その知らせはまさに、瑠璃にとって晴天の霹靂とも言えた。
「昨晩、一條伊織――お前の許婚が戦死したとの知らせが届いた」
すべての音をかき消すような豪雨。
瑠璃が一人暮らす離れには、ぽたぽたと天井から雨粒が落ちていた。
そして突然外がぴか! と強く光ったと思うと、稲妻が近くに落ちたのか、屋敷の中がわずかに揺れる。
愛する人が死んだと知らされた日。
呆然とすることしか出来ない瑠璃が父から告げられたのは、あまりにもひどい話だった。
「だがお前の婚姻の日取りが変わることはない。お前は、彼の弟と婚礼の儀を行うこととなる」
冷たさを感じる静かな声。
幼い頃から畏怖してやまない父を前に、瑠璃はただ、あかぎれの残る手を床につけ、静かに頭を垂れることしか出来なかった。
「……かしこまりました。謹んで、お受けいたします」
◇◆◇
「まあ、なんて綺麗な花嫁様なのでしょう」
桜の花のつぼみが開き始めた、春の日のことだった。
桜霞国三大公爵家が一つ橘家の長女、橘瑠璃は、同じく公爵家の一條家との婚姻のため、準備を急いでいた。
「こんな花嫁様と祝言を結ぶことが出来るなんて、お相手の方は幸せ者ですね」
いつもは髪に飾り一つなく、季節に合わない着物を着ている瑠璃だが、今日は婚礼の日ということもあり、花嫁らしく美しく着飾っていた。
亡き母譲りの肌は白粉をはたかずとも白いが、今日ばかりは白粉に紅をひいている。
鏡の中の自分の姿は、今日がハレの日であることを瑠璃に告げていた。
「ああ、花嫁様。そのように唇を噛んではいけませんよ。お化粧がくずれてしまいます」
外から呼び寄せた女が、眉を下げて瑠璃に言う。瑠璃は、女の声にハッと我に返ると、握りしめていた拳を開いた。
「――ああ。準備は終わったのね。お姉様」
するとその時、聞き慣れた少女の声が聞こえて、瑠璃は背後を振り返った。
「……『一霞』」
腕を組み、柱に寄りかかるようにして立っている。
瑠璃よりも少し幼い、可愛らしい顔をした美少女は、不遜な表情を浮かべていたが、瑠璃に名を呼ばれニコッと微笑むと、彼女に化粧を施した女に近寄りそっと耳打ちした。
「下がりなさい」
冷えた声。
女は慌てて頭を下げると、逃げるように離れをあとにした。その背を見送りながら、少女は馬鹿にするように静かに目を細めると、瑠璃の目を見て言った。
「さっきの女、見る目がないわね。こんな貧相なお姉様を『綺麗』だなんて。ついこの間まで、お姉様の手が荒れ放題だったと知ったら、あの女はどう思うのかしら?」
今日のため、瑠璃の父は瑠璃に高価な薬を渡し、手の傷を治させた。今でこそ傷はないが、つい先日までは、離れに一人暮らす瑠璃の手には、令嬢らしからぬ傷が多く残っていた。
「許嫁が亡くなったのに、すぐに乗り換える強欲さ。すごいわ。お姉様って本当、結婚できれば誰でもいいのね? やっぱり、お姉様の母の血がそうさせるのかしら?」
「……」
妹の言葉に、瑠璃は反論せずに血が滲むほど拳を強く握りしめた。
瑠璃と一霞。
妹である一霞に『一』の文字が入っているのは、二人が母親の違う腹違いの姉妹のためだ。
一霞の母は、帝に溺愛された娘。対して瑠璃の母は、身元の分からぬただの女だった。
桜の花が国家である『桜霞国』。
遠い昔、『天木《てんぼく》』とも呼ばれる桜の木がこの地にはあり、天はその木を梯子として、神の子を遣わした。
神の子は人ならざる異能を持ち、混乱の中にあった地を、人の助力とともにおさめた。
そして神の子――現在の皇家の祖先は、建国の際の三人の忠臣に、自らの娘を降嫁させた。
故にその子孫である公爵家は『御三家』と呼ばれ、皇族の次に尊い血筋とされている。
