「…………ン」
久しく感じていなかった体の感覚が、少しずつ戻ってくる。
最初に感じたのは、この体そのものの重さ。
次に、骨や関節の軋み。
やっと指一本を動かしたところで、痺れるような手のひらの感覚。
それらを少しずつ手繰り寄せるようにして、俺はゆっくりと瞼を開いた。
「……お師様?」
「師匠!」
霞んでいた視界が、徐々に像を結んでいく。
年季の入った天井と、こちらを覗き込んでいる弟子たちの顔。
「……なんでィ、お前らか」
ここはやはり、愛しのご主人様に迎えてほしかったところだ。
期待が外れて、つい憎まれ口を叩いてしまうが、二人は咎めなかった。
古蘭が口元を押さえて、目を潤ませている。
「よかった……! お師様、ずっと目を覚まされないから……」
「あン? 俺ァ、どれくらい寝て……?」
「帰ってきた日から、もう一週間経っています」
不満そうな、それでもどこか安心したような表情で、紫玄が答えた。
霊力をほとんど使い果たした俺は、夜が明けてすぐに職人のもとへ送られ、即修理となったらしい。
ユエ子が無理を言って、大急ぎで直してもらったのだそうだ。
「そいつァ心配かけたなァ。この通り――」
もう大丈夫だぞ、と言いかけたところで、俺はふと瞬きをした。
「…………ン?」
ゆっくりと片目を閉じる。
見える。
今度は反対の目を閉じる。
――やはり、見える。
俺は左目のあたりへ、恐る恐る手を伸ばした。
「……おい。俺ァ確か、ここを斬られたよな? 目ェやられてたよな? なんで見えてンだィ?」
目の周辺には間違いなく、深々と傷つけられた痕跡がある。
なのに、視界は狭まるどころか、前よりも明瞭になっている気がする。
「おい、お前ら。なんか言ってくれィ。黙られるのが一番怖ェんだよ」
気まずそうに目を逸らす紫玄と古蘭。
しかし、古蘭は黙っているのも悪いと思ったのか、おずおずと手鏡を差し出した。
「お師様、その……一度、ご自分でご覧になったほうが……」
「あァ?」
怪訝に思いつつ、俺は手鏡を覗き込んだ。
灰色の髪に、浅黒い肌。額から頬へかけては、羅煌につけられた傷がまだ生々しく残っている。
まあまあ見慣れた、自分の顔だ――と思ったが。
「…………待て」
俺は鏡を凝視し、瞬きをする。
鏡の中の男も、同時に瞬きをする。
左目に違和感を覚えて、下瞼をピッと下げてみる。
よくよく見えるようになった瞳を見て、俺は
「なァんじゃこりゃァあああああああああああ!?」
と、思わず絶叫した。
「お師様、落ち着いてください!」
「落ち着けるかァ! なんかいる! 俺の目ン中になんかいる!!」
俺の瞳は、元々灰色だ。
時々朱色になることがあるのも知っているが、今、鏡に映っているのは、そのどちらでもなかった。
「なんで俺の目ン玉が羅煌みたくなってンだよォ!?」
俺の脳裏に、つい先ほどまで見ていた夢の光景がよぎる。
『じゃあな、羅煌。またどこかで会おうや』
……確かに、俺はそう言って別れたが。
「いくらなんでも再会が早すぎンだろォ!? 一体全体どうなってやがるんだィ!」
余韻に浸る間もなく、羅煌は再び現れた。
それでは情緒もへったくれもあったものではない。
頭を抱えている俺に、紫玄が説明する。
「師匠の本体を修復する際、火皿の損傷があまりに深かったものですから……。神蔵家で保管していた羅煌様の刀身の一部を、継ぎ目に用いたそうです。その影響が、霊体にも現れたものかと……」
「うっわァ……」
改めて鏡を見る。
意識してしまうと、途端に落ち着かない。
「気づいちまうと違和感がすげェ……」
どこからどう見ても、眼窩に収まっているのは羅煌の目だ。
なのに、異物であるはずのそれは間違いなく、俺自身の目として視えている。
「あいつ、意外と綺麗な目ェしてたんだなァ」
羅煌の目には、月のような模様が浮かんでいた。
闇夜に浮かぶ、ひやりと冷たそうな、白い月。
まともに見たことがなかったので、俺も今まで気づかなかった。
「うわ~似合わねェな――」
「しゃちょーの声です!」
「……ン?」
あまりの違和感に困惑していると、廊下の向こうから、聞き慣れた声がした。
ばたばたばた、と小さな足音がこちらへ近づいてくる。
「しゃ~~ちょぉ~~~~~!!」
バリッ!!
