょう」
瑠璃が、自分の予想釜あっているか確かめようとしたところで、遅れてやってきた女性が瑠璃の腕をつかんで立たせた。
「おはよう。いい朝ね。昨日はよく眠れたかしら?」
「美月お母様、手を離してください!」
少女が、顔を顰めて叫ぶ。だが、女性は表情一つ変えずに瑠璃に微笑んだ。
瑠璃は、その名を聞いてすぐさま姿勢を正して頭を垂れた。
「お、おはようございます! 今日は朝から起きることができず、申し訳ございません!」
――失態だ。
瑠璃は、廊下に頭をつける勢いで頭を下げながら心臓の鼓動を早くしてた。
一條美月――目の前の女性は、昨日嫁いだ夫の実の母、つまり瑠璃の姑に当たる女性なのだ。
(駄目だ。早速お義母様に嫌われてしまうなんて――)
「堅苦しい挨拶は必要ないわ」
だが瑠璃の心配をよそに、美月はからりと笑って、今度は瑠璃の手を引いて立ち上がらせた。
「ところで瑠璃ちゃん。朝ご飯だけど、嫌いなものはあったかしら?」
■
朝寝ぼうのため朝食づくりを怠り、挨拶さえ失敗した。
ひどい実績を受けると思っていた瑠璃だったが、予想に反して、一條家の人間たちは瑠璃を温かく迎えいれた。
美月と少女、二人に伴われ広間に向かった瑠璃は、そこに用意された豪華な料理に目を瞬かせた。
白い白米、湯気のたつ具沢山の味噌汁、旬の筍を鰹節で和えたものに、まるで祝いの席に出るような鯛。料理は一つに収まりきらず、瑠璃の分だけ三つに分けられ、それが金の蒔絵の施された黒漆の膳にならべられている。
(でもこれは……本当に、私が食べていいものなの?)
橘の屋敷で一人離れに暮らしていたときは、僅かな食料と庭で育てた粗末な野菜を食べるしかなかった瑠璃にとって、目の前にある一食分の量だけで、数日分は食べていけそうだった。
そんな瑠璃の考えはしらない美月は、甲斐甲斐しく瑠璃に世話を焼くと、にっこりと微笑んだ。
「さあ、瑠璃ちゃん。これはね、貴方のために用意したのよ。どうか、沢山食べてちょうだい!」
瑠璃は手を合わせると、まずはきらきらと輝く白米を口に含んだ。一粒も形の崩れていない米を食べたのは、瑠璃は本当に久しぶりだった。母が亡くなってから、麦や虫のわいた米ばかりしか、瑠璃は食べていなかったから。
「……美味しい」
一口食べて、瑠璃はつい鼻の奥がジンと熱くなった。
食卓に並ぶまで、関わってきた全ての人間の愛情が伝わってくるような味だ。一人の人間として、尊重されていると思えるような味だ。
「まあ、なんてこと! そんなに喜んでくれるなんて。よかった。今日は早起きして、瑠璃ちゃんのために作った甲斐があったわ!」
涙をこぼすのをぐっとこらえていた瑠璃だったが、美月の言葉に瑠璃は思わず箸を落としそうになった。
「お……お義母様が!?」
「そうなの! どうしても、今日の朝は瑠璃ちゃんに私の料理を食べてほしくて! 好き嫌いとかはなかったのよね? 今日の朝食、食べれないものはないわね?」
「はい。特にそのようなものは――」
食べ物が無く、橘家の嫡女でありながらひもじい思いをしてきた瑠璃は、好き嫌いなど口にできる環境ではなかった。
「そう。よかった。じゃあ、これからは美味しいものを沢山一緒に食べましょうね」
「……はい」
広間には、瑠璃の分以外に、六つの席が用意されていた。
「貴方のお屋敷では誓ったかもしれないけれど、うちはみんなで朝ごはんを食べるのが決まりなの。伊織は、朝から先に食べてもう出てしまっているけれど」
美月はそう言うと、改めて瑠璃に優しく微笑んだ。
「そういえば、挨拶がまだだったわね。改めて挨拶をするわ。私は、一條美月。貴方の夫である香月の母であり、一條家の現当主である、宗次郎様の第二夫人よ」
美月は、香月とは違い明るい笑みを浮かべた。
続いて、桜の着物を着た少女が、興奮気味に瑠璃に挨拶をする。
「私は、一條沙良。お母様は、三番目にお父様を嫁いだの。お母様のお名前は双葉というの」
「美月お義母様、沙良さんに、双葉お義母様……?」
つまり、この膳のうち一つは、双葉のものなのだろう。でも、どうしていないのか。まさか、自分が嫌われているせいだろうか――と瑠璃が思ったところで、まだ寝癖の残る髪で、少し着物の喜くずれた女性が、よろよろと現れ空いていた席に座った。
(…………!?!?)