天から与えられた異能。天からの祝福は雨のように様々な地位のものにも発現したが、中でも御三家は、強い力を引き継いできた。
全てを薙ぎ払う武力の一條家。
癒やしの力を持つ白藤家。
守護の力を持つ橘家。
異能の力を与えられた者たちはその力を使い、今もこの国を守っている。
一條家の代々の子息は魔物の討伐の際は必ず先陣を務め、白藤家は皇家の筆頭侍医を務め、そして橘家は、帝の暮らす内裏の守護を担っている。
「でもまあ、陰気なお姉様がこの屋敷から出ていってくれるんですもの。いいわ。今日だけは祝福してあげる。だって、これからはお姉様のお顔を見ることがなくなるんなんて、これ以上に嬉しいことはないんですもの」
そして、『橘瑠璃』――彼女は、守護の力を持つ橘家の血を引く人間だ。
だが瑠璃の外見は、父にも母にも似ていない。見目も髪色も瞳の色も、瑠璃はそのどれもが両親とは違っていた。
『不義の子ではないのか』
瑠璃の母は、一霞の母が瑠璃の父に嫁ぐ前からそばにおいていた女だった。身元も分からぬ女。彼女が産んだ娘の風貌もあり、瑠璃の母と瑠璃は周囲の人間からの蔑みの対象となった。
そして瑠璃の母は、守護の力を持たない娘を守るために、妖魔に襲われた際娘を守って死んだ。
「お姉様が出ていってくれたら、やっとこの家の空気がよくなるわ。だって、ねえ? お姉様、ずーっと離れに引きこもってらっしゃって、陰鬱なんだもの。でも、相手も可哀想よね。兄嫁になる予定だった女と結婚だなんて。しかも、本当の橘家の血筋じゃないかもしれない無能を」
「……」
異能の発現は、十八歳ごろまでに起こると言われている。
瑠璃はもう十八というのにまだ発現していない。故に「無能」という評価は、仕方がないとも言えた。
瑠璃がまだ、十《とお》にもなっていない頃のこと。
瑠璃が母を失い、再び妖魔に襲われかけた時に、助けてくれたたのが一條家の長男、伊織だった。
この事件をきっかけに縁談の話が進み、晴れて二人は許婚となったが、母亡き後一人離れに放置されたように暮らしていた瑠璃にとって、一條の屋敷に顔を見せるときだけが、身なりをきれいに整えてもらえる唯一の機会となった。
心優しい、美しい許婚。
二つ年上の伊織は、いつだって瑠璃に優しかった。
伊織は優しげな風貌と物腰の柔らかさから、まるで異国の物語の『王子』のようだと専らの評判で、そののち帝都の守護の任されたこともあり、都中の少女が彼の虜となった。
瑠璃は、そんな彼のそばにあることが申し訳なく思う時もあったが、伊織はいつも優しい声で、瑠璃の名前を呼んでくれた。
「皆言ってますわ。お姉様がお父様の異能を使えないのは、お姉様が本当のお父様の子ではないからだって。ああでも、戻ってこようなんて思わないでくださいね? この家は、私の双子の弟が継ぐのですから」
偉そうにふんぞり返る半分だけ血の繋がった妹を見て、瑠璃は内心ため息をついた。姉妹でありながら、どうして自分は妹から傷つけられねばならぬのだろう。そんな言葉が頭に浮かぶ。
「一霞。こんなところにいたの。母様が呼ばれているよ」
すると、障子が開いて一霞によく似た少年が姿を表した。
橘凛桜――姉である一霞と違い殆ど表情の変わらない瑠璃の腹違いの弟は、今日も何を考えているのか瑠璃には分からなかった。
光の灯らない、意志を感じさせない瞳はいつもどこをみているかわからず少し不気味で、一霞の傍若無人さが可愛く見えてしまうほどだ。だが彼こそが、一霞の言うとおり、この橘家の跡継ぎなのだ。
家督は本来、長子が継ぐもの。
