『なんでも、一條家の若君が戻ってきたらしい』
『伊織様が? どうして。死んだのではなかったのか』
『それが、異国の女とともに帝都に現れたそうだ。話によると、記憶を失っているとか』
香月が市で伊織と喧嘩をしたせいで、伊織が帰還したらしいという噂は帝都に広まっていった。
『――記憶を?』
『ああ。それで、女は身ごもってもいたらしい』
『まさか、そんな。それは本当のことなのか? 確か彼は、橘の令嬢と婚約しているのではなかったか』
『ああ。それは、代わりに弟に嫁いだらしい』
上流階級の醜聞。
パレードの裏側の隠された黒い噂。瑠璃・香月・伊織の三角関係は、一気に人の注目を浴びることになってしまった。
『そういえば、その少女の母は白藤家の血筋だったという話ではなかったか』
『それは――また』
『実に面白い話じゃないか』
『橘家と白藤家の血を引くという令嬢は、結局どちらを選ぶんだ?』
当人たちの心など知らずに、人々は彼らの関係を邪推して、面白おかしく話をしていた。
■
「伊織お兄様は私に対して『誰』とかいうし! 香月お兄様はお怒りのままで話しかけにくいし! 沙良は最近とても不愉快です!」
そして、この噂の渦中にある一條家の当主、一條宗次郎は、分家筋も集めてある発表をした。
『一條家の跡取りについては、一度白紙に戻すことにする』
伊織の帰還により、瑠璃の立場も曖昧な立場になった。それは、宗次郎がその席で香月に言った、とある言葉のせいだ。
『香月。白藤家の当主に、彼女とは床を共にしていないと口にしたらしいな。事実か?』
『はい。事実です』
正当な血筋を当主に立てるというなら、その第一候補は伊織である。
そして今、記憶喪失ではあるが妻を連れ、彼は帰還した。彼女の腹に、一條の血を継ぐ子供を宿して。
対する香月の母は、元警邏隊の第二夫人だ。
どちらの血筋がいいかと聞かれたら、誰もが伊織だと答えるだろう。現在瑠璃は香月の妻という立場ではあるが、最近見つかった瑠璃の母方の祖父母は瑠璃と香月を話すべきだという話をしていることもあり、瑠璃の立場が香月を当主の座へと押し上げるには力が足らなかった。
そして香月に離縁を告げられた身である瑠璃は、その席に参加を許されなかった。
(宗次郎お父様は、普段は明るく笑っていらっしゃるけれど、まじめなお顔をされているときは香月様によく似ていらっしゃっるのね……)
誰も宗次郎に反論出来なかったと、沙良は瑠璃に話した。
これにより、引き続き伊織とその妻セイラも屋敷にとどまることになり、瑠璃は心が落ち着かなかった。
沙良と瑠璃が話をしていると、突然瑠璃の部屋の飛びが開かれた。
「瑠璃さん」
なんと、それは伊織だった。
「!?」
「伊織お兄様!?」
瑠璃以上に、妹である沙良が驚いていた。彼女は、部屋の中に入ってこようとする伊織の体を、グイグイ押して新しい。
「伊織お兄様は、中にはいっちゃだめ!」
沙良は叫んだ。
「瑠璃お姉さまは、今は香月お兄様の奥さんなのだから! 香月お兄様の許しなく、この部屋に入ることは許さないわ!」
「……なるほど」
伊織はその話を聞いて、にやっと笑った。
「では、部屋ではなくともに外に出るのは?」
■
(伊織様と、またこうやって出掛けることができるなんて――)
沙良が伊織と同じ馬車に乗ることを許さなかったため、瑠璃は歩いて出かけることになった。
「妻と、話をされたそうですね」
「は、はい……」
だが、セイラのことを話題に出されて、瑠璃は声が小さくなった。
そんな瑠璃に、伊織は続けた。
「妻と、そのお父上は、私の命を救ってくださった恩人です。私がかつて貴方と、結婚の約束をしていたという話を聞きました。今は、私の弟と結婚されたということも」
伊織は、瑠璃の左手の薬指を見た。
瑠璃の指には、香月から持った銀の指輪がまだ嵌っている。
「彼は――貴方を、とても大切に思っているようですね」
「え?」
「そうでなければ、私と妻の顔を見るなり怒るはずがない」
