私この度、愛した人の弟と結婚することになりました。

 一霞を抱いたまま、瑠璃は宗次郎の馬に乗っていた。
 一條家の中でも有名な軍馬である白兎馬は、風を切るような速さで進んでいく。

 普段、瑠璃の前では掴みどころのない義父である宗次郎だが、彼は二人の息子が生まれる前は、この国の最強であると言われていた。
 伊織が隊長を務めるにあたり警邏隊からは退いているが、それでも今も朱桜帝を守る武官として働いている。
 宗次郎と香月は、この国における武そのものだ。
 二人がかりでも勝てないなら、もう誰も太刀打ちできない。

 皇族の力によって強化された妖魔など、瑠璃は想像もつかなかった。それでも、本当に愛する人にもう一度会えるなら、瑠璃は死んでもいいと思った。

(香月様、どうかご無事で!)



「何故人間が、妖魔を使役する!」

 凛桜により強化された力を前に、警邏隊の隊員たちは、香月以外全員太刀打ちができなかった。
 そして香月も、何度倒しても復活する妖魔たち相手に、体力の消耗を感じていた。

 橘凛桜――皇家の祝福ともいえる『増幅』の異能。宮子はその力を使い、妖魔たちを強化・復活させる。
 香月は、宮子の瞳が赤く染まっていることに気づいて叫んだ。

「その瞳……まさか、妖魔に魂を喰われたか!」
 紅の瞳は、妖魔と同じ。
 妖魔は人を喰らう。そして、その魂も。

「それが何?」
 宮子はきゃははとまるで狂ったように笑った。

「この力は、私の願いを全部叶えてくれるの! だからあの女も、ちゃんと始末してくれたわ」

 香月は、宮子の言葉を聞き間違いかと思った。いや、そう願いたかった。

「まさか……瑠璃さんの母親を殺したのは――」

 あっていいわけがない。
 皇族の姫に正妻の座を奪われた白藤家の行方不明だった令嬢が、夫はおろか、その命まで奪われていたなんて。

「おかしいわよね。二人とも殺せと命じたのに、一人しか殺せなかったの」
 宮子は、蟻でも殺したかのように言った。

「あの時は、本当にがっかりしたわ」
「お前が、お前が瑠璃さんの人生を……!」

 嘲笑うかのような宮子の言葉に、香月の堪忍袋の緒が切れた。

 この女は――人の心が欠けている。

 妖魔だけを殺してきた香月だが、その瞬間だけは、この女を殺してもいいのではないかと思った。
 だが、香月には出来なかった。

 宮子は、仮にも皇族の血筋。その人間を、香月の判断で殺すことはできない。凛桜も盾に取られているし、もし二人を無断で殺せば、一條家――そして瑠璃にもに非難の目が向くかもしれない。

「そのせいかあの人は、結界の外にめったに娘を出そうとはしなくなったし。おかげでなかなか殺せないままここまで育ってしまった。そしたら、あの女の娘が白藤家の実の孫で、お父様の寵愛を受ける? そんなこと、あっていいわけがない」

 宮子は、目に怒りの感情を滲ませた。

「面倒でも、さっさと殺してしまえばよかった」

 香月は、宮子に尋ねた。

「お前はずっと、それを隠してきたはずだ。では今どうして、それを、私に教えるのか」

 香月の問いに、宮子は嗤った。

「それはもちろん――貴方がここで死ぬからよ」

 『強化』の力を使うために、凛桜の力がわずかに光る。だがその体は、これまでと違い小さく悲鳴を漏らしていた。

「やめろ!」

 ようやく駆けつけた宗次郎は、宮子に向かって叫んだ。

「それ以上は、その子どもが壊れてしまう!」
「だから?」
 宮子は、小馬鹿にしたように笑った。

「私の子を私がどう扱おうが、私の勝手じゃない」

 宮子はそう言うと、凛桜の拘束を解いて、用済みとばかりに空中から地面に落とした。

「凛桜!」
 瑠璃は一霞を下ろすと、すぐに腹違いの弟に受け取るために走った。
 年の割に小さな双子の姉弟。
 瑠璃の記憶ではそこで終わっていたが、服の下の凛桜の体は、中身がないのではと思うほど軽かった。