それが、桜霞国の習わしだ。本来であれば瑠璃が婿を迎えて橘の家を継ぐことも可能だったが、一霞と凛桜の母は皇家の血筋――故に、橘家と皇家の血を引く男子である凛桜が橘家を継ぐことが決まった。
母無し無能、不義の子という噂もあり、家督を継ぐことすら能わず――瑠璃という人間は、橘の屋敷において、伊織という糸さえなければ、いつ死んでもいい存在だった。
「姉様」
凛桜はじっと瑠璃を見つめると、静かに頭を下げた。
「この度は、ご結婚おめでとうございます」
それだけいうと、凛桜は一霞の手を握った。
「もう行くよ。母様が待ってる」
「え? 待っ」
その時瑠璃は、一霞の髪が少し乱れていることに気がついて、凛桜が引いていない方の手を引いた。
「何……?」
「一霞、髪が乱れているわ」
「ありが――」
瑠璃が乱れを整えてやれば、一霞の頬にうっすら朱がかかる。一霞の大きな瞳は瑠璃を見上げ少し揺れ、彼女が瑠璃に礼を言おうとしたところで、責めるような声に名を呼ばれ、一霞はぴしっと体をこわばらせた。
「『一霞』」
「おかあ、さま……」
瑠璃の継母――一霞と凛桜の母宮子は、流石皇家の血筋という事もあってか、華のある見目をしていた。
「『一霞』、『凛桜』はやく来なさい」
「は……はい! お母様っ!」
それだけ言うと、宮子は瑠璃を一瞥すらせずに踵を返した。まるでそこに、人間など存在しないとでもいうように。
「お姉様」
母の後を追おうと一歩踏み出した一霞は、ピタリと足を止めて振り返った。
「夫君に見限られて追い出されないよう、せいぜい頑張ってくださいね! この家に、お姉様の居場所なんてないんですから!」
ぱたぱたと、母の背を追い廊下を走る妹を見つめながら、瑠璃は服に隠していた髪飾りを取り出して、それを胸の前でぎゅと抱いた。
そうだ。もう、瑠璃に帰る場所などどこにもない。愛する人は、愛した人は、この世界にはいないのだ。
(私は今日、妻となる。愛した人の、弟の――)
「昨晩、一條伊織――お前の許婚が戦死したとの知らせが届いた」
すべての音をかき消すような豪雨。
瑠璃が一人暮らす離れには、ぽたぽたと天井から雨粒が落ちていた。
そして突然外がぴか! と強く光ったと思うと、稲妻が近くに落ちたのか、屋敷の中がわずかに揺れる。
愛する人が死んだと知らされた日。
呆然とすることしか出来ない瑠璃が父から告げられたのは、あまりにもひどい話だった。
「だがお前の婚姻の日取りが変わることはない。お前は、彼の弟と婚礼の儀を行うこととなる」
冷たさを感じる静かな声。
幼い頃から畏怖してやまない父を前に、瑠璃はただ、あかぎれの残る手を床につけ、静かに頭を垂れることしか出来なかった。
「……かしこまりました。謹んで、お受けいたします」
◇◆◇
「まあ、なんて綺麗な花嫁様なのでしょう」
桜の花のつぼみが開き始めた、春の日のことだった。
桜霞国三大公爵家が一つ橘家の長女、橘瑠璃は、同じく公爵家の一條家との婚姻のため、準備を急いでいた。
「こんな花嫁様と祝言を結ぶことが出来るなんて、お相手の方は幸せ者ですね」
いつもは髪に飾り一つなく、季節に合わない着物を着ている瑠璃だが、今日は婚礼の日ということもあり、花嫁らしく美しく着飾っていた。
亡き母譲りの肌は白粉をはたかずとも白いが、今日ばかりは白粉に紅をひいている。
鏡の中の自分の姿は、今日がハレの日であることを瑠璃に告げていた。
「ああ、花嫁様。そのように唇を噛んではいけませんよ。お化粧がくずれてしまいます」
外から呼び寄せた女が、眉を下げて瑠璃に言う。瑠璃は、女の声にハッと我に返ると、握りしめていた拳を開いた。
「――ああ。準備は終わったのね。お姉様」
するとその時、聞き慣れた少女の声が聞こえて、瑠璃は背後を振り返った。
