「……ったく。揃いも揃って潰れてら」
下弦の月がそろりと顔を出した頃、俺は縁側で一人、晩酌をしていた。
俺と珠希の無事な帰還を祝い、新しくここに住むことになった古蘭を歓迎して、つい先ほどまでどんちゃん騒ぎだったというのに。
夜もすっかり更けた今、意識があるのは俺一人となっていた。
古蘭は慣れない長旅で疲れていたのか、壱丸を膝に乗せたまま、柱にもたれて眠っている。
アリエッタは珍しく宴会に付き合っていたが、いつの間にか鏡の中へ戻っていた。
宴会中、賑やかに走り回っていたモノダマたちは、今や好き勝手な場所で眠りこけている。
そして。
「……人気者だねェ、骨董姫様は」
俺は猪口を置いて、部屋の真ん中へ目を向ける。
珠希はモノダマたちの中心で、座布団を枕にすうすうと穏やかな寝息を立てていた。
俺はふと、月を見上げた。
(心なんて、なければよかった——か)
三十年前の俺が、羅煌と共に零した、悔恨の言葉。
なんだか懐かしい響きのように感じる気もするが、今も少なからず思っていることだ。
——心があるから、羅煌たちは使われないことに苦しんだ。
そしてその苦悩は、俺にとっても、決して他人事ではない。
道具としての煙管が使われなくなる時代も、遠からずやってくるだろう、と俺は予感していた。
だから、心なんて早々に捨てたほうが、俺も彼らと同じ苦しみを味わわないで済むのだろうか——なんてことも考えていた。
だというのに。
「……困ったモンだねェ」
俺は静かに立ち上がり、足音を殺しながら、眠っている珠希に近づいた。
珠希の頬にかかった髪を、そっと指で払ってやる。
ついでにもう一度撫でて、さらりとした触り心地を確かめる。
「……ん」
指先でほんの少しだけ髪を撫でたつもりが、起こしてしまったらしい。
珠希はゆっくり瞼を持ち上げて、俺のほうを見た。
「悪ィ、起こしちまったな」
珠希は静かに体を起こしつつ、寝ぼけ眼でぼんやりと俺を見ていた。
まだ酒精の余韻が抜けていないのだろうか。
「明日から仕事に復帰するんだろ? 寝室に布団敷いといたから、そっちで寝るといい」
珠希があまりにも気持ちよさそうに寝ていたから、俺は声をかけるのを躊躇っていた。
けれど、起きてしまったのならちょうどいい。
そう思ったのだが。
「ん」
「ン?」
「んっ」
珠希が俺に両手を伸ばして、何かを訴えている。
……歩くのが億劫だから、運んでくれ、という意味だろう。
「仕方ないねェ」
俺は珠希の体を横抱きにして、周りの連中を起こさないよう、静かに寝室へ向かった。
「……やっぱり、見てると痛々しいわね。顔の傷」
寝室の布団に下ろしてやるなり、珠希は俺の左目を斬り裂いた傷に触れながら言った。
「見た目ほどじゃねェよ。ちゃんと目も見えてるし、感覚も普段と変わらねェさ。……が」
しかし珠希の反応を見るに、やはりこの傷は目立ってしまうらしい。
「取引先への言い訳はどうしようかねェ……体の傷ァ着物で隠れるからいいとして、顔が厳ついのはなァ……」
「あら、意外ね。『男が上がった』とか、『付喪神冥利だ』なんて言うのかと思ったら」
「昔ならな。でも、俺ももう人間社会に溶け込んじまった」
元々荒っぽいという自覚があったから、ボロが出ないよう言動には注意を払っていた。
だというのに、輪をかけて厳つい顔になってしまったのは由々しき事態だ。
「でも、その目は似合ってるじゃない。今日の月みたいで綺麗よ」
「……そりゃァ、ちょいと複雑だなァ」
「あら、どうして?」
「だって、俺の顔見ながら、他の男を褒めてンだろ?」
「目を褒めたのよ」
「その目が他の男のだっつってんだよ」
「今はアンタのものじゃない」
「そうだけどよォ……」
やはり釈然としない。
俺よりもあいつを褒められているような気がして。
「暁斗のやつなんてきっと、『善一さん、その目はどうしたんですか!?』とか言って目を白黒させるぜ?」
「なに、その声と顔。暁斗さんの真似?」
「おうよ、似てるだろ?」
嫉妬を誤魔化すように茶化すと、珠希はころころと鈴が鳴るような声で笑った。
「……あァ。駄目だな、もう」
ぽつり、とつい声に出てしまう。
決して大きな声を出したつもりはなかったが、二人しかいない寝室ではさすがに筒抜けだったらしい。
「なにが?」
珠希はそう言って、不思議そうに首を傾げた。
「んにゃ、今日も嫁が可愛いと思っただけ」
「なにそれ、唐突に」
「唐突じゃねェよ。常に思ってる」