「一條宗次郎――橘瑠璃」
 宮子は、瑠璃たちを一瞥して、それから一霞を見た。

「一霞、お前が連れてきたの?」
「お願いします。私なら罰を受けます。だから、もうおやめください。どうか、これ以上は凛桜が……」
「本当に、お前は役立たずね」

 母に縋る娘を、宮子はそう吐き捨てた。

「凛桜と違って、本当に使い道がないわ。まさか、その能力を使い、実の母を追い詰めるだなんて」
 一霞は、黙って母の言葉を聞いていた。

「でも、その子はお前が何をやったか知っているの?」
 宮子は楽しそうに笑う。

「あの女の遺品。それを屋敷ごと全部燃やしたのは一霞、貴方じゃない」
 瑠璃は、あの火を付け火だとは思っていた。
 でもまさか――その犯人が、一霞だったなんて。

「あれは傑作だったわ。母親を妖魔に食べられて、もうなーんにも残っていないのに、思い出もなにもかも! 全部綺麗に燃えてしまったんだもの!」

 瑠璃の一生の心の傷は、宮子にとっては楽しい楽しい笑い話だ。

「でも、その後が少し誤算だったのよねえ。旦那様はそれから離れにその子を追いやってしまって。それから屋敷から出さないようにしたのは、少し問題だったわね」
「何が問題だと?」
 宗次郎の問いに、宮子は言った。

「だって、殺せないじゃない」
「……え?」

 瑠璃は、宮子の言葉に固まってしまった。
 それではまるで、父の行動が、瑠璃を守るためだとも解釈できてしまう。

「本当は一緒に殺すつもりだったのに、仕留め損ねるんだもの。それに、あの一條伊織とかいう男が現れて――それからあの女の娘が一條家の許婚、なんてねえ。本当に腹が立ったわ」

 宮子は、黒地に蝶の舞う扇を広げて口元を隠した。

「私以上に高貴な女なんて、いてはいけないのに」
 だがその口元がきっと笑っていることは、その馬にいる誰もがわかった。

「『あの女』が白藤の人間だった? じゃあ、白藤家の血を引く、橘の娘が、一條の男に嫁ぐというの? そんなことは――許されない、でしょう?だから――」

 宮子は、扇を閉じてそのまま瑠璃へと投げた。

「『一條瑠璃』――もう一度、今度はちゃんと殺してあげるわ」
 宮子の投げた扇は、『強化』されて固く鋭い武器へと変わる。

「瑠璃さん!」

 香月は、瑠璃のために動こうとした。だが、距離のせいで間に合わない。

「お姉様!」

 代わりに、瑠璃の前に出たのは一霞だった。
 実の母の投げたそれは、一霞の体に深く突き刺さったていた。
 
「どうして。一霞! ……一霞!」

「ごめん……な、さい」

 腹違いの妹。
 大好きな母を殺した女の子ども。瑠璃が大事にしていた母の遺品を、全部もやしてしまった子ども。
 でも……でも。

「ごめんさい。おねえ、さま……」

 今その少女が、自分を守って死のうとしている。
 その瞬間、瑠璃はひどい頭痛に襲われた。忘れていた記憶が蘇る。それは――瑠璃が、母をなくしたときの記憶だ。
 
(体が、全身が痛い。体の力が抜けていく――)

 瑠璃の母がなくなった日。
 妖魔の爪は、瑠璃の母を貫いて瑠璃の体に突き刺さっていた。
 瑠璃は本当は死ぬはずだった。元から、急所に突き刺さっていたのは母ではなく瑠璃の方だったのだから。
 その日、瑠璃の母は言ったのだ。

『瑠璃。どうか、貴方は生きて。優しい人に、なりなさい――』
『おかあ、さま……?』

 忘れていた記憶。
 その日、瑠璃の母は『異能』の力を使って瑠璃を救った。命がけの、自分の命のかわりに、娘の命を守る異能を。
 娘のために力を使い果たした紫乃の体を妖魔は喰らい、宗次郎は喰われかけていた瑠璃の体を、妖魔から救って抱きしめた。

