私この度、愛した人の弟と結婚することになりました。

「……え?」

 瑠璃は、沙良の言葉が信じられなかった。
 瑠璃は、母の髪飾りがあったから生きることを選んだ。大雪の日に髪飾りを探してくれた伊織を、自分を愛してくれた伊織に想いを捧げた。
 でもそれが――本当は、香月なのだとしたら?

「瑠璃お姉様と伊織お兄様が婚約したあとの大雪の日よね? 私、その日のことははっきりと覚えているわ。香月お兄様が突然置き手紙をして姿を消して、翌朝高熱を出して帰ってくるなり倒れたの。香月お兄様が体を崩されたのは、これまでその一度だけ。お医者様の話によると、夜の間、ずっと外にいたからだろうって。前も見えないような吹雪の夜に、香月お兄様が何をしていたのか――何度も聞いたけれど、香月お兄様は最後まで、誰にも教えてはくれなかった」

 『一條香月』という人間は、家族思いでまっすぐな人間だ。

「香月お兄様がもし……その頃から瑠璃お姉様に想いを寄せていたのなら、あの真面目なお兄様のことだもの。瑠璃お姉様の名前は出さずに、一人で髪飾りを探していても、何も不思議じゃないわ」

「そんな、そんなのって――……」

 篝火が夜に揺れる。
 瑠璃は、これまでの自分と、香月の行動を思いだした。
 
 二人の初夜。瑠璃は、伊織のことがあり香月を拒絶した。

『私は、貴方を抱くつもりはありません』
 妻の役目を果たさずとも、香月が瑠璃を責めることはなかった。

『貴方が兄を愛していたことは知っています。これは家同士の取り決め。――貴方は、私のことを愛さずとも構いません。突然相手が変わって、さぞ驚かれたことでしょう。……ただ、今夜この部屋から私だけ出ると妙な噂がたつかもしれませんので、せめて今日だけは、共に部屋で過ごすことをお許しください』

 何もないまま夜を明かし、警邏隊の隊員から伊織の悪口を聞いて瑠璃が悲しめば、香月は瑠璃の味方になってくれた。

『兄は――兄は、最期まで立派に戦った。第一隊の隊員も、兄がいたから全員が生還できたんだ。その兄を侮辱するというなら――天が許しても、私が絶対に許さない』
『申し訳ありません。部下に失言があったようです。でも、兄のために怒ってくださって、ありがとうございました』

 瑠璃が糸を紡いで手巾を渡せば、香月は心から喜んだ。

『ありがとう、ございます。……絶対に、大切にいたします』

 瑠璃が父の祝いに橘家に一人戻り、濡れたまま帰ってきたとき、香月は悪くないのに瑠璃に謝罪した。

『……本当に、申し訳ありません。私が、一緒にいかなかったばっかりに。もし、宜しければ。今日の償いをする機会を、私に与えてくださいませんか?』

 そして、初めての『でえと』。
 見世物小屋で『人魚』を共に見たときに、瑠璃は香月にこう尋ねた。その時彼は言ったのだ。
 瑠璃は今思えば、あの時の香月の言葉が、彼のすべてを表しているのかもしれないと思った。

『ちなみにその人魚には、他国ではどんな逸話があるのですか?』
『……船の難破により海でおぼれた王子が、助けた人間の姫と結ばれて、幸せになるお話でしょうか』
『そのお話に、人魚の姫はいつ出てくるのですか?』
 
 瑠璃の質問に、香月は答えずに曖昧に笑うだけだった。だから瑠璃は、帰宅して沙良に尋ねた。
 本当の、『人魚姫』のお話を。

『人魚姫のお話は、悲しいお話。人魚姫は人間の王子様に恋をして、難破した船から彼を助けるけれど、その手柄は人間のお姫様に取られてしまうの。確かそのあとお姫様と王子様は結ばれて――人魚姫は悲しくて、泡になってしまうの』

 王子は瑠璃で、人間のお姫様は伊織。
 だとするなら、泡となって消える人魚姫は――。

(――香月様)

 香月は、いつだって瑠璃に優しかった。香月は瑠璃に相応しい木を選んでくれて、二人は共に庭に木を植えた。
『この庭で、貴方の花が咲いて実がなるのを、これから一緒に見ていきましょう』

 そしてその木が植わる庭で、瑠璃と香月は指輪を交わした。
『瑠璃さん。――何があっても、貴方は私が守ります』

 でも香月は最初から、瑠璃とは結ばれなくてもよいと思っていたのかもしれない。

『お前がこの子と婚姻を結んだことは理解する。だがな。この子は、私がずっと探していた娘の子だ。一條家の嫁になったとしても、今後はこの屋敷に瑠璃には顔を出してもらうからな』
『……それを、瑠璃さんがお望みなのですか』