「はいはい」
珠希はなんでもないように肩を竦めているが、今の笑い声と笑顔は、俺の中で五本の指に入るくらいの破壊力だった。
もちろん、笑顔だけではない。
骨董姫としての、凛とした振る舞いも。
俺に生きて戻れと命じる、強い瞳の光も。
傷ついた俺を見て流してくれた、涙の温かさも。
——どれも、俺の心をこれでもかと揺さぶってくる。
心がなければ理解できない幸福を、珠希はいくつも教えてくれた。
「……なァ、珠希」
「なに?」
喉の奥から這い上がってきた言葉を、果たして言うべきか、言わざるべきか。
たっぷり三秒ほど考えてから——
「いにゃ、なんでもねェ」
やっぱり、引っ込めることにした。
焦らされた上に隠された珠希は、面白くないとばかりに口を尖らせた。
「なによそれ。そんなに溜めておいて、やっぱやめたって。気になるじゃない」
「今は言う必要がねェと思っただけさ。だから、いつかは言う」
「……そう。じゃあ、それまで待ってる」
「あァ、そうしてくれ」
まだ二十二歳の珠希に伝えるには、あまりにも重すぎる。
——お前がいつか、天寿をまっとうしたその時は、どうか俺も同じ棺桶に入らせてほしい。
——最後の主人として、俺を浄土まで一緒に連れて行ってほしい。
……なんてクソ重い台詞を今から言う必要は、ない。
「おやすみ、珠希。また明日、な」
「……うん」
布団に寝かしつけ、最後に頭を撫でて、俺は静かに寝室を後にした。
他の潰れたやつらは布団に入れてやるべきかどうか迷ったが、面倒なのでやつらの自己責任ということにしておこう。
それよりも今は、月をお供に一服吸いたかった。
(……これが、人でいうところの『愛しい』ってやつなのかね)
離れてもまだ、手のひらに温かい感触が残っている。
ほんのりと移った残り香まで、俺の胸を柔く締めつけてくる。
心があると、何かにつけて苦しくなるものだ。
本当に、心なんてなければよかった——胸が痛いほどの幸福を知ったら、もう簡単には捨てられなくなってしまった。
「……カカ、いい月だねェ」
俺は窓の外の月を見上げながら、煙管を咥えた。
『恋しい』も、『愛しい』も——珠希から教わったすべてを、煙に溶かして吸い込んだ。
いわくつきの骨董姫・第二部 了
下弦の月がそろりと顔を出した頃、俺は縁側で一人、晩酌をしていた。
俺と珠希の無事な帰還を祝い、新しくここに住むことになった古蘭を歓迎して、つい先ほどまでどんちゃん騒ぎだったというのに。
夜もすっかり更けた今、意識があるのは俺一人となっていた。
古蘭は慣れない長旅で疲れていたのか、壱丸を膝に乗せたまま、柱にもたれて眠っている。
アリエッタは珍しく宴会に付き合っていたが、いつの間にか鏡の中へ戻っていた。
宴会中、賑やかに走り回っていたモノダマたちは、今や好き勝手な場所で眠りこけている。
そして。
「……人気者だねェ、骨董姫様は」
俺は猪口を置いて、部屋の真ん中へ目を向ける。
珠希はモノダマたちの中心で、座布団を枕にすうすうと穏やかな寝息を立てていた。
俺はふと、月を見上げた。
(心なんて、なければよかった——か)
三十年前の俺が、羅煌と共に零した、悔恨の言葉。
なんだか懐かしい響きのように感じる気もするが、今も少なからず思っていることだ。
——心があるから、羅煌たちは使われないことに苦しんだ。
そしてその苦悩は、俺にとっても、決して他人事ではない。
道具としての煙管が使われなくなる時代も、遠からずやってくるだろう、と俺は予感していた。
だから、心なんて早々に捨てたほうが、俺も彼らと同じ苦しみを味わわないで済むのだろうか——なんてことも考えていた。
だというのに。
「……困ったモンだねェ」
俺は静かに立ち上がり、足音を殺しながら、眠っている珠希に近づいた。
珠希の頬にかかった髪を、そっと指で払ってやる。
ついでにもう一度撫でて、さらりとした触り心地を確かめる。
「……ん」
指先でほんの少しだけ髪を撫でたつもりが、起こしてしまったらしい。
珠希はゆっくり瞼を持ち上げて、俺のほうを見た。
「悪ィ、起こしちまったな」
珠希は静かに体を起こしつつ、寝ぼけ眼でぼんやりと俺を見ていた。
まだ酒精の余韻が抜けていないのだろうか。
「明日から仕事に復帰するんだろ? 寝室に布団敷いといたから、そっちで寝るといい」
珠希があまりにも気持ちよさそうに寝ていたから、俺は声をかけるのを躊躇っていた。
けれど、起きてしまったのならちょうどいい。