くすくす、と伊織が笑う。
瑠璃はその言葉を聞いて、わずかに喜んでしまった自分を恥じた。
(違う。私は、私はずっと伊織様が――)
だがその感情を口にすることを、伊織は瑠璃に許さなかった。
「瑠璃さん。私は、この家に戻るつもりはありません」
それはひどく、落ち着いた声だった。
「私にも貴方にも、今はそれぞれ家族がいる。それをいまさらすべてなかったことにして、何事もなかったように私が貴方と婚礼を上げるのは、人として薄情だとは思われませんか」
■
「――瑠璃さん!」
伊織と二人歩いていると、瑠璃は香月のいる警邏隊まで来てしまっていた。
「どうしてこちらに? 誰か護衛は――」
瑠璃が来たという話を聞いて、門番は香月に連絡をしたようだった。香月は瑠璃のそばにいる男を見て、あからさまに顔をしかめた。
「何故、兄上とご一緒なのですか」
「少し、彼女話をしようと思ったです。私は記憶がないので、瑠璃さんなら道もご存じかと。そしたら、偶然ここに」
「瑠璃さんは、ずっと橘のお屋敷にいらしたんです。帝都の道は、あまりご存じではありません。ですから、彼女を護衛もつけずにつれて歩くのはおやめください」
「別に、そう怒らなくてもいいではないですか。妖魔が現れるといっても、それは貴方方が、きちんと倒して守ってくださっているのでしょう? であれば、私がそばにいれば問題がないのでは?」
「記憶を失った今の貴方に、戦える力があるとでも?」
香月の声は低かった。
「さあ? それは。試してみなければわかりません」
挑発を受け取るような物言い。香月は伊織を見つめ、それから伊織に、手袋を投げつけた。
「わかりました。では私が、貴方の力を見定めて差し上げます」
■
『なんでもお二人が戦うらしい』
『え? 伊織様は、まだ戻られたばかりではなかったのか』
『もしかしてこの勝負で、一條家の跡取りが決まるのか?』
(――大変なことになってしまった)
売り言葉に買い言葉。
香月からの決闘を受けた伊織は、周囲の声などまるでに気にしていないようだった。
「ずいぶん多くの観衆ですね。少し、恥ずかしくなってしまいます」
「ふざけたことをおっしゃらないで下さい」
涼やかな外見に、どこか飄々とした態度。
記憶はないはずなのに、その姿はどこか宗次郎と似ていた。
伊織は今、かつて『一條伊織』が手にしていた刀を手にしていた。
「おや、貴方は『会話』はお嫌いですか? それでは、瑠璃さんと話もうまく続かないのでは。想う女性を楽しませられないようでは、夫として失格ですよ」
「――貴方にその言葉を口にする権利はない」
挑発するような伊織の言葉に、香月は刀を振り上げた。
まさしく『真剣勝負』。
異能をまとわせていれば人は斬れない。だが、つまりまとわせなければ『人も斬れる』。
命をかけた刀と刀のぶつかり合いに、誰もがその勝敗を、固唾を呑んで見守っていた。
「瑠璃さんを悲しませて……あまつさえ、戻ってきたと思ったら身重の女連れなんて。どこまで彼女の心を踏みにじれば気がすむのですか!」
香月の声は、まるで魂の叫びのようだった。
「貴方は本当に最低だ。昔から、私にはない全てを持っているのに。貴方なら、私が望んではならぬものも、全て手に入れられるのに。どうしてそれを、簡単に手放すことができるんだ!」
どうして。どうして。どうして――。
対する伊織は、香月がどんなに思いを叫んでも、まるで届いていないような顔をしていた。
「手に入れるのが容易なら、捨てることも簡単だとでもお思いなのですか……!」
一條伊織がいなければ、一條香月の能力は最初から正当に評価されていたはずだ。
瑠璃は最初から香月が婚約者で。
そうすればきっと、悲しむ必要などなくて。
「全力で行かせていただきます。ですから、貴方も私に、貴方の本気を見せてください」
香月は、刀に異能の力を纏わせた。
伊織は少し迷った後に――香月に合わせるように、水の力を纏わせる。
水と火。
本来であれば、香月の敗北は明らかだった。