瑠璃は、心情を顔に出さないように必死になった。
桜霞国の御三家――一條の家の第三夫人とは思えない風貌の女性である。
「もう、お母様ったら! 本当にいつもお寝坊さんなんだから」
沙良はそう言うと、櫛を取り出して、手早く母の身なりを整える。
双葉は自分の支度は娘に任せ、早速もぐもぐと小さく口を空けて、料理を口に運んでいた。
そして双葉は、驚きのあまり凝視してしまっていた瑠璃に気付いて、ふわ、と花が咲いたように笑った。
柔らかな春の風。少し癖のある髪でさえ、彼女の長所であるかのように、一瞬で人を引きつける魔性の笑み。
瑠璃は、双葉に微笑まれてつい顔を赤らめた。それからすぐに彼女から視線をそらす。
(……ふ……不思議な魅力のあるお方だわ!)
「いつもは、どなたが一緒に召し上がっていらっしゃるのですか?」
「私と旦那様、沙良ちゃんと香月、双葉様と――」
美月はさらさらと名前を上げた。今のところ五人だ。
「――それから、詩織様の分ね」
少しの間の後に、美月は静かに言った。
「詩織お母様は今日はいらっしゃらないけれど、以前は一緒にお食事をとっていらしたわ」
「……」
『一條詩織』
それは、一條家の第一夫人――正妻にあたる女性の名前である。
女性の割に身長が高く、涼やかな外見を持つ彼女は若くして宗次郎に嫁ぎ、伊織という嫡男を産んだ。
宗次郎によく似た見目の伊織は次期当主として認められたが、その後嫁いできた美月がすぐに香月を産んだのだと、瑠璃は伊織から話を聞いたことがあった。
伊織から聞く限り、宗次郎の三人の妻達の仲は悪くないと思っていたが、実の息子である伊織に嫁ぐはずだった瑠璃が、第二部人の息子に嫁いだのだから、席を外したくなるのも仕方がないのかもしれない。
(詩織、お義母様……)
あまり話したことこそなかったが、瑠璃の記憶では、伊織の母は厳格そうには見えたが厳しいだけの人ではなかった。伊織と庭を歩いていた時に、宗次郎と詩織が二人歩いている姿を瑠璃は見たことがある。
その時の彼女は花を愛で微笑んでいて、それでいて所作は美しかった。詩織はめったに笑わないらしく、笑うのは夫である宗次郎の前だけらしい。伊織は「母は不器用な人なんです」と笑っていたが、彼が話してくれた母の話を聞く限り、彼女が愛情深い人であることは明らかだった。
(でも、どうしようもない。伊織様は、もういないんだもの)
瑠璃に何ができるというのか。
今更、もうこの世にない男と結婚しろと言われたら、それはそれで酷な話だ。
母が亡くとも、不義の子と噂する輩がいても、瑠璃は公には橘家の嫡女。しかも長女である瑠璃が、無名の輩に嫁ぐことも、冥婚を行うことも出来るはずがない。
「おやおや。さっそく皆で新しい家族を出迎えてくれていたのかい? 流石、私の愛しい花たちだ」
瑠璃が考え込んでいると、明るい声が広間に響き渡った。
「お父様!」
「旦那様」
「……」
もくもくとご飯を食べていた双葉は、黙って少し頭を下げた。自由が過ぎる。瑠璃はそう思いつつ、橋を置いて美月にしたように深く頭を下げた。
「おはようございます。お義父様」
宗次郎は、美月と同じように瑠璃の行動に少し驚いてから、明るい声で笑った。
「顔を上げて。そうかしこまる必要はないよ。僕たちは、もう家族なんだから。瑠璃ちゃん、昨夜はよく眠れたかな?」
「瑠璃ちゃ……?」
義理の父である宗次郎に予想外の呼び方をされ、瑠璃は思わず目を瞬かせた。
(私……もしかして今、宗次郎お義父様に「瑠璃ちゃん」と呼ばれたの!?)
