君の音が届くまで

それからというもの、俺の耳は完全にそのピアノの音に調教されていた。

午後練の最中、そのメロディが聞こえてくると、ステップを踏む足が少しだけ軽くなる。名前も知らないその曲は、いつの間にか俺の毎日に、なくてはならないものになっていた。



そんな、ある日の放課後だった。



「おい凛、ラスト一本、サボんなよ!」

「わかってるって」



汗を拭いながら、俺はふと校舎を見上げた。

おかしい。いつもなら、もうとっくに聞こえてくるはずの時間なのに…グラウンドに響くのは、部員の掛け声とボールを蹴る乾いた音だけ。あの綺麗な旋律は、どこからも聞こえてこなかった。



ただの気まぐれ。あるいは練習が終わっただけ。

頭ではそう分かっているのに、一度気になり始めると、もうダメだった。目の前のボールに対する集中力が、目に見えて削がれていく。



「よーし、今日の全体練習はここまで! 各自自主練して解散!」



キャプテンの声が響いた瞬間、俺は誰よりも早く動いた。



「凛、これから自主練付き合えよ」

「わりぃ、今日ちょっと用事あるわ」

「は? お前が自主練残らないなんて珍し………」



背後からの呼び止めを適当に手を振ってあしらい、俺は部室へ走ってスパイクを脱ぎ散らかした。上履きに履き替え、汗を拭うのも忘れて、導かれるように校舎へと向かう。



夕暮れの校舎は、部活中のグラウンドとは打って変わって静まり返っていた。

トントン、と上履きの軽い音が無機質な廊下に響く。



あー俺、何やってんだろ……



自分でも驚くほど必死だった。妙に緊張して心拍数が上がっていく。



どんな人なんだろ、てかそもそも今日いるのかな…なんて考えながらも、いつもなら絶対に近づかない、静かで、どこか浮世離れした空間へと着いてしまった。

その一番奥にある重い扉の前に立ったとき、俺は小さく息を呑んだ。



その瞬間だった____



鼓膜を突き刺したそのメロディに、俺の全身の血が凍りついた。ピアノの音だ。間違いない。息を殺して音楽室を覗いた。



「………っ…」



西日に透けるような、少し長めでサラサラとした色素の薄い髪。

色白で、鍵盤を叩く指先が驚くほど細く長い。どこか儚げで、彫刻のように綺麗な横顔をしている。



夕暮れの教室で、圧倒的な旋律を紡ぎ出すその“男”の姿から、俺はしばらく目が離せなかった――。