と、ぶん投げられた砲丸のような勢いで障子紙を突き破りながら、白黒模様の小さな犬が現れた。
「壱丸くん、待っ――」
古蘭がぎょっと目を丸くしながら、腰を浮かせる。
しかしそれよりも早く、壱丸は畳を蹴った。
また顔面に突っ込んでくるつもりだ――と思ったところで、俺の体は自然と動いていた。
「あうっ?」
ほとんど無意識だった――俺は片手で輪を作り、目の前へ差し出していた。
そして、その輪の中心に吸い込まれるように、飛び込んできた壱丸の鼻先が――すぽん! とはまった。
「おっ、おお、壱丸。元気だなァ……」
「あうぅ~?」
俺は自分の手と、鼻先を捕まえられてきょとんとしている壱丸を、交互に見た。
「……なんか今、壱丸の動きがやたらゆっくり見えたような……」
「……もしや、師匠。今のは、羅煌様の目の影響ではありませんか? 羅煌様は動体視力が大変優れていましたし……」
「ま、マジかァ……あいつ、本当に目がよかったんだなァ……」
不覚にも感心してしまった。
元々あった反射神経に、羅煌の動体視力が合わさった結果――俺は今までまともに食らうしかなかった壱丸の突進を、素手で受け止められるようになったらしい。
「わうわうわうわう」
鼻先を掴まれたまま、壱丸が何かを訴えている。
それを見てときめいた古蘭の「可愛い……っ!」という声が聞こえて、俺はようやく壱丸を解放した。
「ぷはっ! しゃちょー、ひどいですよう!」
「悪かったって。だが、怪我人に突っ込んでいくのは危ねェから、さすがにやめような」
自由になるなり、俺の膝へ飛び乗る壱丸。
尻尾を千切れんばかりに振りながら、俺の胸へ前足をかけてきた。
「しゃちょー、起きたんですね! よかったぁ~!」
「おう。心配かけたなァ」
わしゃわしゃと頭を撫でてやると、壱丸は嬉しそうに目を細めた。
すると、そこへ――。
「こら、壱丸! 人様の家をどたばた走ったら駄目でしょ!!」
と、壱丸を叱る声がした。
随分と長いこと聞いていなかったような気がする、今、一番聞きたかった声だった。
「……珠希」
破れた障子が開け放たれた、その向こうに――珠希が立っていた。
ほんの数秒前まで威勢よく怒っていたのに、俺を見た途端、すべてが吹っ飛んだかのような、呆けた顔をしていた。
「……善」
呆けた顔は、俺の名を口にした途端、くしゃりと歪んだ。
そして次の瞬間には、足早に畳を踏み、俺に歩み寄っていた。
「珠――」
俺が名前を呼び終えるよりも先に、珠希の体が胸元へ飛び込んでくる。
俺は一瞬だけ目を見開いて、それから静かに彼女の体を受け止めた。
ふわり、と彼女のにおいが鼻に入ってくる。
「よかった……」
胸元から、か細い声が聞こえた。
服越しに伝わる彼女の温もりも、腕の中にすっぽりと収まる感覚も、久しぶりだ。
「死んじゃうかと思った……」
「悪ィ。心配かけた」
返事をすれば、ぽこ、と軽く胸板を叩かれる。
拳を握りしめて叩かれているのに、ぽこ、ぽこ、と間抜けな音がした。
怒っていることを伝えているつもりなのだろう。
けれど、力がまったく入っていない。
「次、あんな戦いしたら、ごみ箱に捨ててやる……」
「……そりゃ困るなァ」
珠希の拳が、もう一度だけ胸を叩く。
けれど、それで終わりだった。
もう怒る力も残っていないのか、珠希は俺の着物を掴んだきり、何も言わなかった。
ただ、胸元へうりうりと額を押しつけている。
だから俺も、言葉で詫びる代わりに、珠希の背中をさすった。
紫玄も、古蘭も、壱丸も、誰一人声を上げない。
ただ、一回だけ、古蘭が鼻を啜っているのが聞こえた。
「……おかえり、善」
やがて、珠希が俺の胸元で、小さく息を吐いた。
肩が、少しだけ震えていた。
「ただいま。……珠希」
久しく感じていなかった体の感覚が、少しずつ戻ってくる。
最初に感じたのは、この体そのものの重さ。
次に、骨や関節の軋み。
やっと指一本を動かしたところで、痺れるような手のひらの感覚。