『ああ……! 紫乃さん、紫乃さん! すまない。すまない、和臣……瑠璃ちゃん……!』

 宗次郎が嗚咽をあげながら、何度も何度も謝罪する。だが瑠璃は、そこで意識を失い――そして、すべてを忘れてしまった。

 宗次郎は、ずっと瑠璃に優しかった。それはもしかしたら、瑠璃にずっと負い目があったからなのかもしれなかった。

 瑠璃は、一霞の体を抱く腕の力を強くした。

(一霞の能力は凛桜との『感応』。凛桜がずっと、二人の母親に利用されていたのだとしたら。そのために、一霞が動いていたのだとしたら――)

 一霞を責める気には瑠璃はなれなかった。
 元凶は全部、母を殺した女にある。

「まさか『あの女』の娘を守って死ぬだなんて。まあいいわ。どうせ――役立たずはいらないもの」

 一霞が死にかけているのに、宮子は表情一つ変えなかった。 
 その顔を見たときに、瑠璃は強く思った。

(私は、ずっと私だけが、この世界で不幸なのだと思っていた。自分が我慢していれば、それでいいのだと思っていた)

「一霞」

(でももし、一霞も同じように痛みを抱えていたのだとしたら)

『優しい人で、在りなさい――』
 母は、最後に瑠璃にそう言った。
 ――ならば。

(私は、この娘を守りたい。この娘を癒したい)

 それは、守護と癒しの力。
 瑠璃はその力を、初めて心の底から祈った。

「私は――貴方を、ここで死なせたりしない」

(だから力を貸してください。お母様!)

 瑠璃が、そう願った瞬間だった。瑠璃の体から、強い光が放たれた。

「これは……光の糸……?」

 瑠璃から生まれる光の糸は絡み合い、大きな縄となって、やがて縄通しは絡み合い、大きな幹のように天へと伸びる。

 それはまるで、かつてこの地に存在したという天木《テンボク》と呼ばれた木のように、瑠璃から発せられた光は天を貫き、そしてまるで木が枝を伸ばすように、帝都全体へと光は広がっていく。

「なんだ……なんだこの光は……?」
「怪我が……怪我が治っていく……!」

 香月以外の隊員たちは、ほとんど動けずに倒れていたのに、光を浴びた男たちは、まるで怪我など一つもなかったかのように起き上がった。

【キィャアアア!!!】
【キャッギャッギャギャ!!!!】
【ギャウ、ゥ……ゥ、ァアッ!!!!】

 無数に存在していた妖魔たちは、瑠璃から放たれる光に焼かれて消えていく。

「何。何なの、この光は……! こんなの、有り得ない有り得ない有り得ない!」

 宮子は、頭を抱えて狼狽えた。

「奇跡だ。神の奇跡だ……!」
「まさかあの少女は――天がこの地に、再び神を遣わしたのか……!?」

 人々が瑠璃に対して声を上げる中、瑠璃はその光が消えてから、力が抜けてしまった。

「瑠璃さん!」
 
 ふらつく瑠璃の体を、今度は香月がすぐにささえる。

「かづき……さま……」

 瑠璃は、そんな香月の顔を見て微かに笑った。

「どうして。この子は……この子は、無能のはずなのに……! え? どうして……どうして私の力が使えないのよ!」

 宮子はもう、一切の異能を使うことが出来なかった。そんな宮子に、最初に接近したのは宗次郎だった。

「違う。この子は、無能なんかじゃない。そもそもお前に、この子の価値をはかる権利などない。彼女は紫乃さんが遺してくれた、和臣の最愛の娘なのだから!」

 宗次郎はそういうと、宮子を捕縛した。

「『宮子』姫。私たちの代の過ちを、子どもたちに背負わせることは許されない。――その罪は、その身をもって償え」

 それから少しして、沢山の馬と馬車が、瑠璃たちの居る場所へと到着した。

「道を空けなさい。陛下のお通りです」
「双葉お義母様……?」
 凛とした声に、瑠璃は一瞬それが誰の声かわからなかった。双葉は、皇家の紋章の刻まれた玉環を身に着けていた。

「旦那様。ご命令通り、陛下をお連れしました」
「ありがとう。双葉」
 宗次郎は双葉に礼を言う。瑠璃は頭が混乱した。

「どうして、双葉お義母様と陛下が……?」
「双葉様は、この国の神に仕える巫女の血筋。そして、元々陛下の側近文官なんです。父上が一目惚れして、今は一條の家に身を置いていますが――」
「…………えっ?」

(宗次郎お義父様、奥様をどうやって選んでいらっしゃるの!?)

