「結局、彼が当主に指名されたんだね」
瑠璃の亡き母、紫乃の弟――沙良の未来の夫?になるかもしれない白藤家次期当主である瑠璃の叔父は、少しだけ気の弱そうな、穏やかな話し方をする男だった。
「うちでは、彼の発言と伊織君の帰還で、父様は相変わらずお怒りだけど。君は、あの後彼とは何か進展はあったかい?」
「……え?」
(もしかして、香月様とのことを叔父様に聞かれている!?)
「ああ。すまない。家のこととはいえ、姪にする話じゃなかったな」
「いえ……」
瑠璃は叔父が、最近会った大人の中で一番まともそうなひとだと思った。
勿論、かなりの年の差で沙良と再婚するかもしれないことを除けば。
「とりあえず僕から言えるのは、君が何を選んでも、白藤家は支持をする、ということかな。父様は行方不明の姉の代わりに沙良ちゃんを可愛がっていたけれど、やはり実の孫となるとまた話は変わるみたいでね。父様からは、もし自分がなくなったとしても君が何不自由なく暮らせるよう援助しろと、耳がタコになるほど毎日言われているよ」
「母は――それほど愛されていたんですね」
「もちろん」
叔父は静かに頷いた。
「姉がいなくなったとき、僕もまだ幼かったから――あまり多くのことは覚えていないけれど、ただ、上手に刺繡をする人だったことは覚えている。生まれつき、姉は手先が器用でね。姉は僕の記憶の中ではまだ異能に目覚めていなくて。糸を紡ぐことから自分でやる、少し変わった人だった」
和臣と出会ったとき、紫乃は記憶がなかったと言う話だったが、手作業は身体が覚えていたのかもしれない。
「陛下から聞いたよ。君も、自分で糸を紡いで刺繍をすると」
「はい。母に教わって。未熟ではありますが――」
「よければ今度、父様に何かづくったしなでも渡してやってくれると嬉しいな。絶対に喜ぶはずだから」
朗らかに微笑む叔父に、瑠璃は頷いた。
「姉が行方不明になった後、父様たちは必死に探した。でも、姉様と似た外見をした子供は、どんなに探しても見つかることはなかった。今となっては、悔やまれる話ではあるけれど――実は、僕は君の父上と姉様の話は、噂には聞いていたんだ」
叔父は瑠璃に、昔の話をしてくれた。
「君の父上――和臣さんは、橘家の一人息子で次期当主になることが決まっていた。そんな彼が、身寄りのない女性を家に囲っているという話は、醜聞として有名だったから」
「……」
「和臣さんは、周囲の反対を押し切ってでも、姉様を妻に迎える意思を変えなかった。今の伊織君ではないけれど、やはり身元の分からない女性を御三家に迎えるとなると、反対の声は大きくてね。それもあり、彼は一層彼女を一目から遠ざけようとした」
全ては、愛する人を守るために。
だがそれが、紫乃を実の家族から遠ざけた。
「でもこれには、もう一つ理由があったんだと思う。あの当時、女性たちに注目されるような年齢の男で有名だったのは、宗次郎さんと和臣さんだったんだ。宗次郎さんは……今、三人の妻を娶っているが、昔から噂の多い人で。和臣さんは姉様のことが噂になるまでは女性のうわさ一つなく、しかもいざ女性が出来たら、一途だという解釈もあったらしくて、好意的に思う人もいたみたいなんだ」
高貴で生真面目な美青年が、周囲の反対を受けてでも、身分の違う愛を貫く。
確かに、同じ立場になりたいと思う人間もいたのかもしれない。
「でも、ここで厄介だったのが後続のとある姫でね。彼女は幼いころから陛下に溺愛されて育って、ほしいものは全て与えられて育ったみたいだ」
瑠璃は、その続きを聞きたいようで聞きたくなかった。
「それで、ある時、姫が陛下にこう願い出たらしい。――『橘和臣の妻になりたい』、と」
それが、すべての悲劇の始まり。
「陛下にとっては、目に入れてもいたくないほど溺愛していた娘だ。最近女で噂があるといっても、あの人の真面目さは、一度会ったものなら誰だって知っている。陛下はその願いを聞き届けられて、和臣さんは彼女を、『正妻』として迎え入れざるを得なかった」
和臣が、どんなに愛を貫こうとしても、帝の命令には逆らえない。
だからこれは、朱桜帝にとっても『後悔』となったのだ。
「でも結婚が決まった時には、すでに姉様のお中には君がいたそうで。橘家は複数の妻を迎えることも可能だから、姉様は無事橘家の妻の一人となった」
どんなに和臣が紫乃を愛していても、優先すべき相手ができてしまった。
「でもその環境は、出自の分からなかった姉様にとってはかなりつらいものだっただろう」
(……こうやって話を聞くと、まるで『紫のゆかりの物語』みたいだわ)