 香月にとって、大切なのは瑠璃の意思で。

『当たり前だろう! この子は、白藤の子だ。『治癒』の力を持つ、正当な血筋の娘なんだ。誰にももう、この子のことを悪くは言わせない!』

 そのためなら、彼はどんな相手にだって立ち向かう。

『瑠璃さんも、ここにとどまることをお望みですか?』
『えっと、その……。私は、ずっと母の血縁は居ないと、私を愛してくれる家族はいないのだと思って育ちました。だから祖父母とは、これからも共にありたいです』
『……そうですか。貴方がそれをお望みなら、私は受け入れます』

 そしてそのうえで、瑠璃が一番幸せになれると思う選択するのだ。

『瑠璃さん。――私と、離縁してください』

 瑠璃は伊織を愛しているから。自分はその穴埋めでしかないのだから。

『何を……。君は、この子の夫ではないのか! 操を捧げた妻になんてことを!』

 だから瑠璃が自分の側よりもっと幸せになれる場所があるなら、香月はその手を離すのだ。

『いいえ、違います。彼女は、元々兄の許婚。だから私は、彼女とは祝言を上げても、まだ床は共にしておりません』

 香月の行動は、全部ずっとずっと瑠璃のためだった。

『何故、何故貴方がここにいる!? 生きているのに……生きていたならどうして! その女性は誰ですか。何故……何故瑠璃さんという人がありながら、貴方は――!』

 瑠璃の為に兄と敵対し、

『瑠璃さんを悲しませて……あまつさえ、戻ってきたと思ったら身重の女連れなんて。どこまで彼女の心を踏みにじれば気がすむのですか!』

 瑠璃のために香月は嘆く。

『すいません……。今は、どうか私の顔を見ないでください』

 本当の心は、彼自身の涙は、絶対には瑠璃には見せずに。

『――妻としての勤めを果たしに参りました』
『私は、こんなことは望んでおりません。ですから、どうか部屋にお戻りください』

 出陣の夜、初夜のやり直しをしようとした瑠璃を、香月は受け入れなかった。でもその会話のなかで、彼は一つだけ本当のことを口にした。

『戦いに出る私を思っての言葉なら、どうかその言葉は取り下げてください。――私は初恋というものが、どれほどに忘れががたいものかを知っています。人の心は、そう簡単には変えられない』

『香月様には、ずっと好きな方がいらしたのですか』

 それはこれから命を失うかもしれない彼の、不器用な愛の『告白』だった。

『はい。彼女が他の誰かの妻になっても、私は――彼女だけを思い続けると、幼いころから決めていました』

「嘘。……じゃあ、じゃあ香月様は。私、香月様になんてこと……」

 香月が、ずっと愛していたのは。
 幼い頃から一途に思いを寄せていたのは。

「私を、本当に愛してくださっていたのは――」

 瑠璃に、生きる理由をくれたのは。

「瑠璃お姉様……!」

 沙良は、泣き崩れる瑠璃の体を支えた。
 やっと、自分を本当に愛してくれていた人がわかったのに、その人がもうすぐ死ぬかもしれない。
 母を亡くして父からも放置され、継母家族に虐げられてきた瑠璃の心の拠り所が本当にこの世界から消えてしまったら、自分の心はもう限界だと瑠璃は思った。

 宗次郎は、そんな瑠璃と沙良を見て唇を噛んだあとに、部屋の隅に居るもう一人の自分の息子を咎めるような瞳で見た。
 その時だった。
 一條家の屋敷に、傷だらけの少女がやってきた。

「何事だ!」
「申し訳ございません! この少女が、火急の件だと! そのため、急ぎ連れてまいりました!」

 瑠璃は、その少女を見て驚いた。

「お願い。凛桜を助けて。このままじゃ……このままじゃお母様に、凛桜が殺されてしまう!」
「どういうこと? ちゃんと説明して」

 瑠璃は一霞の姉として、涙をふいて尋ねた。

「お母様が、妖魔を呼び出して指摘しているの。凛桜の異能は強化だから、それを利用されて……! 」
「妖魔を……使役?」

 宗次郎は、一霞の肩を掴んだ。

「それは本当か!? 本当なんだな!」
 だがその瞬間、一霞は悲鳴を上げた。

「ああっ!!」
 瑠璃は、床に倒れそうになる一霞の体を支えた。

「いったい何が起きたんだ。そんなに強くは握っていないのに」
「一霞の異能は、双子である凛桜との感応なんです。だからもしかしたら、今この瞬間にも凛桜が――」

 それはつまり、一霞が苦しむたびに、香月が苦戦を強いられて死ぬかもしれないということだ。
 瑠璃は、一霞に尋ねた。

「一霞。貴方もつらいかもしれないけれど、凛桜のところへ案内してくれる?」
「もち、ろん……。わたしは、そのために来たんだから」

 一霞は、はあはあと息を吐きながら答えた。
 宗次郎はそのやりとりを聞いて、すぐに指示を出した。

「誰か馬の用意を! 僕が彼女を連れて行く! 他の者たちは、それぞれ己の役割を果たしてくれ! それから――」

 宗次郎は、部屋の隅にいた伊織に言った。

「『伊織』。ここは お前に、任せられるな?」
「……」

 伊織は、わずかな沈黙の後――。
 
「はい」

 瑠璃を見て、頷いた。