そう思ったのだが。
「ん」
「ン?」
「んっ」
珠希が俺に両手を伸ばして、何かを訴えている。
……歩くのが億劫だから、運んでくれ、という意味だろう。
「仕方ないねェ」
俺は珠希の体を横抱きにして、周りの連中を起こさないよう、静かに寝室へ向かった。
「……やっぱり、見てると痛々しいわね。顔の傷」
寝室の布団に下ろしてやるなり、珠希は俺の左目を斬り裂いた傷に触れながら言った。
「見た目ほどじゃねェよ。ちゃんと目も見えてるし、感覚も普段と変わらねェさ。……が」
しかし珠希の反応を見るに、やはりこの傷は目立ってしまうらしい。
「取引先への言い訳はどうしようかねェ……体の傷ァ着物で隠れるからいいとして、顔が厳ついのはなァ……」
「あら、意外ね。『男が上がった』とか、『付喪神冥利だ』なんて言うのかと思ったら」
「昔ならな。でも、俺ももう人間社会に溶け込んじまった」
元々荒っぽいという自覚があったから、ボロが出ないよう言動には注意を払っていた。
だというのに、輪をかけて厳つい顔になってしまったのは由々しき事態だ。
「でも、その目は似合ってるじゃない。今日の月みたいで綺麗よ」
「……そりゃァ、ちょいと複雑だなァ」
「あら、どうして?」
「だって、俺の顔見ながら、他の男を褒めてンだろ?」
「目を褒めたのよ」
「その目が他の男のだっつってんだよ」
「今はアンタのものじゃない」
「そうだけどよォ……」
やはり釈然としない。
俺よりもあいつを褒められているような気がして。
「暁斗のやつなんてきっと、『善一さん、その目はどうしたんですか!?』とか言って目を白黒させるぜ?」
「なに、その声と顔。暁斗さんの真似?」
「おうよ、似てるだろ?」
嫉妬を誤魔化すように茶化すと、珠希はころころと鈴が鳴るような声で笑った。
「……あァ。駄目だな、もう」
ぽつり、とつい声に出てしまう。
決して大きな声を出したつもりはなかったが、二人しかいない寝室ではさすがに筒抜けだったらしい。
「なにが?」
珠希はそう言って、不思議そうに首を傾げた。
「んにゃ、今日も嫁が可愛いと思っただけ」
「なにそれ、唐突に」
「唐突じゃねェよ。常に思ってる」
「はいはい」
珠希はなんでもないように肩を竦めているが、今の笑い声と笑顔は、俺の中で五本の指に入るくらいの破壊力だった。
もちろん、笑顔だけではない。
骨董姫としての、凛とした振る舞いも。
俺に生きて戻れと命じる、強い瞳の光も。
傷ついた俺を見て流してくれた、涙の温かさも。
——どれも、俺の心をこれでもかと揺さぶってくる。
心がなければ理解できない幸福を、珠希はいくつも教えてくれた。
「……なァ、珠希」
「なに?」
喉の奥から這い上がってきた言葉を、果たして言うべきか、言わざるべきか。
たっぷり三秒ほど考えてから——
「いにゃ、なんでもねェ」
やっぱり、引っ込めることにした。
焦らされた上に隠された珠希は、面白くないとばかりに口を尖らせた。
「なによそれ。そんなに溜めておいて、やっぱやめたって。気になるじゃない」
「今は言う必要がねェと思っただけさ。だから、いつかは言う」
「……そう。じゃあ、それまで待ってる」
「あァ、そうしてくれ」
まだ二十二歳の珠希に伝えるには、あまりにも重すぎる。
——お前がいつか、天寿をまっとうしたその時は、どうか俺も同じ棺桶に入らせてほしい。
——最後の主人として、俺を浄土まで一緒に連れて行ってほしい。
……なんてクソ重い台詞を今から言う必要は、ない。
「おやすみ、珠希。また明日、な」
「……うん」
布団に寝かしつけ、最後に頭を撫でて、俺は静かに寝室を後にした。
他の潰れたやつらは布団に入れてやるべきかどうか迷ったが、面倒なのでやつらの自己責任ということにしておこう。
それよりも今は、月をお供に一服吸いたかった。
(……これが、人でいうところの『愛しい』ってやつなのかね)
離れてもまだ、手のひらに温かい感触が残っている。
ほんのりと移った残り香まで、俺の胸を柔く締めつけてくる。
心があると、何かにつけて苦しくなるものだ。
本当に、心なんてなければよかった——胸が痛いほどの幸福を知ったら、もう簡単には捨てられなくなってしまった。
「……カカ、いい月だねェ」
俺は窓の外の月を見上げながら、煙管を咥えた。
『恋しい』も、『愛しい』も——珠希から教わったすべてを、煙に溶かして吸い込んだ。
いわくつきの骨董姫・第二部 了