「……『一霞』」
腕を組み、柱に寄りかかるようにして立っている。
瑠璃よりも少し幼い、可愛らしい顔をした美少女は、不遜な表情を浮かべていたが、瑠璃に名を呼ばれニコッと微笑むと、彼女に化粧を施した女に近寄りそっと耳打ちした。
「下がりなさい」
冷えた声。
女は慌てて頭を下げると、逃げるように離れをあとにした。その背を見送りながら、少女は馬鹿にするように静かに目を細めると、瑠璃の目を見て言った。
「さっきの女、見る目がないわね。こんな貧相なお姉様を『綺麗』だなんて。ついこの間まで、お姉様の手が荒れ放題だったと知ったら、あの女はどう思うのかしら?」
今日のため、瑠璃の父は瑠璃に高価な薬を渡し、手の傷を治させた。今でこそ傷はないが、つい先日までは、離れに一人暮らす瑠璃の手には、令嬢らしからぬ傷が多く残っていた。
「許嫁が亡くなったのに、すぐに乗り換える強欲さ。すごいわ。お姉様って本当、結婚できれば誰でもいいのね? やっぱり、お姉様の母の血がそうさせるのかしら?」
「……」
妹の言葉に、瑠璃は反論せずに血が滲むほど拳を強く握りしめた。
瑠璃と一霞。
妹である一霞に『一』の文字が入っているのは、二人が母親の違う腹違いの姉妹のためだ。
一霞の母は、帝に溺愛された娘。対して瑠璃の母は、身元の分からぬただの女だった。
桜の花が国家である『桜霞国』。
遠い昔、『天木《てんぼく》』とも呼ばれる桜の木がこの地にはあり、天はその木を梯子として、神の子を遣わした。
神の子は人ならざる異能を持ち、混乱の中にあった地を、人の助力とともにおさめた。
そして神の子――現在の皇家の祖先は、建国の際の三人の忠臣に、自らの娘を降嫁させた。
故にその子孫である公爵家は『御三家』と呼ばれ、皇族の次に尊い血筋とされている。
天から与えられた異能。天からの祝福は雨のように様々な地位のものにも発現したが、中でも御三家は、強い力を引き継いできた。
全てを薙ぎ払う武力の一條家。
癒やしの力を持つ白藤家。
守護の力を持つ橘家。
異能の力を与えられた者たちはその力を使い、今もこの国を守っている。
一條家の代々の子息は魔物の討伐の際は必ず先陣を務め、白藤家は皇家の筆頭侍医を務め、そして橘家は、帝の暮らす内裏の守護を担っている。
「でもまあ、陰気なお姉様がこの屋敷から出ていってくれるんですもの。いいわ。今日だけは祝福してあげる。だって、これからはお姉様のお顔を見ることがなくなるんなんて、これ以上に嬉しいことはないんですもの」
そして、『橘瑠璃』――彼女は、守護の力を持つ橘家の血を引く人間だ。
だが瑠璃の外見は、父にも母にも似ていない。見目も髪色も瞳の色も、瑠璃はそのどれもが両親とは違っていた。
『不義の子ではないのか』
瑠璃の母は、一霞の母が瑠璃の父に嫁ぐ前からそばにおいていた女だった。身元も分からぬ女。彼女が産んだ娘の風貌もあり、瑠璃の母と瑠璃は周囲の人間からの蔑みの対象となった。
そして瑠璃の母は、守護の力を持たない娘を守るために、妖魔に襲われた際娘を守って死んだ。
「お姉様が出ていってくれたら、やっとこの家の空気がよくなるわ。だって、ねえ? お姉様、ずーっと離れに引きこもってらっしゃって、陰鬱なんだもの。でも、相手も可哀想よね。兄嫁になる予定だった女と結婚だなんて。しかも、本当の橘家の血筋じゃないかもしれない無能を」
「……」
異能の発現は、十八歳ごろまでに起こると言われている。
瑠璃はもう十八というのにまだ発現していない。故に「無能」という評価は、仕方がないとも言えた。
瑠璃がまだ、十《とお》にもなっていない頃のこと。
