私この度、愛した人の弟と結婚することになりました。

(私、どうかしているわ。……こんなにも浮かれてしまうなんて)

 昨晩の詩織の言葉を思い出し、瑠璃は翌朝も気分が晴れなかった。
 
(私を生かしてくださったのは、あの日私の心を守ってくださったのは、他ならぬ伊織様だったのに)

「『お母様』……」

 瑠璃は髪飾りを見つめて一人呟き、そしてドタドタという足音を聞いてそれをさっと隠した。

「瑠璃お姉様! おはようございます! お姉様が広間に来られないので、沙良がお迎えに来ましたよ!」

 足音の主は沙良だった。
 もう朝食の時間らしい。瑠璃は立ち上がろうとして、それから小さく首を横に振った。

「ごめんなさい。今日は食事は控えたいと、そう伝えてくれる?」
「え? もしかしてお食事も取れないほど、体調がお悪いの!?」

 瑠璃は沙良に部屋から下がってほしかったが、気持ちが伝わらないのが沙良である。

「そういうことではないけれど……」
「じゃあ、なんで? 瑠璃お姉様に元気がないと、沙良はとても心配になってしまいます!」

 沙良はなかなか引き下がらない。
 そのせいで、瑠璃は思わず彼女の前で失言してった。

「だって私は、幸せになってはいけないから」

 瑠璃の言葉に、沙良の笑顔が引きつる。

「どうして?」
「沙良さ――」

 失言だった、と瑠璃が思ったときには遅かった。

「どうしてそんなことを? もしかして、また何か――」

(ここで、詩織お義母様の口にしては駄目)

 沙良は、この屋敷の太陽だ。
 彼女が、この屋敷の誰かを嫌うような言葉を、あとからやってきた自分が言ってはならない。

「……私を産んでくださったお母様は、私のせいで亡くなったの」
「え?」

 沙良は、今にも泣きそうで、きらきらさせていた目を瞬かせた。

「昔、お母様と出かけた時に、妖魔が出たの」

 瑠璃の過去は事実だった。

「お母様は私を守って――そのまま妖魔に食われたと、お父様には聞かされたわ」
「嘘……」
「本当よ。警邏隊の方々がまだ生きていた私を見つけて、父のもとに届けてくださったんですって」

 だから、瑠璃は母の亡骸さえ弔うことができなかった。

「お母様が亡くなってから、お父様は私をさけるようになられた。もともと私に優しい人ではなかったけれど、屋敷から出るなと言われて、外出もほとんど禁じられたの」

 だから瑠璃は、『外』を知らない。
 
「でも。……一度だけ、外に出たことがあるの。いつもしまっているはずの扉が開いていて、私は、お父様に黙って外に出たの」

 ある意味それが、瑠璃の最初で最後の家出だった。

「そしたらね、また、妖魔が出たの」

 この帝都で妖魔が出る確率はどのくらいかは瑠璃は知らない。でも、数えるほどしか外出をしたことがない瑠璃が二度も襲われるのは、どう考えても異常だ。

「そんな時、私を助けてくださったのが、伊織様だった」

 初めて会った時、瑠璃は伊織に目を奪われた。
 水の異能を持つ少年。当時はまだ、伊織は警邏隊に父に付き添っている程度の存在だった。
 それでも伊織は、命を懸けて妖魔と戦って瑠璃を守った。

「それから伊織様と、婚約が決まって。……それからもずっと、伊織様は私を守ってくださった。たくさんのことを教えてくださった。でも」

 その伊織は――。

「私に関わると、私の大好きな人は……みんな、みんな、死んでしまうの」

 伊織が死んだ時に、瑠璃の心は一度死んだのだ。

「私に力があったら、もしかしたら二人を守れたかもしれない」

 橘家の異能は守護。
 だが、この異能の効果範囲は限られており、当主である和臣は帝の座所である内裏を守るのが仕事だ。
 橘家の血を引き、守護の異能を授かった人間は、各地を守っているが、効果範囲が広い場合は効果が弱くなる場合があり、その場合は防ぎきれない。
 戦闘能力のある一條家とは違う。
 橘家の異能には弱点がある。
 そして瑠璃には、和臣の娘であるはずなのに弱い力さえない。外見も似ておらず、不義の子であるといわれる有様だ。

「お母様が私のせいで死んで、伊織様が亡くなったのに……私が全部忘れて、笑っていていいはずがない」

 瑠璃の頬から涙が落ちる。
 沙良は、黙って瑠璃の話を聞いていた。そして――泣いていた瑠璃の顔を、沙良は両手で力強く叩いた。

「それは違うわ!」

 突然の痛みで頭が覚醒する。
 沙良は、瑠璃を逃さないとばかりに両手で顔を掴んだまま、瑠璃の目を見て大きな声で言った。

「子どもが不幸になって喜ぶ母がいるわけがないじゃない!」

 沙良の言葉は、これまで大事にされて、愛されて生きてきた子どもの意見そのものに瑠璃には聞こえた。

「沙良はね、子どものころ体がとても弱かったの。大人になるまでは、生きられないだろうと、ずっと言われて育ったの」

 瑠璃の顔を覆う沙良の手は、少しだけ震えていた。

「私が体を崩すたびに、お母様は私に見えないところで、いつも悲しそうな顔をしていた。でもね、無理に私が元気なふりをしたら、無理したら駄目だって言われたの。無理してる姿をみたいわけじゃないって」

 双葉は意外と、ちゃんと親らしいところもあるらしい。

「その時に、お母様に言われたの。『子どもの一番の親孝行は親より長生きして、幸せになることだ』って」

 沙良が生きているのは、白藤家のおかげ。ある意味、偶然の出来事だ。

「ねえ、瑠璃お姉様。瑠璃お姉様のお母様が、瑠璃お姉様を守って亡くなったというのなら――瑠璃お姉様に不幸せになってほしいと、本当にそう思うと思っているの?」

 沙良は、瑠璃が目を逸らすのを許さなかった。
 おちゃらけているような少女だが、ちゃんとしている時はちゃんとしているらしい。

「…………ごめんなさい」

 瑠璃が長い沈黙の後にそういえば、沙良は瑠璃から手を離した。

「その言葉は、私じゃなくて瑠璃お姉様のお母様に言わないと」
「……でも、どうやって?」

 瑠璃の母の遺体はこの世界にもう存在しない。

「それは勿論、心の中で伝えるの! 瑠璃お姉様が生きている限り、瑠璃お姉様の大切な人は、ずっと瑠璃お姉様のなかに生きているんだから!」

 沙良はそう言うと、ばっと大きく瑠璃の前で手を広げた。

「わかった。じゃあ今日は、沙良も朝ごはんは食べない! 代わりに今日は、これから瑠璃お姉様とお出かけする!」