瑠璃はどこか冷静にそう思った。
古い物語。
臣籍降下した元皇子は母を幼くして亡くし、新しく帝が迎えた継母に恋をする。
しかし、帝の妻に手を出すことなどあってはならない。彼はある時、寺で見かけた継母によく似た美しい女童を手中に収める。
彼女は実は継母の血縁だったのだが、彼が無理やり自分のものとしたせいで、彼女の身分は不安定なものとなってしまった。
彼女にとって、自分の夫だけが頼みの綱だった。なのにその夫は、帝の頼みもあり正妻として皇族の姫を迎えた。
生涯子どものなかった彼女は、自らの立場を脅かす姫の登場に、苦悩の日々を送ることになる――これが、その物語のあらすじ。
奇しくも、瑠璃の母の名前は紫乃。これは、行方知れずとなる前の彼女があとからつけられたものらしいが、その名前は物語の女性の名前ともよく似ていた。
一番の違いは、物語の女性には子供がなく、瑠璃の母には瑠璃がいたことだろうか。
「でも君がいたことは、きっと姉様にとって救いになっていたと思う。だから、どうか君が幸せであることを、僕たちはみんな願っているよ」
「叔父様……」
瑠璃の叔父は、見た目通り優しい人だった。
瑠璃が叔父と話して心を和ませていると、廊下を走る足音が響いて、勢いよく障子が開いた。
「瑠璃お姉さま! 大変なの。香月お兄様が……香月お兄様が、明日、妖魔の討伐に向かわれるって……!」
「――……え?」
伊織は、妖魔の討伐のために都を離れた際、大軍に襲われて殿を務めて記憶を失った。
瑠璃はその話を聞いて、どうしようもない不安に襲われた。
(私は――また、失わなくてはならないの?)
■
――夜。
瑠璃は、いつもよりはやく支度を済ませた。
香月は、明日の妖魔討伐へ向けて、遅くにしか帰らないと瑠璃は話を聞いていた。
(香月様は、明日ここを立たれる。そしたらもう、お会いできるかどうかはわからない)
伊織は戻ってきたが、記憶を失って瑠璃のことを忘れてしまった。
幼い頃の憧憬も家族の絆も、妖魔は全部食べてしまう。
(私は……私は、香月様を失いたくない)
だから、瑠璃はランプを手に持った。
それから一人、冷たい夜の廊下を歩き、香月の部屋へと向かう。
「どうして貴方が、ここにいらっしゃるのですか」
屋敷に戻った香月を出迎えたのは、『身支度』を終えたあとの瑠璃だった。
「――妻としての勤めを果たしに参りました」
「私は、こんなことは望んでおりません。ですから、どうか部屋にお戻りください」
あくまで瑠璃に触れようとはしない。
そんな香月に、瑠璃は言った。
「私がもし、『白藤』であったとしても、私はこれからも貴方の妻でありたいと、そう思っています。だから……」
白藤家は瑠璃を愛してくれる本当の家族だ。
でもだからといって、瑠璃が一條家の人間と結んだ絆を断ち切りたいと思ったことは一度もなかった。
「戦いに出る私を思っての言葉なら、どうかその言葉は取り下げてください。――私は、初恋というものが、どれほどに忘れががたいものかを知っています。人の心は、そう簡単には変えられない」
瑠璃は、香月の言葉に思考が止まった。
(……待って。今の言葉は、どういうことなの?)
それではまるで、香月には初恋の相手がいるようではないか。
「香月様には、ずっと好きな方がいらしたのですか」
瑠璃の声は震えていた。
「はい。彼女が他の誰かの妻になっても、私は――彼女だけを思い続けると、幼いころから決めていました」
香月のその告白に、瑠璃は『絶望』という言葉は、人生に何度も存在するのだと思った。
(香月様は優しい方だ。芯のある方だ。なのに私は――私のとの結婚は、そんな彼の思いさえも踏みにじってしまったのだ)
「私は、今夜は別の部屋で休息をとることにいたします。おやすみなさい。――瑠璃さん」
香月はそう言うと、瑠璃を部屋に残して去ってしまった。
これまで瑠璃は、愛する人以外と結婚することになってしまったのは、私だけだけだと思っていた。
でも香月も自分と同じように、違う誰かを愛していたのだと知って、胸が張り裂けてしまいそうだった。
「どうして私、こんなに胸が痛いの……?」
瑠璃の亡き母、紫乃の弟――沙良の未来の夫?になるかもしれない白藤家次期当主である瑠璃の叔父は、少しだけ気の弱そうな、穏やかな話し方をする男だった。
「うちでは、彼の発言と伊織君の帰還で、父様は相変わらずお怒りだけど。君は、あの後彼とは何か進展はあったかい?」
「……え?」
(もしかして、香月様とのことを叔父様に聞かれている!?)