「……え?」
瑠璃はその光景を見て、思わずそう声を漏らしていた。
何故なら絶対に火は水に勝てないと思っていたのに、香月の火は伊織の水を包んで水は消え、伊織の体はそのまま後方へと倒れしまったからだ。
圧倒的な能力差が、属性差さえも塗り替えた瞬間だった。
だが、敗北した伊織の耳のそばに刀を突き立てて、香月は泣きそうな声で叫んだ。
「どうしていつも――貴方は私と、本気で向き合ってくれないんだ!」
まるで、兄に本気で遊んでもらえないと、なく小さな子供のように。
そんな弟に、伊織は彼の目を見ていった。
「本気だよ」
「?」
「ずっと――僕は、本気だったよ」
諦めたような、悲しむような。それは、そんな声だった。
「まさか……ちがう。いや、まさかそんな……!」
伊織を押し倒していた香月は、口元を押さえてよろよろと立ち上がる。
まるで子どものころ体信じていた世界が、目の前で壊れてしまったかのように。
「勝負あり! 勝者、右方 一條香月!」
決勝の間、立ち入ることのできないよう引かれた紐が解かれる。
「香月様!」
香月は瑠璃の制止も聞かず、逃げるようにその場を離れた。
「……大丈夫ですか。伊織様」
瑠璃は少し迷った後に、まずは伊織に駆け寄った。
「ありがとう。でも、私は大丈夫です」
『橘家の令嬢は、どうやら伊織様が心配らしい』
『やはり、伊織様が優勢か?』
その様子を見た男たちが、またこそこそと話を始める。
伊織は彼らを横目に見て、とんと瑠璃の背を押した。
「私にかまわず、どうか彼のことを追ってください」
■
「香月様。香月様、どこですか?」
瑠璃が香月を探したが、彼はなかなか見当たらなかった。
瑠璃は少し悩んだ後に、伊織から聞いた話を思い出した。
(そういえば、たしか昔伊織様が――)
瑠璃は元々伊織の婚約者だった。だから瑠璃は、伊織が死んだと聞かされて彼と祝言をあげるまで、香月とは面識がなかったし、ほとんど話したことはなかった。
でも、瑠璃は知っている。
香月が悲しいとき、どこにくれる人なのか。父に怒られたとき、訓練がつらかったとき――どこで、一人で過ごすのか。
なぜなら。
(伊織様が、私に教えてくれた)
弟について語る、伊織の瞳は優しかった。
その姿を見て、伊織は兄として、弟のことを思う人なのだと思った。
心優しい婚約者。
世間が彼を『王子』だとか持て囃しても、瑠璃の知る伊織は、それだけではなくて。
そんな彼の妻になることが、いつからか瑠璃の夢になった。
「香月様?」
伊織から聞いていた通りの場所で、香月は一人立っていた。
「る……瑠璃さ……?」
香月の声は涙声で震えていた。それでも精一杯、取り繕おうとしているような声だった。
もしかしたら、香月は泣いているのかもしれない。
瑠璃は、香月の涙をふいてやりたいと思った。だが彼は、そのために近付いた瑠璃の体を、ぎゅっと抱きしめた。
「すいません……。今は、どうか私の顔を見ないでください」
瑠璃は何も言わずに、香月に体を預けて目をつぶった。
そして二人が一條家の屋敷に戻ると、すぐに広間に集められた。宗次郎の隣には、伊織の母である詩織が控えていた。
「次期当主は――伊織ではなく、香月とする」
だからこそ宗次郎のその決定に、伊織だと確信していた分家の人間たちは、非難する声を上げた。
■
妖魔は、満月の夜にその力が強くなる。
満月まではあと少し。その女は楽しそうに笑って、実の息子の額に手をかざした。その瞬間、子どもの体が光を放つ。
「あは、はははははっ!」
女は歓喜の声をあげた。
子どもは何の反応も示さない。代わりに、そばにいた少年によく似た外見をした少女が悲鳴を上げた。
「ああ、ああああっ!」
少女は血を吐きながら、体を引きずりながらその女を止めようとしていた。
「お願い。やめて、お母様。このままじゃ、りおうが死んじゃう……!」
だが女は、少女の言葉に耳など貸さなかった。
ただ目の前の快楽と狂気だけが、今の女の全てだった。