「おや、お気に召さなかったかな? では、なんと呼ばれるのが好みかい? 君のような美しい女性になら、僕はなんと呼ばれても嬉しいけれど」
宗次郎は巷でも有名な女たらしだ。
一夫一妻が基本の桜霞国において、正式に妻を複数とることができるのは、皇族と御三家のみ。とはいえ、現在の御三家の中で、妻が三人もいるのは彼だけである。
「お父様。瑠璃お姉様から離れてくださいませ」
「嫁に手を出すなんて、旦那様といえど許しませんよ」
「そんなつもりはなかったんだけれど」
宗次郎は、困ったなと頬をかいた。
「ごめんね。君を困らせてしまったかな?」
「い、いえ……っ!」
その表情が、ずっと思いを寄せていた相手と重なって見えて、瑠璃はすぐに否定した。心臓の鼓動がうるさい。
(やはりお父上ということもあり、伊織様とよく似ていらっしゃる……)
「でもよかった。君はちゃんとこの屋敷になじめたみたいだね」
「え?」
「昨晩は、ひどく怯えたような顔をしていたから。でも今は、昨日より明るく見える」
瑠璃のわずかな変化にも気付く優しさ、穏やかな話し方。
その全てに、瑠璃は懐かしさと同時に、切なさを感じざるを得なかった。
(――伊織、様……)
「お父様、あの席でお姉様に手をお振りになるのはどうかと思いました。沙良はとても恥ずかしかったです」
ただ父と息子ということもあり外見や性格は似ているようでも、何処か飄々とした雰囲気や、少し茶目っ気のあるところは、二人は違うように瑠璃は思った。
『一條伊織』は、誠実という言葉が似合う男だったのだから。
「ああ。あれは実に見ものだったね。僕が瑠璃ちゃんに好意的な態度をしたら、あんな表情をするなんて……」
一霞のことを言っているのだろう。
瑠璃は、宗次郎の言葉が少し引っかかった。
(お義父様は、一霞について何かご存知なのかしら……?)
瑠璃は母が亡くなってから、橘の屋敷からほとんど出たことがない。
故に腹違いの妹に嫌われていることは、表には出ていないはずなのに。
「和臣も、昨日はよく飲んでいたなあ。やはり、娘を嫁に出すのはあいつもだいぶ堪えたみたいだ」
「…………お父様が?」
瑠璃は目を瞬かせた。
要らない娘が嫁いぐことは、父にとって良いことでしかないだろうに。
「そうだ。仏頂面で顔に出にくいが、よく見ているとちゃんと『表情』がある。あれと僕は、学生時代の学友でね。多少の機微は読み取れるというわけさ。それに君と我が家の結婚も、その当時の頃からの話だしね」
「……え?」
瑠璃にとって一條家の婚姻は、『偶然』によるものだと思っていた。でも、父たちは、瑠璃が生まれるまえからそのつもりだったと――?
「お互いに子どもが出来たら結婚させよう、ってね。まああの時は、僕が一方的に言っていたんだけれど」
「父親同士の仲がよければ、子どもも何かと会いやすいだろう?」
「仲がよい……?」
瑠璃は首を傾げた。
一條宗次郎と、橘和臣――夫の父と自分の父が仲が良い姿などまるで想像ができない。
明るく快活で社交的ながら、一條ということで細身ながらもしっかりと筋肉がついていそうな宗次郎に対し、瑠璃の父は寡黙で読書家、笑った顔など瑠璃はほとんど見たことがない。
「僕たちは親友なんだよ。知らなかったかい?」
「しん……ゆう……」
違う国の言葉に聞こえて、瑠璃は思わずその言葉を繰り返した。
(お父様に、『友』という文字が似合わないと思ってしまう私は、親不孝な娘なのかしら……)
「そんなの、どうせお父様が言ってるだけでしょ?」
沙良は、父であるはずの宗次郎を小馬鹿にしたように笑った。
「なんて娘だ。父に対して失礼な」
それにこたえるように、宗次郎がすっと目を細める。瑠璃が同じ立場なら、父に怒られると思う場面で、沙良は一歩宗次郎に近付くと、挑発するように笑ってみせた。
「お生憎様。お父様の子だからこうなったのよ」
「そうか? それなら仕方が無いな」
「でしょ?」
(……いま、何が起きたの?)