瑠璃が母を失い、再び妖魔に襲われかけた時に、助けてくれたたのが一條家の長男、伊織だった。
この事件をきっかけに縁談の話が進み、晴れて二人は許婚となったが、母亡き後一人離れに放置されたように暮らしていた瑠璃にとって、一條の屋敷に顔を見せるときだけが、身なりをきれいに整えてもらえる唯一の機会となった。
心優しい、美しい許婚。
二つ年上の伊織は、いつだって瑠璃に優しかった。
伊織は優しげな風貌と物腰の柔らかさから、まるで異国の物語の『王子』のようだと専らの評判で、そののち帝都の守護の任されたこともあり、都中の少女が彼の虜となった。
瑠璃は、そんな彼のそばにあることが申し訳なく思う時もあったが、伊織はいつも優しい声で、瑠璃の名前を呼んでくれた。
「皆言ってますわ。お姉様がお父様の異能を使えないのは、お姉様が本当のお父様の子ではないからだって。ああでも、戻ってこようなんて思わないでくださいね? この家は、私の双子の弟が継ぐのですから」
偉そうにふんぞり返る半分だけ血の繋がった妹を見て、瑠璃は内心ため息をついた。姉妹でありながら、どうして自分は妹から傷つけられねばならぬのだろう。そんな言葉が頭に浮かぶ。
「一霞。こんなところにいたの。母様が呼ばれているよ」
すると、障子が開いて一霞によく似た少年が姿を表した。
橘凛桜――姉である一霞と違い殆ど表情の変わらない瑠璃の腹違いの弟は、今日も何を考えているのか瑠璃には分からなかった。
光の灯らない、意志を感じさせない瞳はいつもどこをみているかわからず少し不気味で、一霞の傍若無人さが可愛く見えてしまうほどだ。だが彼こそが、一霞の言うとおり、この橘家の跡継ぎなのだ。
家督は本来、長子が継ぐもの。
それが、桜霞国の習わしだ。本来であれば瑠璃が婿を迎えて橘の家を継ぐことも可能だったが、一霞と凛桜の母は皇家の血筋――故に、橘家と皇家の血を引く男子である凛桜が橘家を継ぐことが決まった。
母無し無能、不義の子という噂もあり、家督を継ぐことすら能わず――瑠璃という人間は、橘の屋敷において、伊織という糸さえなければ、いつ死んでもいい存在だった。
「姉様」
凛桜はじっと瑠璃を見つめると、静かに頭を下げた。
「この度は、ご結婚おめでとうございます」
それだけいうと、凛桜は一霞の手を握った。
「もう行くよ。母様が待ってる」
「え? 待っ」
その時瑠璃は、一霞の髪が少し乱れていることに気がついて、凛桜が引いていない方の手を引いた。
「何……?」
「一霞、髪が乱れているわ」
「ありが――」
瑠璃が乱れを整えてやれば、一霞の頬にうっすら朱がかかる。一霞の大きな瞳は瑠璃を見上げ少し揺れ、彼女が瑠璃に礼を言おうとしたところで、責めるような声に名を呼ばれ、一霞はぴしっと体をこわばらせた。
「『一霞』」
「おかあ、さま……」
瑠璃の継母――一霞と凛桜の母宮子は、流石皇家の血筋という事もあってか、華のある見目をしていた。
「『一霞』、『凛桜』はやく来なさい」
「は……はい! お母様っ!」
それだけ言うと、宮子は瑠璃を一瞥すらせずに踵を返した。まるでそこに、人間など存在しないとでもいうように。
「お姉様」
母の後を追おうと一歩踏み出した一霞は、ピタリと足を止めて振り返った。
「夫君に見限られて追い出されないよう、せいぜい頑張ってくださいね! この家に、お姉様の居場所なんてないんですから!」
ぱたぱたと、母の背を追い廊下を走る妹を見つめながら、瑠璃は服に隠していた髪飾りを取り出して、それを胸の前でぎゅと抱いた。
そうだ。もう、瑠璃に帰る場所などどこにもない。愛する人は、愛した人は、この世界にはいないのだ。
(私は今日、妻となる。愛した人の、弟の――)

