君の音が届くまで

「集合ーーーーー!」

翌朝、部長の怒号のような合図で、俺は眠い体を叩き起こしながらグラウンドを駆け回っていた。朝練のメニューをこなし、汗を拭いながら引き上げる途中に、飯田先輩が早朝から騒がしく声を張り上げる。

「ちょ、誰か宿題見してって!」

よりによって、鬼先生で有名な環先生の英語の宿題を忘れるなんて、もはや勇敢と称えるべきである。

頭を抱えて砂の上に膝をつき、絶望に浸っていた飯田先輩だったが、あるものを見つけた瞬間に一瞬で光が差したようにバッと立ち上がった。

「もしかして、あそこにいるのって園田……?」
「……」

飯田先輩の目線の方向を追って振り向いた時。そこには、ポツリと一人で校舎に入る園田先輩の姿が目に入った。

「妖精様なら見してくれるはずだっ!!」

人間は極限状態になった途端、思考力が急低下する。話したこともない人、ましてやあの園田先輩に声を掛けるなんて、本来なら考えるわけがない。

それなのに、飯田先輩は一目散に園田先輩の元へ走っていき、迷いもなく話しかけていた。俺は、その姿をただ眺めているだけなのに、胸の奥がほんの少しだけイガイガする。

「うわ~、英語のノート貸してくれてマジ助かる!! ありがとう!!」
「飯田君って隣のクラスだよね。体育が合同だから覚えてた」
「話したことないのに!? 光栄だわ!」

遠目からでも、園田先輩がいつもの浮世離れしたオーラで穏やかに微笑んでいるのが分かった。
なぜだろう。話したこともない飯田先輩が、あんな風に遠慮なく先輩の距離感に入り込んでいるのも、 “同じ学年”という俺にはない有利な武器があるのも、なんだか無性に気に食わない。

気づけば俺は、自分でも驚くほどの足取りで、二人の間に割って入るように一歩踏み出していた。

「おはようございまーす。朝から災難ですね」

いくら他人に興味がなさそうな天才ピアニストでも、さすがに同じ学校の生徒だ。おまけに俺は、女子からの人気も、サッカー部での知名度もトップクラスの男。顔くらい、絶対に見たことがあるはずだ。

いつもの女子に向けるような、自信満みの笑みを顔に貼り付けて、俺は園田先輩の視線を覗き込むようにして話しかけた。

俺のことくらい、当然分かっているだろ。

そんな傲慢な確信を抱きながら、先輩の反応を待った。
けれど、園田先輩は首を小さく傾げると、綺麗な瞳に薄いガラスでも嵌めたかのような、完璧に初対面の温度で俺を見つめた。

「……おはようございます。あの、……飯田君の後輩?」
「……え」

その場の空気が、ピキリと凍りついた気がした。
誰? とでも言いたげな、1ミリも記憶にないという眼差し。

「あれ、園田、こいつのこと知らない? サッカー部の馬橋。有名じゃん」

飯田先輩が不思議そうに首を傾げる。

「えーっと……話したこと、あったっけ……?」

本当に思い出せないというように、眉をハの字にして困ったように笑う園田先輩。

「あっ……いや、……ない、です……」

プライドを派手に打ち砕かれた俺は、差し込む朝光の中で、ただ間抜けに立ち尽くすことしかできなかった。