瑠璃は、二人のやりとりが信じられずにぽかんと口を空けて見つめることしかできなかった。いがみ合っているように見えたのに、今はもう談笑している。
和気あいあい、という言葉が似合う。まるで手品のようにすら瑠璃には見えた。
そして、驚くことしかできない瑠璃をおいて、話は進んでしまうのだった。
「香月様が、お弁当をお忘れになっておりまして」
使用人が、困ったという顔をして広間にやってきた。
香月が忘れたという弁当を見て、宗次郎はちらっと瑠璃と沙良に視線を移した。
「なら、丁度いいじゃないか。沙良」
「なに? お父様」
「これからお姉様と一緒に、お兄様に弁当を届けに行ってくれるかい?」
宗次郎の言葉に、沙良派ぱあっ! っと表情を明るくしてこたえた。
「勿論!」
朝、部屋に差し込んだ陽の光と鶏の声で目を覚ました瑠璃は、見慣れない室内を見て跳ね起きた。
「早く行かなければ!」
婚家の朝食は早起きして用意するのだと聞いていたのに、すっかり眠ってしまっていた。これもすべて、昨日の疲労と、実家より明らかに高い質の良すぎる布団のせいだ。
(どうしよう。嫁いで早々、悪く思われるわけにはいかないのに)
だが、瑠璃が急いで身支度を整え炊事場へ向かおうとしたところ、廊下の向こうから走ってきた少女に、瑠璃は押し倒された。
「おねーさま!!!」
「きゃっ!」
瑠璃は、いたたと頭を押さえたあとに、自分の上に乗っかった少女を見てぎょっとした。
「おはようございます。お目覚めですか? 瑠璃お姉様!」
(だ……誰!?)
花の盛りとはいえ、桜の花をふんだんにあしらった着物は、明らかに瑠璃から見て派手だ。
「その……貴方は……?」
瑠璃が困り顔で尋ねれば、少女は捨てられた犬のように悲しそうな目をして瑠璃を見つめてきた。
「瑠璃お姉様は、沙良をご存じではないのですか……?」
知っていて当然、という口ぶり。
その言葉を聞いて、瑠璃のなかである人物が頭に浮かんだ。彼女はまさか、伊織と香月の――?
「こらこら、わが家に新しくやってきたお姉様を、そう困らせてはいけないでしょう」
瑠璃が、自分の予想釜あっているか確かめようとしたところで、遅れてやってきた女性が瑠璃の腕をつかんで立たせた。
「おはよう。いい朝ね。昨日はよく眠れたかしら?」
「美月お母様、手を離してください!」
少女が、顔を顰めて叫ぶ。だが、女性は表情一つ変えずに瑠璃に微笑んだ。
瑠璃は、その名を聞いてすぐさま姿勢を正して頭を垂れた。
「お、おはようございます! 今日は朝から起きることができず、申し訳ございません!」
――失態だ。
瑠璃は、廊下に頭をつける勢いで頭を下げながら心臓の鼓動を早くしてた。
一條美月――目の前の女性は、昨日嫁いだ夫の実の母、つまり瑠璃の姑に当たる女性なのだ。
(駄目だ。早速お義母様に嫌われてしまうなんて――)
「堅苦しい挨拶は必要ないわ」
だが瑠璃の心配をよそに、美月はからりと笑って、今度は瑠璃の手を引いて立ち上がらせた。
「ところで瑠璃ちゃん。朝ご飯だけど、嫌いなものはあったかしら?」
■
朝寝ぼうのため朝食づくりを怠り、挨拶さえ失敗した。
ひどい実績を受けると思っていた瑠璃だったが、予想に反して、一條家の人間たちは瑠璃を温かく迎えいれた。
美月と少女、二人に伴われ広間に向かった瑠璃は、そこに用意された豪華な料理に目を瞬かせた。
白い白米、湯気のたつ具沢山の味噌汁、旬の筍を鰹節で和えたものに、まるで祝いの席に出るような鯛。料理は一つに収まりきらず、瑠璃の分だけ三つに分けられ、それが金の蒔絵の施された黒漆の膳にならべられている。
(でもこれは……本当に、私が食べていいものなの?)
