――――――――――
石動玲奈は、まだ手の震えが収まらなかった。
……夫は、私を嫌いになったのだろうか。
夫は市の職員だ。
ゴミ処理場で働いていて、同期の中では出世頭。
今年の4月から、係長に昇進した。
親切で、人当たりが良くて、器用で。
よくできた夫だと、周りからは言われた。
あなたは幸せ者だと、皆から言われた。
それなのに。
先月、夫の職場の親睦旅行があった。
行き先は温泉地。
見送りの時、玲奈が「寂しい」と呟いたら、彼は「今度、一緒に行こう」と頭をなでてくれたのだ。
……全部、嘘だったのだろうか。
昨日、夫の仕事カバンに、見慣れぬ封筒が入っていた。
「旅行写真 石動係長へ」と書かれていた。
その時、夫は入浴中。
どんな旅行だったんだろうと、玲奈はドキドキしながら、中の写真を取り出した。
風呂上がりの彼から、土産話を聞くのを楽しみにしながら。
そうしたら。
名所で撮った集合写真のほかに、出るわ出るわ、若い女子職員との、仲睦まじいツーショット。
肩を抱き寄せて、名所巡りをする写真。
食事をあーんしてもらう写真。
宴会場で撮ったと思われる、ほっぺたをくっつけ合った写真。
明らかに尋常ではない様子に、鳥肌が立った。
……何これ。別の世界線の写真?
信じられない。見たくない。でも、目が離せない。
次々と出てくる不倫写真の数々に、ふと1枚、何でもない写真が混じっていた。
触れ合うわけでもなく、ただ2人で談笑している、何気ない1枚。
それが1番許せなかった。
夫の顔が、幸せに満ちていたから。
「おーい、タオル」
浴室から声が聞こえて、慌てて写真をポケットにしまい込んだ。
その夜、夫が寝静まってから、夫のスマホを見た。
黒が確定した。
涙が止まらなかった。
そして今日、玲奈は体調不良と言って仕事を休み、かといって寝込んでいると死にたい気持ちが止まらず、あてもなく街をさまよい歩いた。
そして。
疲れ切った玲奈は、今、こうして喫茶店のイスに座っている。
とても家に帰れる気がしなかった。
注文する気力すら湧かず、ただぼうっと、テーブルのどうでもいい木目を眺める。
思い浮かぶのは、自分に向けられる夫の顔だ。
当たり障りない表情。
その向こう側を勘繰ってしまうのがつらくて、玲奈は例の談笑写真を取り出す。
幸せそうな顔……こちらの気など何も知らない、能天気な顔を眺めていると、悲しみよりも怒りが湧いてくる。
こんな写真、燃やしてやりたい。
でも、燃やしたところで、自分がひどい女になるだけだ。
「……死ねばいいのに」
そう、呟く。
すると。
ぽうっと夫の顔に、赤いものが揺らめいた。
え、と戸惑っている内に、夫の顔がぐにゃりと歪んで黒く変色し、穴が空いて……燃え広がっていく。
「えっ、えっ、嘘、熱っ」
驚いて写真を放ると、床に落ちた写真はメラメラと景気よく燃えていく。
周りのお客さん達が火に気付き、店員が駆けつけ、人だかりができて騒ぐ中。
目を泳がせていた玲奈は、こちらを見てクスクス笑っている女を見つけた。
真っ赤なコートにチリチリ頭。
……以前、夫が口にしていた、ゴミ焼却場に現れる、都市伝説と似ている。
玲奈がまじまじと見つめていると、女は踵を返して店の出口へ向かった。
玲奈は慌てて後を追った。
「ちょっと待って、あなた!
……あなたが燃やしたの?」
人通りの少ない路地で追いつき、呼び止める。
女はすました顔で振り返った。
「何、あんた。
証拠もなしに、人を放火魔呼ばわり?
死ねばいいなんて物騒なこと言うから、代わりに燃やしてあげただけじゃない」
悪びれることもなく笑う女。
「お望みなら、写真だけじゃなく、本人も燃やしてあげる。
大丈夫、骨も残らないから」
「ちょっとやめてよ。
大体あなた、うちの夫が何したか知ってるの?」
「さあ。
でも、妻にこんな思い詰めた顔させるなんて、どうせろくでもない事をしたに決まってるじゃない」
「まあ、それはそうなんだけど」
「燃やしとく?」
「だからやめてってば、そんな物騒な」
話している内に、玲奈はだんだん落ち着いてきた。
あの写真。自分では燃やせなかったが、燃やしたかったのは確かだ。
燃やして当然とでも言いたげな女の態度は、どこか自分を代弁してくれたような気がした。
……燃やしてよかった。
玲奈が深呼吸をしていると。
「燃やしたければ、いつでも言って。
完全犯罪は得意だから」
そう言って、女は赤いバッグを探ると、玲奈に包みを渡した。
100均の、透明なラッピングフィルム。
中には、チョコチップクッキーがぎっしり詰まっている。
「あの、これは」
「私さぁ、焼くのが好きなんだよね。
嫌なものも、良いものも。
……とにかくあんた、何か食べたら?