「さあ、楽しい芝居を見せてちょうだい」
『伊織様が? どうして。死んだのではなかったのか』
『それが、異国の女とともに帝都に現れたそうだ。話によると、記憶を失っているとか』
香月が市で伊織と喧嘩をしたせいで、伊織が帰還したらしいという噂は帝都に広まっていった。
『――記憶を?』
『ああ。それで、女は身ごもってもいたらしい』
『まさか、そんな。それは本当のことなのか? 確か彼は、橘の令嬢と婚約しているのではなかったか』
『ああ。それは、代わりに弟に嫁いだらしい』
上流階級の醜聞。
パレードの裏側の隠された黒い噂。瑠璃・香月・伊織の三角関係は、一気に人の注目を浴びることになってしまった。
『そういえば、その少女の母は白藤家の血筋だったという話ではなかったか』
『それは――また』
『実に面白い話じゃないか』
『橘家と白藤家の血を引くという令嬢は、結局どちらを選ぶんだ?』
当人たちの心など知らずに、人々は彼らの関係を邪推して、面白おかしく話をしていた。
■
「伊織お兄様は私に対して『誰』とかいうし! 香月お兄様はお怒りのままで話しかけにくいし! 沙良は最近とても不愉快です!」
そして、この噂の渦中にある一條家の当主、一條宗次郎は、分家筋も集めてある発表をした。
『一條家の跡取りについては、一度白紙に戻すことにする』
伊織の帰還により、瑠璃の立場も曖昧な立場になった。それは、宗次郎がその席で香月に言った、とある言葉のせいだ。
『香月。白藤家の当主に、彼女とは床を共にしていないと口にしたらしいな。事実か?』
『はい。事実です』
正当な血筋を当主に立てるというなら、その第一候補は伊織である。
そして今、記憶喪失ではあるが妻を連れ、彼は帰還した。彼女の腹に、一條の血を継ぐ子供を宿して。
対する香月の母は、元警邏隊の第二夫人だ。
どちらの血筋がいいかと聞かれたら、誰もが伊織だと答えるだろう。現在瑠璃は香月の妻という立場ではあるが、最近見つかった瑠璃の母方の祖父母は瑠璃と香月を話すべきだという話をしていることもあり、瑠璃の立場が香月を当主の座へと押し上げるには力が足らなかった。
そして香月に離縁を告げられた身である瑠璃は、その席に参加を許されなかった。
(宗次郎お父様は、普段は明るく笑っていらっしゃるけれど、まじめなお顔をされているときは香月様によく似ていらっしゃっるのね……)
誰も宗次郎に反論出来なかったと、沙良は瑠璃に話した。
これにより、引き続き伊織とその妻セイラも屋敷にとどまることになり、瑠璃は心が落ち着かなかった。
沙良と瑠璃が話をしていると、突然瑠璃の部屋の飛びが開かれた。
「瑠璃さん」
なんと、それは伊織だった。
「!?」
「伊織お兄様!?」
瑠璃以上に、妹である沙良が驚いていた。彼女は、部屋の中に入ってこようとする伊織の体を、グイグイ押して新しい。
「伊織お兄様は、中にはいっちゃだめ!」
沙良は叫んだ。
「瑠璃お姉さまは、今は香月お兄様の奥さんなのだから! 香月お兄様の許しなく、この部屋に入ることは許さないわ!」
「……なるほど」
伊織はその話を聞いて、にやっと笑った。
「では、部屋ではなくともに外に出るのは?」
■
(伊織様と、またこうやって出掛けることができるなんて――)
沙良が伊織と同じ馬車に乗ることを許さなかったため、瑠璃は歩いて出かけることになった。
「妻と、話をされたそうですね」
「は、はい……」
だが、セイラのことを話題に出されて、瑠璃は声が小さくなった。
そんな瑠璃に、伊織は続けた。
「妻と、そのお父上は、私の命を救ってくださった恩人です。私がかつて貴方と、結婚の約束をしていたという話を聞きました。今は、私の弟と結婚されたということも」
伊織は、瑠璃の左手の薬指を見た。
瑠璃の指には、香月から持った銀の指輪がまだ嵌っている。
「彼は――貴方を、とても大切に思っているようですね」
「え?」
「そうでなければ、私と妻の顔を見るなり怒るはずがない」
くすくす、と伊織が笑う。