橘の屋敷で一人離れに暮らしていたときは、僅かな食料と庭で育てた粗末な野菜を食べるしかなかった瑠璃にとって、目の前にある一食分の量だけで、数日分は食べていけそうだった。
そんな瑠璃の考えはしらない美月は、甲斐甲斐しく瑠璃に世話を焼くと、にっこりと微笑んだ。
「さあ、瑠璃ちゃん。これはね、貴方のために用意したのよ。どうか、沢山食べてちょうだい!」
瑠璃は手を合わせると、まずはきらきらと輝く白米を口に含んだ。一粒も形の崩れていない米を食べたのは、瑠璃は本当に久しぶりだった。母が亡くなってから、麦や虫のわいた米ばかりしか、瑠璃は食べていなかったから。
「……美味しい」
一口食べて、瑠璃はつい鼻の奥がジンと熱くなった。
食卓に並ぶまで、関わってきた全ての人間の愛情が伝わってくるような味だ。一人の人間として、尊重されていると思えるような味だ。
「まあ、なんてこと! そんなに喜んでくれるなんて。よかった。今日は早起きして、瑠璃ちゃんのために作った甲斐があったわ!」
涙をこぼすのをぐっとこらえていた瑠璃だったが、美月の言葉に瑠璃は思わず箸を落としそうになった。
「お……お義母様が!?」
「そうなの! どうしても、今日の朝は瑠璃ちゃんに私の料理を食べてほしくて! 好き嫌いとかはなかったのよね? 今日の朝食、食べれないものはないわね?」
「はい。特にそのようなものは――」
食べ物が無く、橘家の嫡女でありながらひもじい思いをしてきた瑠璃は、好き嫌いなど口にできる環境ではなかった。
「そう。よかった。じゃあ、これからは美味しいものを沢山一緒に食べましょうね」
「……はい」
広間には、瑠璃の分以外に、六つの席が用意されていた。
「貴方のお屋敷では誓ったかもしれないけれど、うちはみんなで朝ごはんを食べるのが決まりなの。伊織は、朝から先に食べてもう出てしまっているけれど」
美月はそう言うと、改めて瑠璃に優しく微笑んだ。
「そういえば、挨拶がまだだったわね。改めて挨拶をするわ。私は、一條美月。貴方の夫である香月の母であり、一條家の現当主である、宗次郎様の第二夫人よ」
美月は、香月とは違い明るい笑みを浮かべた。
続いて、桜の着物を着た少女が、興奮気味に瑠璃に挨拶をする。
「私は、一條沙良。お母様は、三番目にお父様を嫁いだの。お母様のお名前は双葉というの」
「美月お義母様、沙良さんに、双葉お義母様……?」
つまり、この膳のうち一つは、双葉のものなのだろう。でも、どうしていないのか。まさか、自分が嫌われているせいだろうか――と瑠璃が思ったところで、まだ寝癖の残る髪で、少し着物の喜くずれた女性が、よろよろと現れ空いていた席に座った。
(…………!?!?)
瑠璃は、心情を顔に出さないように必死になった。
桜霞国の御三家――一條の家の第三夫人とは思えない風貌の女性である。
「もう、お母様ったら! 本当にいつもお寝坊さんなんだから」
沙良はそう言うと、櫛を取り出して、手早く母の身なりを整える。
双葉は自分の支度は娘に任せ、早速もぐもぐと小さく口を空けて、料理を口に運んでいた。
そして双葉は、驚きのあまり凝視してしまっていた瑠璃に気付いて、ふわ、と花が咲いたように笑った。
柔らかな春の風。少し癖のある髪でさえ、彼女の長所であるかのように、一瞬で人を引きつける魔性の笑み。
瑠璃は、双葉に微笑まれてつい顔を赤らめた。それからすぐに彼女から視線をそらす。
(……ふ……不思議な魅力のあるお方だわ!)