ひっどい顔、笑っちゃう」
「え……」
「じゃあね」
顔を上げた時には、赤いコートの女は、どこにもいなかった。
玲奈は家の中で、もらった焼き菓子を頬張る。
ざくざく。バリバリ。
固めの歯応えが、荒んだ気持ちには心地よい。
ひたすら噛み砕きながら、今後のことを考える。
自分の気持ちを見極めるには、とにかくエネルギーが必要だった。
貪るように、クッキーを口へ運ぶ。
問い詰めたら、夫は何と言うだろう。
いくら傷付いてもいいように、ひたすらクッキーを頬張った。
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石動玲奈は、まだ手の震えが収まらなかった。
……夫は、私を嫌いになったのだろうか。
夫は市の職員だ。
ゴミ処理場で働いていて、同期の中では出世頭。
今年の4月から、係長に昇進した。
親切で、人当たりが良くて、器用で。
よくできた夫だと、周りからは言われた。
あなたは幸せ者だと、皆から言われた。
それなのに。
先月、夫の職場の親睦旅行があった。
行き先は温泉地。
見送りの時、玲奈が「寂しい」と呟いたら、彼は「今度、一緒に行こう」と頭をなでてくれたのだ。
……全部、嘘だったのだろうか。
昨日、夫の仕事カバンに、見慣れぬ封筒が入っていた。
「旅行写真 石動係長へ」と書かれていた。
その時、夫は入浴中。
どんな旅行だったんだろうと、玲奈はドキドキしながら、中の写真を取り出した。
風呂上がりの彼から、土産話を聞くのを楽しみにしながら。
そうしたら。
名所で撮った集合写真のほかに、出るわ出るわ、若い女子職員との、仲睦まじいツーショット。
肩を抱き寄せて、名所巡りをする写真。
食事をあーんしてもらう写真。
宴会場で撮ったと思われる、ほっぺたをくっつけ合った写真。
明らかに尋常ではない様子に、鳥肌が立った。
……何これ。別の世界線の写真?
信じられない。見たくない。でも、目が離せない。
次々と出てくる不倫写真の数々に、ふと1枚、何でもない写真が混じっていた。
触れ合うわけでもなく、ただ2人で談笑している、何気ない1枚。
それが1番許せなかった。
夫の顔が、幸せに満ちていたから。
「おーい、タオル」
浴室から声が聞こえて、慌てて写真をポケットにしまい込んだ。
その夜、夫が寝静まってから、夫のスマホを見た。
黒が確定した。
涙が止まらなかった。
そして今日、玲奈は体調不良と言って仕事を休み、かといって寝込んでいると死にたい気持ちが止まらず、あてもなく街をさまよい歩いた。
そして。
疲れ切った玲奈は、今、こうして喫茶店のイスに座っている。
とても家に帰れる気がしなかった。
注文する気力すら湧かず、ただぼうっと、テーブルのどうでもいい木目を眺める。
思い浮かぶのは、自分に向けられる夫の顔だ。
当たり障りない表情。
その向こう側を勘繰ってしまうのがつらくて、玲奈は例の談笑写真を取り出す。
幸せそうな顔……こちらの気など何も知らない、能天気な顔を眺めていると、悲しみよりも怒りが湧いてくる。
こんな写真、燃やしてやりたい。
でも、燃やしたところで、自分がひどい女になるだけだ。
「……死ねばいいのに」
そう、呟く。
すると。
ぽうっと夫の顔に、赤いものが揺らめいた。
え、と戸惑っている内に、夫の顔がぐにゃりと歪んで黒く変色し、穴が空いて……燃え広がっていく。
「えっ、えっ、嘘、熱っ」
驚いて写真を放ると、床に落ちた写真はメラメラと景気よく燃えていく。
周りのお客さん達が火に気付き、店員が駆けつけ、人だかりができて騒ぐ中。
目を泳がせていた玲奈は、こちらを見てクスクス笑っている女を見つけた。
真っ赤なコートにチリチリ頭。
……以前、夫が口にしていた、ゴミ焼却場に現れる、都市伝説と似ている。
玲奈がまじまじと見つめていると、女は踵を返して店の出口へ向かった。
玲奈は慌てて後を追った。
「ちょっと待って、あなた!
……あなたが燃やしたの?」
人通りの少ない路地で追いつき、呼び止める。
女はすました顔で振り返った。
「何、あんた。
証拠もなしに、人を放火魔呼ばわり?
死ねばいいなんて物騒なこと言うから、代わりに燃やしてあげただけじゃない」
悪びれることもなく笑う女。
「お望みなら、写真だけじゃなく、本人も燃やしてあげる。
大丈夫、骨も残らないから」
「ちょっとやめてよ。
大体あなた、うちの夫が何したか知ってるの?」
「さあ。
でも、妻にこんな思い詰めた顔させるなんて、どうせろくでもない事をしたに決まってるじゃない」
「まあ、それはそうなんだけど」
「燃やしとく?」
「だからやめてってば、そんな物騒な」
話している内に、玲奈はだんだん落ち着いてきた。
あの写真。自分では燃やせなかったが、燃やしたかったのは確かだ。
燃やして当然とでも言いたげな女の態度は、どこか自分を代弁してくれたような気がした。
……燃やしてよかった。
玲奈が深呼吸をしていると。
「燃やしたければ、いつでも言って。
完全犯罪は得意だから」
そう言って、女は赤いバッグを探ると、玲奈に包みを渡した。
100均の、透明なラッピングフィルム。
中には、チョコチップクッキーがぎっしり詰まっている。
「あの、これは」
「私さぁ、焼くのが好きなんだよね。
嫌なものも、良いものも。
……とにかくあんた、何か食べたら?
ひっどい顔、笑っちゃう」
「え……」
「じゃあね」
顔を上げた時には、赤いコートの女は、どこにもいなかった。
玲奈は家の中で、もらった焼き菓子を頬張る。
ざくざく。バリバリ。
固めの歯応えが、荒んだ気持ちには心地よい。
ひたすら噛み砕きながら、今後のことを考える。
自分の気持ちを見極めるには、とにかくエネルギーが必要だった。
貪るように、クッキーを口へ運ぶ。
問い詰めたら、夫は何と言うだろう。
いくら傷付いてもいいように、ひたすらクッキーを頬張った。
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