それらを少しずつ手繰り寄せるようにして、俺はゆっくりと瞼を開いた。
「……お師様?」
「師匠!」
霞んでいた視界が、徐々に像を結んでいく。
年季の入った天井と、こちらを覗き込んでいる弟子たちの顔。
「……なんでィ、お前らか」
ここはやはり、愛しのご主人様に迎えてほしかったところだ。
期待が外れて、つい憎まれ口を叩いてしまうが、二人は咎めなかった。
古蘭が口元を押さえて、目を潤ませている。
「よかった……! お師様、ずっと目を覚まされないから……」
「あン? 俺ァ、どれくらい寝て……?」
「帰ってきた日から、もう一週間経っています」
不満そうな、それでもどこか安心したような表情で、紫玄が答えた。
霊力をほとんど使い果たした俺は、夜が明けてすぐに職人のもとへ送られ、即修理となったらしい。
ユエ子が無理を言って、大急ぎで直してもらったのだそうだ。
「そいつァ心配かけたなァ。この通り――」
もう大丈夫だぞ、と言いかけたところで、俺はふと瞬きをした。
「…………ン?」
ゆっくりと片目を閉じる。
見える。
今度は反対の目を閉じる。
――やはり、見える。
俺は左目のあたりへ、恐る恐る手を伸ばした。
「……おい。俺ァ確か、ここを斬られたよな? 目ェやられてたよな? なんで見えてンだィ?」
目の周辺には間違いなく、深々と傷つけられた痕跡がある。
なのに、視界は狭まるどころか、前よりも明瞭になっている気がする。
「おい、お前ら。なんか言ってくれィ。黙られるのが一番怖ェんだよ」
気まずそうに目を逸らす紫玄と古蘭。
しかし、古蘭は黙っているのも悪いと思ったのか、おずおずと手鏡を差し出した。
「お師様、その……一度、ご自分でご覧になったほうが……」
「あァ?」
怪訝に思いつつ、俺は手鏡を覗き込んだ。
灰色の髪に、浅黒い肌。額から頬へかけては、羅煌につけられた傷がまだ生々しく残っている。
まあまあ見慣れた、自分の顔だ――と思ったが。
「…………待て」
俺は鏡を凝視し、瞬きをする。
鏡の中の男も、同時に瞬きをする。
左目に違和感を覚えて、下瞼をピッと下げてみる。
よくよく見えるようになった瞳を見て、俺は
「なァんじゃこりゃァあああああああああああ!?」
と、思わず絶叫した。
「お師様、落ち着いてください!」
「落ち着けるかァ! なんかいる! 俺の目ン中になんかいる!!」
俺の瞳は、元々灰色だ。
時々朱色になることがあるのも知っているが、今、鏡に映っているのは、そのどちらでもなかった。
「なんで俺の目ン玉が羅煌みたくなってンだよォ!?」
俺の脳裏に、つい先ほどまで見ていた夢の光景がよぎる。
『じゃあな、羅煌。またどこかで会おうや』
……確かに、俺はそう言って別れたが。
「いくらなんでも再会が早すぎンだろォ!? 一体全体どうなってやがるんだィ!」
余韻に浸る間もなく、羅煌は再び現れた。
それでは情緒もへったくれもあったものではない。
頭を抱えている俺に、紫玄が説明する。
「師匠の本体を修復する際、火皿の損傷があまりに深かったものですから……。神蔵家で保管していた羅煌様の刀身の一部を、継ぎ目に用いたそうです。その影響が、霊体にも現れたものかと……」
「うっわァ……」
改めて鏡を見る。
意識してしまうと、途端に落ち着かない。
「気づいちまうと違和感がすげェ……」
どこからどう見ても、眼窩に収まっているのは羅煌の目だ。
なのに、異物であるはずのそれは間違いなく、俺自身の目として視えている。
「あいつ、意外と綺麗な目ェしてたんだなァ」
羅煌の目には、月のような模様が浮かんでいた。
闇夜に浮かぶ、ひやりと冷たそうな、白い月。
まともに見たことがなかったので、俺も今まで気づかなかった。
「うわ~似合わねェな――」
「しゃちょーの声です!」
「……ン?」
あまりの違和感に困惑していると、廊下の向こうから、聞き慣れた声がした。
ばたばたばた、と小さな足音がこちらへ近づいてくる。
「しゃ~~ちょぉ~~~~~!!」
バリッ!!