「いつもは、どなたが一緒に召し上がっていらっしゃるのですか?」
「私と旦那様、沙良ちゃんと香月、双葉様と――」
美月はさらさらと名前を上げた。今のところ五人だ。
「――それから、詩織様の分ね」
少しの間の後に、美月は静かに言った。
「詩織お母様は今日はいらっしゃらないけれど、以前は一緒にお食事をとっていらしたわ」
「……」
『一條詩織』
それは、一條家の第一夫人――正妻にあたる女性の名前である。
女性の割に身長が高く、涼やかな外見を持つ彼女は若くして宗次郎に嫁ぎ、伊織という嫡男を産んだ。
宗次郎によく似た見目の伊織は次期当主として認められたが、その後嫁いできた美月がすぐに香月を産んだのだと、瑠璃は伊織から話を聞いたことがあった。
伊織から聞く限り、宗次郎の三人の妻達の仲は悪くないと思っていたが、実の息子である伊織に嫁ぐはずだった瑠璃が、第二部人の息子に嫁いだのだから、席を外したくなるのも仕方がないのかもしれない。
(詩織、お義母様……)
あまり話したことこそなかったが、瑠璃の記憶では、伊織の母は厳格そうには見えたが厳しいだけの人ではなかった。伊織と庭を歩いていた時に、宗次郎と詩織が二人歩いている姿を瑠璃は見たことがある。
その時の彼女は花を愛で微笑んでいて、それでいて所作は美しかった。詩織はめったに笑わないらしく、笑うのは夫である宗次郎の前だけらしい。伊織は「母は不器用な人なんです」と笑っていたが、彼が話してくれた母の話を聞く限り、彼女が愛情深い人であることは明らかだった。
(でも、どうしようもない。伊織様は、もういないんだもの)
瑠璃に何ができるというのか。
今更、もうこの世にない男と結婚しろと言われたら、それはそれで酷な話だ。
母が亡くとも、不義の子と噂する輩がいても、瑠璃は公には橘家の嫡女。しかも長女である瑠璃が、無名の輩に嫁ぐことも、冥婚を行うことも出来るはずがない。
「おやおや。さっそく皆で新しい家族を出迎えてくれていたのかい? 流石、私の愛しい花たちだ」
瑠璃が考え込んでいると、明るい声が広間に響き渡った。
「お父様!」
「旦那様」
「……」
もくもくとご飯を食べていた双葉は、黙って少し頭を下げた。自由が過ぎる。瑠璃はそう思いつつ、橋を置いて美月にしたように深く頭を下げた。
「おはようございます。お義父様」
宗次郎は、美月と同じように瑠璃の行動に少し驚いてから、明るい声で笑った。
「顔を上げて。そうかしこまる必要はないよ。僕たちは、もう家族なんだから。瑠璃ちゃん、昨夜はよく眠れたかな?」
「瑠璃ちゃ……?」
義理の父である宗次郎に予想外の呼び方をされ、瑠璃は思わず目を瞬かせた。
(私……もしかして今、宗次郎お義父様に「瑠璃ちゃん」と呼ばれたの!?)
