戦いを終え、善が本体の煙管へ戻ってから、一夜が明けた。
私は神蔵家の屋敷へ帰還した後、東の離れで一睡もできないまま、朝を迎えることとなった。
明るい朝日の中で見た煙管の状態は、もう凄惨としか言いようのない有様だった。
表面の至るところに刀傷がついて、雁首も吸い口も余すことなく傷だらけ。
特に火皿の近くには、刃で深く抉られたような傷が一本、くっきりと刻まれていた。
もともと余計な装飾がなかったのもあって、変化もより目立ったのだろう。
「……随分と無茶をしたものじゃ」
私の向かいに座ったユエ子様も、煙管を手に顔をしかめている。
彼女の幼い指が、傷ついた鉄の表面をなぞった。
「霊力がほとんど残っておらん。もう少し戦いが長引いておれば、こやつも危うかったであろうな」
心臓を冷たい手で掴まれたような気がした。
最後には霊体すら維持できなくなっていたのだから、そこまで消耗したことはうっすら察していたけれど。
ユエ子様から言葉にされると、改めて恐ろしく感じた。
やはり、善もギリギリだったのだ、と。
「この傷は、直せるのですか?」
ようやく出た声は、自分でも分かるほどか細かった。
私の心情を察してか、ユエ子様は即座に
「心配するでない」
と言いきった。
「腕の立つ職人に心当たりがある。傷だらけではあるが、直すことは可能であろう」
「本当ですか?」
「うむ。わらわが保証しよう」
胸の奥に詰まっていた淀みが、ほんの少しだけ溶けていく。
けれど、ユエ子様は少し険しい顔で続けた。
「ただ、これからはより大事にせい。煙管を扱える職人も、最近は減ってきておるからの。今はよくても、あと十年経てば、元通りにはできなくなるやもしれん」
「……はい。肝に銘じます」
静かに頷く。
私も薄々ながら、煙管の時代の終わりを察していたから。
むしろ今の時代、腕利きの職人が現役でいること自体が幸いだった。
煙草屋の前を通りかかれば、一面に並んでいるのは紙巻き煙草ばかり。
煙管用の刻み煙草が隅に追いやられている風景も、そう珍しくない。
「どうか、善をよろしくお願いいたします」
私は畳に両手をつき、深く頭を下げる。
そして、傷だらけになった煙管を見る。
もう二度と、あんな激しい扱いはできない――次からは、私が主人としてしっかり弁えなければ。
(だからと言って、使わずに飾っておく……というわけにもいかないのが、難しいところなんだけどね)
彼が目を覚ましたら、引き際をしっかり決めておかなければ。
と顔を伏せながら考えていると、
「……珠希。面を上げよ」
とユエ子様が私に呼びかけた。
言われたとおり顔を上げると、ユエ子様は私と入れ替わるように頭を下げた。
「此度の件、改めて礼を言わせてもらいたい」
私は目を瞬いた。
「そなたがおらねば、三十年前の真実が明るみに出ることはなかった。煙羅との誤解も解けぬまま、羅煌らの無念にも気づけず——さらに多くの者を失っていたことであろう」
ユエ子様は頭を下げたまま続ける。
「ここに至るまでの数々の非礼も、今ここで詫びさせてほしい。本当に、申し訳ないことをした」
――ああ、そうか。
そういえば私、最初はかなり強引に連れてこられたんだっけ。
ユエ子様に言われて、今更思い出した。
「そなたらを無理やりこの地へ連れてきた。煙羅を罪人となじって拘束し、主人たるそなたまで巻き込んだ。わらわの頭ひとつで済むようなことではないと、承知してはおる」
千年にわたって神蔵家を率いてきた彼女が、深々と頭を下げている。
その重みは、並大抵のものではない。
「……顔をお上げください、ユエ子様」
ゆっくりと顔を上げたユエ子様を、私はまっすぐ見つめ返した。
「私は、善が受けた仕打ちを代わりに許すことはできません。けれど……私に対しての謝罪は、確かに受け取りました」
「……感謝する」
ユエ子様はもう一度だけ、軽く頭を下げる。
「とんでもございません。此度の一件で、私も多くの気づきを得ました。善の主人として、彼と話し合う機会をいただけたこと――感謝しております」
