私この度、愛した人の弟と結婚することになりました。

「もう、行ってしまわれるのですか?」

 だいぶ日が落ちて暗くなってきた頃。
 瑠璃は、屋敷を離れようとする伊織に声をかけた。

「内緒で出ていこうと思っていたのに、まさか貴方に見つかるなんて。私から最後にご挨拶すべきでしたね」
 伊織は、そう言って瑠璃に笑った。

「もう、その言葉使いはおやめください」
 相変わらず丁寧な話し方をする伊織に、瑠璃は静かに怒った。

「本当は、わかっていらっしゃるでしょう? 伊織様」

「……驚いた。まさか、君にもバレてしまうとは。僕に記憶があること、どこで気がついたの?」

 伊織は、にこっと笑ってから、昔と同じ言葉遣いで瑠璃に話をした。

「私が、というより、一條家の方々の反応からわかりました。伊織様に記憶がなければ、宗次郎様があの場で、伊織様に屋敷を任せられるはずがありませんから」

 宗次郎は判断したのだ。
 『自分の息子なら大丈夫だ』、と。

「なるほど。父上も母上も、やはり親は騙せないな」
「……というより、私は宗次郎様のご様子から、最初から伊織様には記憶があったのだとも考えています」

 瑠璃の推察を聞いて、伊織は楽しそうに笑っていた。

「そこまであれで気付くとは。うん、いいね。君は賢い。その勘は、きっとこれからを生きていくのに役に立つ。そう――。僕は、最初から記憶を失ってなんかいない」
「なら、どうして……?」

 瑠璃の問いに、伊織は何故か質問で返してきた。

「瑠璃さん。香月は、いい男だっただろう?」
「え?」
「そして僕にとっても、香月はずっといい男で、いい弟だった」

(何故今、そんなことをおっしゃるの?)

「僕さえいなければ、香月はもっと早くその才能を認められていたはずだ」
「香月様は……香月様は、絶対にそんなことはおっしゃいません!」

 瑠璃はその時、やっと「わかった」。
 あの日、香月が泣いていたのは――伊織が記憶を失っていないと気づいたからだ。その上で、伊織が香月に負けたからだ。

「そう、だから」

 伊織は、深く息を吐いて胸を抑えた。

「――僕は、それが苦しかった」

 一條家には三人の妻がいる。その子供たちは、瑠璃から見聞きする中、驚くくらい仲が良さそうだった。宗次郎が、妻の生家に関わらず愛を注いだせいもあるのかもしれない。
 ただあの場所は、いわば一條宗次郎という男が作った、幸せな『箱庭』なのだ。
 屋敷を出れば、当然人は彼らを親の生まれで判断する。
 『一條伊織』は宗次郎の跡継ぎに、一番相応しい母を持っていた。

「僕がいる限り、香月は力を隠し続けるしかなかった。事実、僕が居なくなってから、香月は頭角をあらわした」

 一條香月は強い男だ。
 それは、かつて最強と謳われた一條宗次郎よりも。

「一條家の役目は、この国を守ることだ」

 伊織は、穏やかな声で言った。

「なら――一番大事なのは、僕や香月の意思じゃない。きっとこの国に必要なのは、『一條香月』その人なんだ」

 昔から、 『一條伊織』は常に未来を見ていた。
 『一條伊織』は、『一條香月』に能力で勝つことはできない。
 だとしたら――余計な軋轢を生む伊織が当主争いから退場することが、『一條家の長男』である伊織が、最後に家のためにできることなのかもしれなかった。

「大切な弟と、大切な妹のように思っていた君が結ばれることを、僕は心から祝福するよ」

 心優しい兄の顔で、昔から瑠璃が見ていた彼の姿で、伊織は綺麗に笑った。
 その笑顔を見て、瑠璃は上手く呼吸が出来なかった。
 
 伊織に、瑠璃はずっと嘘をつかれていた。
 記憶喪失のことだけじゃない。母の髪飾りも、本当は見つけたのは香月だったのに、伊織は感謝を告げた瑠璃の言葉を否定はしなかった。
 もっと早く言ってくれたら。本当のことを、教えてくれたなら――ちゃんと話し合えたなら。きっと、違う未来があったはずなのに。

 そう思って、瑠璃は拳を強く握った。
 いいや、違う。本当のことを知って、瑠璃が最初から香月を望みそれが受け入れられたとしたら、香月と伊織の関係は悪くなる。
 継母から守るため、和臣があえて瑠璃を守らなかったとしても、瑠璃が橘家の娘であることは変わらない。そしてもし今のように、和臣が瑠璃を誰より大切にすると宣言するような事態となれば、香月は和臣という後ろ盾を得て、香月と伊織は対立していたのかもしれない。

 愛しているから。
 これからもずっと、お互いを愛していたいから。
 だからこれは全て、そのための伊織の選択なのだ。

(だからあの時、詩織お義母様が宗次郎お義父様もいらっしゃったのだ)

 彼の産みの親である詩織は、宗次郎と話して決めたのだろう。香月を次の当主にすると。伊織を――『一條伊織』を解放すると。

「ライ」
「ああ。今行くよ、セイラ」

 その時、彼の妻が新しい名前で伊織を呼んだ。

「伊織様!」

 瑠璃は伊織に、自ら刺繍をした手巾を手渡した。
 橘家の守護と白藤家の治癒の異能を持つ瑠璃が、糸から作って縫ったそれは、今の瑠璃にとって今一番良い、愛する人への贈り物だった。

「……ありがとう。瑠璃さん」

 伊織はそう言って手巾を受け取ると、セイラの待つ荷馬車へと乗ってしまった。
 馬車はそのまま、二人を乗せて出発する。

「私は……ずっと、ずっとお待ちしています! 私はここで……香月様と、香月様とみんなで……!」

 伊織の姿が小さくなるまで、ずっと瑠璃は、その場所を離れなかった。