「おや、お気に召さなかったかな? では、なんと呼ばれるのが好みかい? 君のような美しい女性になら、僕はなんと呼ばれても嬉しいけれど」
宗次郎は巷でも有名な女たらしだ。
一夫一妻が基本の桜霞国において、正式に妻を複数とることができるのは、皇族と御三家のみ。とはいえ、現在の御三家の中で、妻が三人もいるのは彼だけである。
「お父様。瑠璃お姉様から離れてくださいませ」
「嫁に手を出すなんて、旦那様といえど許しませんよ」
「そんなつもりはなかったんだけれど」
宗次郎は、困ったなと頬をかいた。
「ごめんね。君を困らせてしまったかな?」
「い、いえ……っ!」
その表情が、ずっと思いを寄せていた相手と重なって見えて、瑠璃はすぐに否定した。心臓の鼓動がうるさい。
(やはりお父上ということもあり、伊織様とよく似ていらっしゃる……)
「でもよかった。君はちゃんとこの屋敷になじめたみたいだね」
「え?」
「昨晩は、ひどく怯えたような顔をしていたから。でも今は、昨日より明るく見える」
瑠璃のわずかな変化にも気付く優しさ、穏やかな話し方。
その全てに、瑠璃は懐かしさと同時に、切なさを感じざるを得なかった。
(――伊織、様……)
「お父様、あの席でお姉様に手をお振りになるのはどうかと思いました。沙良はとても恥ずかしかったです」
ただ父と息子ということもあり外見や性格は似ているようでも、何処か飄々とした雰囲気や、少し茶目っ気のあるところは、二人は違うように瑠璃は思った。
『一條伊織』は、誠実という言葉が似合う男だったのだから。
「ああ。あれは実に見ものだったね。僕が瑠璃ちゃんに好意的な態度をしたら、あんな表情をするなんて……」
一霞のことを言っているのだろう。
瑠璃は、宗次郎の言葉が少し引っかかった。
(お義父様は、一霞について何かご存知なのかしら……?)
瑠璃は母が亡くなってから、橘の屋敷からほとんど出たことがない。
故に腹違いの妹に嫌われていることは、表には出ていないはずなのに。
「和臣も、昨日はよく飲んでいたなあ。やはり、娘を嫁に出すのはあいつもだいぶ堪えたみたいだ」
「…………お父様が?」
瑠璃は目を瞬かせた。
要らない娘が嫁いぐことは、父にとって良いことでしかないだろうに。
「そうだ。仏頂面で顔に出にくいが、よく見ているとちゃんと『表情』がある。あれと僕は、学生時代の学友でね。多少の機微は読み取れるというわけさ。それに君と我が家の結婚も、その当時の頃からの話だしね」
「……え?」
瑠璃にとって一條家の婚姻は、『偶然』によるものだと思っていた。でも、父たちは、瑠璃が生まれるまえからそのつもりだったと――?
「お互いに子どもが出来たら結婚させよう、ってね。まああの時は、僕が一方的に言っていたんだけれど」
「父親同士の仲がよければ、子どもも何かと会いやすいだろう?」
「仲がよい……?」
瑠璃は首を傾げた。
一條宗次郎と、橘和臣――夫の父と自分の父が仲が良い姿などまるで想像ができない。
明るく快活で社交的ながら、一條ということで細身ながらもしっかりと筋肉がついていそうな宗次郎に対し、瑠璃の父は寡黙で読書家、笑った顔など瑠璃はほとんど見たことがない。
「僕たちは親友なんだよ。知らなかったかい?」
「しん……ゆう……」
違う国の言葉に聞こえて、瑠璃は思わずその言葉を繰り返した。
(お父様に、『友』という文字が似合わないと思ってしまう私は、親不孝な娘なのかしら……)
「そんなの、どうせお父様が言ってるだけでしょ?」
沙良は、父であるはずの宗次郎を小馬鹿にしたように笑った。
「なんて娘だ。父に対して失礼な」
それにこたえるように、宗次郎がすっと目を細める。瑠璃が同じ立場なら、父に怒られると思う場面で、沙良は一歩宗次郎に近付くと、挑発するように笑ってみせた。
「お生憎様。お父様の子だからこうなったのよ」
「そうか? それなら仕方が無いな」
「でしょ?」
(……いま、何が起きたの?)
瑠璃は、二人のやりとりが信じられずにぽかんと口を空けて見つめることしかできなかった。いがみ合っているように見えたのに、今はもう談笑している。
和気あいあい、という言葉が似合う。まるで手品のようにすら瑠璃には見えた。
そして、驚くことしかできない瑠璃をおいて、話は進んでしまうのだった。
「香月様が、お弁当をお忘れになっておりまして」
使用人が、困ったという顔をして広間にやってきた。
香月が忘れたという弁当を見て、宗次郎はちらっと瑠璃と沙良に視線を移した。
「なら、丁度いいじゃないか。沙良」
「なに? お父様」
「これからお姉様と一緒に、お兄様に弁当を届けに行ってくれるかい?」
宗次郎の言葉に、沙良派ぱあっ! っと表情を明るくしてこたえた。
「勿論!」