「ああ。すまない。家のこととはいえ、姪にする話じゃなかったな」
「いえ……」
瑠璃は叔父が、最近会った大人の中で一番まともそうなひとだと思った。
勿論、かなりの年の差で沙良と再婚するかもしれないことを除けば。
「とりあえず僕から言えるのは、君が何を選んでも、白藤家は支持をする、ということかな。父様は行方不明の姉の代わりに沙良ちゃんを可愛がっていたけれど、やはり実の孫となるとまた話は変わるみたいでね。父様からは、もし自分がなくなったとしても君が何不自由なく暮らせるよう援助しろと、耳がタコになるほど毎日言われているよ」
「母は――それほど愛されていたんですね」
「もちろん」
叔父は静かに頷いた。
「姉がいなくなったとき、僕もまだ幼かったから――あまり多くのことは覚えていないけれど、ただ、上手に刺繡をする人だったことは覚えている。生まれつき、姉は手先が器用でね。姉は僕の記憶の中ではまだ異能に目覚めていなくて。糸を紡ぐことから自分でやる、少し変わった人だった」
和臣と出会ったとき、紫乃は記憶がなかったと言う話だったが、手作業は身体が覚えていたのかもしれない。
「陛下から聞いたよ。君も、自分で糸を紡いで刺繍をすると」
「はい。母に教わって。未熟ではありますが――」
「よければ今度、父様に何かづくったしなでも渡してやってくれると嬉しいな。絶対に喜ぶはずだから」
朗らかに微笑む叔父に、瑠璃は頷いた。
「姉が行方不明になった後、父様たちは必死に探した。でも、姉様と似た外見をした子供は、どんなに探しても見つかることはなかった。今となっては、悔やまれる話ではあるけれど――実は、僕は君の父上と姉様の話は、噂には聞いていたんだ」
叔父は瑠璃に、昔の話をしてくれた。
「君の父上――和臣さんは、橘家の一人息子で次期当主になることが決まっていた。そんな彼が、身寄りのない女性を家に囲っているという話は、醜聞として有名だったから」
「……」
「和臣さんは、周囲の反対を押し切ってでも、姉様を妻に迎える意思を変えなかった。今の伊織君ではないけれど、やはり身元の分からない女性を御三家に迎えるとなると、反対の声は大きくてね。それもあり、彼は一層彼女を一目から遠ざけようとした」
全ては、愛する人を守るために。
だがそれが、紫乃を実の家族から遠ざけた。
「でもこれには、もう一つ理由があったんだと思う。あの当時、女性たちに注目されるような年齢の男で有名だったのは、宗次郎さんと和臣さんだったんだ。宗次郎さんは……今、三人の妻を娶っているが、昔から噂の多い人で。和臣さんは姉様のことが噂になるまでは女性のうわさ一つなく、しかもいざ女性が出来たら、一途だという解釈もあったらしくて、好意的に思う人もいたみたいなんだ」
高貴で生真面目な美青年が、周囲の反対を受けてでも、身分の違う愛を貫く。
確かに、同じ立場になりたいと思う人間もいたのかもしれない。
「でも、ここで厄介だったのが後続のとある姫でね。彼女は幼いころから陛下に溺愛されて育って、ほしいものは全て与えられて育ったみたいだ」
瑠璃は、その続きを聞きたいようで聞きたくなかった。
「それで、ある時、姫が陛下にこう願い出たらしい。――『橘和臣の妻になりたい』、と」
それが、すべての悲劇の始まり。
「陛下にとっては、目に入れてもいたくないほど溺愛していた娘だ。最近女で噂があるといっても、あの人の真面目さは、一度会ったものなら誰だって知っている。陛下はその願いを聞き届けられて、和臣さんは彼女を、『正妻』として迎え入れざるを得なかった」
和臣が、どんなに愛を貫こうとしても、帝の命令には逆らえない。
だからこれは、朱桜帝にとっても『後悔』となったのだ。
「でも結婚が決まった時には、すでに姉様のお中には君がいたそうで。橘家は複数の妻を迎えることも可能だから、姉様は無事橘家の妻の一人となった」
どんなに和臣が紫乃を愛していても、優先すべき相手ができてしまった。
「でもその環境は、出自の分からなかった姉様にとってはかなりつらいものだっただろう」
(……こうやって話を聞くと、まるで『紫のゆかりの物語』みたいだわ)