と、ぶん投げられた砲丸のような勢いで障子紙を突き破りながら、白黒模様の小さな犬が現れた。
「壱丸くん、待っ――」
古蘭がぎょっと目を丸くしながら、腰を浮かせる。
しかしそれよりも早く、壱丸は畳を蹴った。
また顔面に突っ込んでくるつもりだ――と思ったところで、俺の体は自然と動いていた。
「あうっ?」
ほとんど無意識だった――俺は片手で輪を作り、目の前へ差し出していた。
そして、その輪の中心に吸い込まれるように、飛び込んできた壱丸の鼻先が――すぽん! とはまった。
「おっ、おお、壱丸。元気だなァ……」
「あうぅ~?」
俺は自分の手と、鼻先を捕まえられてきょとんとしている壱丸を、交互に見た。
「……なんか今、壱丸の動きがやたらゆっくり見えたような……」
「……もしや、師匠。今のは、羅煌様の目の影響ではありませんか? 羅煌様は動体視力が大変優れていましたし……」
「ま、マジかァ……あいつ、本当に目がよかったんだなァ……」
不覚にも感心してしまった。
元々あった反射神経に、羅煌の動体視力が合わさった結果――俺は今までまともに食らうしかなかった壱丸の突進を、素手で受け止められるようになったらしい。
「わうわうわうわう」
鼻先を掴まれたまま、壱丸が何かを訴えている。
それを見てときめいた古蘭の「可愛い……っ!」という声が聞こえて、俺はようやく壱丸を解放した。
「ぷはっ! しゃちょー、ひどいですよう!」
「悪かったって。だが、怪我人に突っ込んでいくのは危ねェから、さすがにやめような」
自由になるなり、俺の膝へ飛び乗る壱丸。
尻尾を千切れんばかりに振りながら、俺の胸へ前足をかけてきた。
「しゃちょー、起きたんですね! よかったぁ~!」
「おう。心配かけたなァ」
わしゃわしゃと頭を撫でてやると、壱丸は嬉しそうに目を細めた。
すると、そこへ――。
「こら、壱丸! 人様の家をどたばた走ったら駄目でしょ!!」
と、壱丸を叱る声がした。
随分と長いこと聞いていなかったような気がする、今、一番聞きたかった声だった。
「……珠希」
破れた障子が開け放たれた、その向こうに――珠希が立っていた。
ほんの数秒前まで威勢よく怒っていたのに、俺を見た途端、すべてが吹っ飛んだかのような、呆けた顔をしていた。
「……善」
呆けた顔は、俺の名を口にした途端、くしゃりと歪んだ。
そして次の瞬間には、足早に畳を踏み、俺に歩み寄っていた。
「珠――」
俺が名前を呼び終えるよりも先に、珠希の体が胸元へ飛び込んでくる。
俺は一瞬だけ目を見開いて、それから静かに彼女の体を受け止めた。
ふわり、と彼女のにおいが鼻に入ってくる。
「よかった……」
胸元から、か細い声が聞こえた。
服越しに伝わる彼女の温もりも、腕の中にすっぽりと収まる感覚も、久しぶりだ。
「死んじゃうかと思った……」
「悪ィ。心配かけた」
返事をすれば、ぽこ、と軽く胸板を叩かれる。
拳を握りしめて叩かれているのに、ぽこ、ぽこ、と間抜けな音がした。
怒っていることを伝えているつもりなのだろう。
けれど、力がまったく入っていない。
「次、あんな戦いしたら、ごみ箱に捨ててやる……」
「……そりゃ困るなァ」
珠希の拳が、もう一度だけ胸を叩く。
けれど、それで終わりだった。
もう怒る力も残っていないのか、珠希は俺の着物を掴んだきり、何も言わなかった。
ただ、胸元へうりうりと額を押しつけている。
だから俺も、言葉で詫びる代わりに、珠希の背中をさすった。
紫玄も、古蘭も、壱丸も、誰一人声を上げない。
ただ、一回だけ、古蘭が鼻を啜っているのが聞こえた。
「……おかえり、善」
やがて、珠希が俺の胸元で、小さく息を吐いた。
肩が、少しだけ震えていた。
「ただいま。……珠希」