 両家の子女であった詩織に、元警邏隊の美月、元陛下付き側近文官の双葉――彼の人柄故か、そばにいる女性たちが全員強すぎる気が瑠璃はした。

 祖父が話していたのは、やはり双葉だったらしい。
 働きたくない・今はご飯を食べて眠っていたいと双葉が願うのは、昔は仕事で忙しかった彼女に、宗次郎が与えた新しい人生なのかもしれないけれど――ただその双葉も、今回は香月と瑠璃のために一肌脱出でくれたらしい。

 ふわふわ・ぐだぐだの家での姿とは違い、今の双葉は、しっかり者で仕事のできる美人にしか瑠璃には見えなかった。

(すごい……。双葉様は「大人」だわ)

 そして双葉は、いつもとは違う静かな声で言った。

「陛下。どうか、賢明なご判断を」

 御三家は、この国を守る砦であり武器だ。その者たちを傷つけ、信頼を裏切った宮子を生かし続けることは、やがて皇家への批判に代わる。

 そして、瑠璃が見せた圧倒的な光。それはお伽噺のように語られる建国神話にもでてくる、皇家の始祖の力そのものだった。
 御三家はそもそも、皇族の血を引いている。

 あの光はまさに、『先祖返り』としての、圧倒的な力だ。
 そんな力を持つ瑠璃を長年虐げ、死に追いやろうとした人間を生かし続けることは、もしかしたら『皇家そのもの』を揺るがす可能性すらあった。
 そんな中、今、身内を処罰することすら出来ない帝とあれば――。

「……ああ」

 朱桜帝は、双葉が差し出した剣を手にとった。
 かつてこの地に存在したという八つ首の龍を獲ったという剣。

「皇家が妖魔を従え、民を傷つけることなどあってはならぬ」

 それは、この国の主である『帝』だけが手にすることのできる、聖なる剣だ。

「……だから余は、お前を斬らねばならぬ」

 朱桜帝の声は震えていた。
 かつて、誰よりも愛した末の姫。そのために彼は臣下の心も考えず、周囲の反対すらはねのけて、たった一人の女性を愛した男に姫を降嫁させた。
 結果として男の愛した女は、その姫によって殺された。

「おとぅ――」

 彼はもう、女の声は聞かなかった。ただ唇を強く噛んで、握った剣を振り下ろした。
 血に塗れた剣は、手のひらから滑り地面に落ちる。

「……陛下」
 この国の君主でありながら、涙をこぼす男のために、双葉はそっとその体を支えるように寄り添っていた。

(――ああ。やっと、すべてが終わったのだ)

 瑠璃は空を見上げた。 
 空を覆っていた黒い雲は今はすべて消え、今は朝日が登ろうとしていた。

「おねえ、さま……?」
「一霞! 目を覚ましたのね」
「凛桜、は……」

 一霞は凛桜――そして、祖父と母の亡骸を見た。
 一目で全てを理解した一霞は、母を呼ぼうとして声を飲み込んで、ぎゅっと唇を噛みしめた。

 それから、憑き物が落ちたかのような表情をして、彼女はほうと息を吐いた。一霞の瞳から、一筋の涙が頬を伝って地に落ちる。

「…………よかった」
 
 瑠璃は、一霞がもっと泣くと思っていた。
 自分のことを責めるかもしれないと思った。
 でも一霞は、ただ目の前の現実を受け入れていた。まだ幼いはずの彼女の横顔は、年の割にひどく大人びていた。

 それはまるで、ずっと子どもでいられなかった少女が、やっと普通の子どもとしての人生を手に入れたかのように――一霞の言葉は、祖父が母を弑したことを知った娘の言葉というよりは、ようやく長い呪縛から解放された、安堵そのもののように瑠璃には聞こえた。

「瑠璃さん」
「香月様――」

 瑠璃は一度目をつむり、それから香月に微笑んだ。

「帰りましょう。私たちの家へ」