瑠璃はどこか冷静にそう思った。
古い物語。
臣籍降下した元皇子は母を幼くして亡くし、新しく帝が迎えた継母に恋をする。
しかし、帝の妻に手を出すことなどあってはならない。彼はある時、寺で見かけた継母によく似た美しい女童を手中に収める。
彼女は実は継母の血縁だったのだが、彼が無理やり自分のものとしたせいで、彼女の身分は不安定なものとなってしまった。
彼女にとって、自分の夫だけが頼みの綱だった。なのにその夫は、帝の頼みもあり正妻として皇族の姫を迎えた。
生涯子どものなかった彼女は、自らの立場を脅かす姫の登場に、苦悩の日々を送ることになる――これが、その物語のあらすじ。
奇しくも、瑠璃の母の名前は紫乃。これは、行方知れずとなる前の彼女があとからつけられたものらしいが、その名前は物語の女性の名前ともよく似ていた。
一番の違いは、物語の女性には子供がなく、瑠璃の母には瑠璃がいたことだろうか。
「でも君がいたことは、きっと姉様にとって救いになっていたと思う。だから、どうか君が幸せであることを、僕たちはみんな願っているよ」
「叔父様……」
瑠璃の叔父は、見た目通り優しい人だった。
瑠璃が叔父と話して心を和ませていると、廊下を走る足音が響いて、勢いよく障子が開いた。
「瑠璃お姉さま! 大変なの。香月お兄様が……香月お兄様が、明日、妖魔の討伐に向かわれるって……!」
「――……え?」
伊織は、妖魔の討伐のために都を離れた際、大軍に襲われて殿を務めて記憶を失った。
瑠璃はその話を聞いて、どうしようもない不安に襲われた。
(私は――また、失わなくてはならないの?)
■
――夜。
瑠璃は、いつもよりはやく支度を済ませた。
香月は、明日の妖魔討伐へ向けて、遅くにしか帰らないと瑠璃は話を聞いていた。
(香月様は、明日ここを立たれる。そしたらもう、お会いできるかどうかはわからない)
伊織は戻ってきたが、記憶を失って瑠璃のことを忘れてしまった。
幼い頃の憧憬も家族の絆も、妖魔は全部食べてしまう。
(私は……私は、香月様を失いたくない)
だから、瑠璃はランプを手に持った。
それから一人、冷たい夜の廊下を歩き、香月の部屋へと向かう。
「どうして貴方が、ここにいらっしゃるのですか」
屋敷に戻った香月を出迎えたのは、『身支度』を終えたあとの瑠璃だった。
「――妻としての勤めを果たしに参りました」
「私は、こんなことは望んでおりません。ですから、どうか部屋にお戻りください」
あくまで瑠璃に触れようとはしない。
そんな香月に、瑠璃は言った。
「私がもし、『白藤』であったとしても、私はこれからも貴方の妻でありたいと、そう思っています。だから……」
白藤家は瑠璃を愛してくれる本当の家族だ。
でもだからといって、瑠璃が一條家の人間と結んだ絆を断ち切りたいと思ったことは一度もなかった。
「戦いに出る私を思っての言葉なら、どうかその言葉は取り下げてください。――私は、初恋というものが、どれほどに忘れががたいものかを知っています。人の心は、そう簡単には変えられない」
瑠璃は、香月の言葉に思考が止まった。
(……待って。今の言葉は、どういうことなの?)
それではまるで、香月には初恋の相手がいるようではないか。
「香月様には、ずっと好きな方がいらしたのですか」
瑠璃の声は震えていた。
「はい。彼女が他の誰かの妻になっても、私は――彼女だけを思い続けると、幼いころから決めていました」
香月のその告白に、瑠璃は『絶望』という言葉は、人生に何度も存在するのだと思った。
(香月様は優しい方だ。芯のある方だ。なのに私は――私のとの結婚は、そんな彼の思いさえも踏みにじってしまったのだ)
「私は、今夜は別の部屋で休息をとることにいたします。おやすみなさい。――瑠璃さん」
香月はそう言うと、瑠璃を部屋に残して去ってしまった。
これまで瑠璃は、愛する人以外と結婚することになってしまったのは、私だけだけだと思っていた。
でも香月も自分と同じように、違う誰かを愛していたのだと知って、胸が張り裂けてしまいそうだった。
「どうして私、こんなに胸が痛いの……?」