瑠璃はその言葉を聞いて、わずかに喜んでしまった自分を恥じた。
(違う。私は、私はずっと伊織様が――)
だがその感情を口にすることを、伊織は瑠璃に許さなかった。
「瑠璃さん。私は、この家に戻るつもりはありません」
それはひどく、落ち着いた声だった。
「私にも貴方にも、今はそれぞれ家族がいる。それをいまさらすべてなかったことにして、何事もなかったように私が貴方と婚礼を上げるのは、人として薄情だとは思われませんか」
■
「――瑠璃さん!」
伊織と二人歩いていると、瑠璃は香月のいる警邏隊まで来てしまっていた。
「どうしてこちらに? 誰か護衛は――」
瑠璃が来たという話を聞いて、門番は香月に連絡をしたようだった。香月は瑠璃のそばにいる男を見て、あからさまに顔をしかめた。
「何故、兄上とご一緒なのですか」
「少し、彼女話をしようと思ったです。私は記憶がないので、瑠璃さんなら道もご存じかと。そしたら、偶然ここに」
「瑠璃さんは、ずっと橘のお屋敷にいらしたんです。帝都の道は、あまりご存じではありません。ですから、彼女を護衛もつけずにつれて歩くのはおやめください」
「別に、そう怒らなくてもいいではないですか。妖魔が現れるといっても、それは貴方方が、きちんと倒して守ってくださっているのでしょう? であれば、私がそばにいれば問題がないのでは?」
「記憶を失った今の貴方に、戦える力があるとでも?」
香月の声は低かった。
「さあ? それは。試してみなければわかりません」
挑発を受け取るような物言い。香月は伊織を見つめ、それから伊織に、手袋を投げつけた。
「わかりました。では私が、貴方の力を見定めて差し上げます」
■
『なんでもお二人が戦うらしい』
『え? 伊織様は、まだ戻られたばかりではなかったのか』
『もしかしてこの勝負で、一條家の跡取りが決まるのか?』
(――大変なことになってしまった)
売り言葉に買い言葉。
香月からの決闘を受けた伊織は、周囲の声などまるでに気にしていないようだった。
「ずいぶん多くの観衆ですね。少し、恥ずかしくなってしまいます」
「ふざけたことをおっしゃらないで下さい」
涼やかな外見に、どこか飄々とした態度。
記憶はないはずなのに、その姿はどこか宗次郎と似ていた。
伊織は今、かつて『一條伊織』が手にしていた刀を手にしていた。
「おや、貴方は『会話』はお嫌いですか? それでは、瑠璃さんと話もうまく続かないのでは。想う女性を楽しませられないようでは、夫として失格ですよ」
「――貴方にその言葉を口にする権利はない」
挑発するような伊織の言葉に、香月は刀を振り上げた。
まさしく『真剣勝負』。
異能をまとわせていれば人は斬れない。だが、つまりまとわせなければ『人も斬れる』。
命をかけた刀と刀のぶつかり合いに、誰もがその勝敗を、固唾を呑んで見守っていた。
「瑠璃さんを悲しませて……あまつさえ、戻ってきたと思ったら身重の女連れなんて。どこまで彼女の心を踏みにじれば気がすむのですか!」
香月の声は、まるで魂の叫びのようだった。
「貴方は本当に最低だ。昔から、私にはない全てを持っているのに。貴方なら、私が望んではならぬものも、全て手に入れられるのに。どうしてそれを、簡単に手放すことができるんだ!」
どうして。どうして。どうして――。
対する伊織は、香月がどんなに思いを叫んでも、まるで届いていないような顔をしていた。
「手に入れるのが容易なら、捨てることも簡単だとでもお思いなのですか……!」
一條伊織がいなければ、一條香月の能力は最初から正当に評価されていたはずだ。
瑠璃は最初から香月が婚約者で。
そうすればきっと、悲しむ必要などなくて。
「全力で行かせていただきます。ですから、貴方も私に、貴方の本気を見せてください」
香月は、刀に異能の力を纏わせた。
伊織は少し迷った後に――香月に合わせるように、水の力を纏わせる。
水と火。
本来であれば、香月の敗北は明らかだった。
「……え?」
