君の音が届くまで




その日の放課後。部室の前でスパイクの紐を結ぶ飯田先輩に、俺はさりげなく話を振ってみた。

「飯田先輩の学年に、めっちゃ妖精みたいな人いません?」
「は? 何言ってんだお前、妖精なんているわけねぇだろ」
「いや……園田先輩っていう……」

結局、ストレートに名前を出してしまい、わざわざ遠回しに探ろうとした自分が無性に恥ずかしくなる。

「あー! 園田ね! 確かにあいつ、妖精みてーかもな」
「ピアニストなんですよね」
「らしいな。一年の頃は気難しい奴かと思ってたけど、あいつ意外と抜けてんだよなー」
「ふぅん……」

確かに、今日も購買で財布を抱えたまま棒立ちしていたっけ。
近づきにくいオーラ全開のくせに、周りには不思議と人が集まっている。つるんでいるのも、正反対のタイプばかりだったな。

「つかお前、園田がどうしたんだよ」
「いや、今日購買で見かけて、綺麗な人だなって思っただけです」
「おー、馬橋にそこまで言わせるとは、さすが園田だな。俺もクラス違うから、全然話したことねぇけど」

飯田先輩は、紐をギュッと結んだあと、「あ、そういえば…」とスポドリを手に取った。

「これは同じクラスの奴から聞いた話だけど、あいつこの前、授業中に教科書だと思って堂々と開いたら、中身が全部ピアノの楽譜だったらしくてさ。先生もツッコミに困ったって」

ガハハと笑う飯田先輩の話を聞きながら、俺は足元に落ちている小枝を拾って手いたずらをしていた。無意識にあの日の記憶を手繰り寄せれば、あまりにも鮮明に思い浮かぶことにまた嫌気がさして乾いた声を漏らす。

「…意外っすね」
「ギャップってやつだろ。そのせいか女子だけじゃなくて男にも人気あるらしいし」

なんだそれ、ばっかじゃねぇの……。
いじっていた小枝が弾けるように折れた。

知れば知るほど、自分が分からなくなる。もっと知りたいと思っても、知って後悔することもある。そんな自分に、微かな違和感を覚えていた。

「よし、馬橋! 今日もガッツリしごいてやるからな!」
「……はい。お願いします」

上の空のままグラウンドへ飛び出し、なんとか今日の全体練習を乗り切った。だけど、キャプテンが「解散!」と言い切るか言いきらないかのタイミングで、俺の身体はまた、昨日と同じ行動を起こしていた。

「あ、凛! 自主練――」
「わりぃ、今日用事ある!」

佐藤の呼び止めに振り返りもせず、部室へダッシュしてスパイクを脱ぎ捨てる。上履きに履き替え、カツカツと廊下を急ぐ自分の足音が、やけにうるさく耳に障った。

俺、何やってんだよ……まじで………

ただの気まぐれ。ちょっと興味が湧いただけ。
そう自分に言い訳しながらも、階段を駆け上がる足は止められない。

夕暮れの校舎。誰もいない静まり返った廊下を進み、あの重い扉の前に立つ。
息を整え、壁に寄りかかった。

――聴こえる。

あの切なくて、どこか胸を締め付けるような『愛の夢』の旋律。
まるで、二人だけの空間にいるような感覚が何よりも心地がいい。

この時間をずっと独り占めできたらいいのに……

そんな独占欲を自覚したくないのは、俺のくだらないプライドのせいなのか、それとも――。