瑠璃はその光景を見て、思わずそう声を漏らしていた。
何故なら絶対に火は水に勝てないと思っていたのに、香月の火は伊織の水を包んで水は消え、伊織の体はそのまま後方へと倒れしまったからだ。
圧倒的な能力差が、属性差さえも塗り替えた瞬間だった。
だが、敗北した伊織の耳のそばに刀を突き立てて、香月は泣きそうな声で叫んだ。
「どうしていつも――貴方は私と、本気で向き合ってくれないんだ!」
まるで、兄に本気で遊んでもらえないと、なく小さな子供のように。
そんな弟に、伊織は彼の目を見ていった。
「本気だよ」
「?」
「ずっと――僕は、本気だったよ」
諦めたような、悲しむような。それは、そんな声だった。
「まさか……ちがう。いや、まさかそんな……!」
伊織を押し倒していた香月は、口元を押さえてよろよろと立ち上がる。
まるで子どものころ体信じていた世界が、目の前で壊れてしまったかのように。
「勝負あり! 勝者、右方 一條香月!」
決勝の間、立ち入ることのできないよう引かれた紐が解かれる。
「香月様!」
香月は瑠璃の制止も聞かず、逃げるようにその場を離れた。
「……大丈夫ですか。伊織様」
瑠璃は少し迷った後に、まずは伊織に駆け寄った。
「ありがとう。でも、私は大丈夫です」
『橘家の令嬢は、どうやら伊織様が心配らしい』
『やはり、伊織様が優勢か?』
その様子を見た男たちが、またこそこそと話を始める。
伊織は彼らを横目に見て、とんと瑠璃の背を押した。
「私にかまわず、どうか彼のことを追ってください」
■
「香月様。香月様、どこですか?」
瑠璃が香月を探したが、彼はなかなか見当たらなかった。
瑠璃は少し悩んだ後に、伊織から聞いた話を思い出した。
(そういえば、たしか昔伊織様が――)
瑠璃は元々伊織の婚約者だった。だから瑠璃は、伊織が死んだと聞かされて彼と祝言をあげるまで、香月とは面識がなかったし、ほとんど話したことはなかった。
でも、瑠璃は知っている。
香月が悲しいとき、どこにくれる人なのか。父に怒られたとき、訓練がつらかったとき――どこで、一人で過ごすのか。
なぜなら。
(伊織様が、私に教えてくれた)
弟について語る、伊織の瞳は優しかった。
その姿を見て、伊織は兄として、弟のことを思う人なのだと思った。
心優しい婚約者。
世間が彼を『王子』だとか持て囃しても、瑠璃の知る伊織は、それだけではなくて。
そんな彼の妻になることが、いつからか瑠璃の夢になった。
「香月様?」
伊織から聞いていた通りの場所で、香月は一人立っていた。
「る……瑠璃さ……?」
香月の声は涙声で震えていた。それでも精一杯、取り繕おうとしているような声だった。
もしかしたら、香月は泣いているのかもしれない。
瑠璃は、香月の涙をふいてやりたいと思った。だが彼は、そのために近付いた瑠璃の体を、ぎゅっと抱きしめた。
「すいません……。今は、どうか私の顔を見ないでください」
瑠璃は何も言わずに、香月に体を預けて目をつぶった。
そして二人が一條家の屋敷に戻ると、すぐに広間に集められた。宗次郎の隣には、伊織の母である詩織が控えていた。
「次期当主は――伊織ではなく、香月とする」
だからこそ宗次郎のその決定に、伊織だと確信していた分家の人間たちは、非難する声を上げた。
■
妖魔は、満月の夜にその力が強くなる。
満月まではあと少し。その女は楽しそうに笑って、実の息子の額に手をかざした。その瞬間、子どもの体が光を放つ。
「あは、はははははっ!」
女は歓喜の声をあげた。
子どもは何の反応も示さない。代わりに、そばにいた少年によく似た外見をした少女が悲鳴を上げた。
「ああ、ああああっ!」
少女は血を吐きながら、体を引きずりながらその女を止めようとしていた。
「お願い。やめて、お母様。このままじゃ、りおうが死んじゃう……!」
だが女は、少女の言葉に耳など貸さなかった。
ただ目の前の快楽と狂気だけが、今の女の全てだった。
「さあ、楽しい芝居を見せてちょうだい」