今回の事件は、遅かれ早かれ、向き合わなければいけないことだったのだ。
善にとっても、そして神蔵家にとっても、前に進むために必要なことだった。
「……責められこそすれ、感謝されるいわれはないのじゃがな」
ユエ子様は困ったように笑みを浮かべるけれど、私には彼女を咎めることなどできなかった。
彼女には、私たちの恨みを買ってでも、守らなければならないものがあったのだ。
かつての善――煙羅を罪人として追放したことについても、苦渋の決断だったに違いない。
彼を極悪人と見なしていたのなら、ユエ子様は間違いなく、破壊処分を下していたはずだから。
紫玄たちと同様に、彼女も煙羅の人柄を信じていたのだろう。
「……しかし」
話がひと段落したところで、ユエ子様がふと私を見た。
「人間と付喪神が恋仲になること自体は、長く生きておれば稀に目にするが……そなたらのような関係は、わらわも初めて見るのう」
「と、仰いますと?」
私が首を傾げると、ユエ子様は少し考えるように、顎へ手をやった。
「なんと言うべきか……人間と付喪神という関係が、保たれたままなのじゃ。そなたらは。わらわが過去に見てきた者たちは、お互いの違いに苦しんでおった」
「違い、ですか?」
ユエ子様の言わんとしていることが、よく分からなかった。
当の彼女も、的確な言葉が見つからないのか、「ううむ」と唸っている。
「例えば……付喪神が『人間になりたい』と願ったり、人間が『自分も付喪神であれば』と嘆いたりとな。しかしそなたらは、そんなことなど微塵も考えておらぬじゃろう?」
「……ああ」
言われてみれば、確かにそうだ。
私は一度だって『善が人間だったらいいのに』と思ったことがない。
時折、人間にはない、付喪神ならではの価値観に驚くことはあったけど……煩わしい、とは感じなかった。
だって善は、その価値観があってこその、善なのだから。
「似た姿、似た感情はあっても、元は『人』と『道具』じゃからのう。見ている世界も違えば、生きる意味も違う。互いの種に誇りを持ったまま、その違いを尊重し合う関係を築くというのは、案外難しいものじゃ」
ユエ子様は私から預かった善の本体へ、視線を落とした。
「……多分、私は……善が人間だったら、好きになっていないと思います」
「む?」
ユエ子様は予想外だと言わんばかりに目を丸くした。
「お気を悪くしないでほしいのですが……私は昔から、人をあまり信じられないのです」
人は誰かを虐めるし、貶めるし、嘘もつく。
私自身も、何度も人の恨みを買うような真似をしてきた。
自分に惚れた男を利用したことなんて数知れずだ。
無論、すべての人がそうだとは思っていない。
けれど、私は目の前にいる人をまっすぐ信じられるほど、清らかな人間ではなかった。
「善は『道具』だからこそ、安心できるのです」
この国の誰よりも物の声を聞いてきた私だからこそ、断言できる。
物は、当たり前のように人に寄り添い、人のために働いてくれる。
人間のそばにいることを、何よりも誇りに思ってくれる。
「『道具』としての彼が、『人間』としての私を強く求めてくれたからこそ、惹かれてしまったのでしょうね」
最初は、利害の一致から手を取り合っていたつもりだった。
けれど、『道具』としての彼の気持ちを知って、私は本当の意味で、彼の主人になろうと決めた。
きっと彼が人間だったら、こんなに深い関係にはなれなかっただろう。
人間の私と、付喪神の善――この関係だからこそ、私たちはちょうどいいのだ。
「それに……元花魁に近づいてくる男なんて、十中八九ろくでなしですからね」
「……ふはっ! それは真理じゃのう!」
まあ……善にも下心はちゃんとあるけれど、状況を選んだ上で暴露してきているあたり、そこいらの男よりも誠実と言える。
なにより私も、彼に求められるのだけはまんざらでもない。
「なるほど。物の心を誰よりも知り、誰よりも尊ぶ『骨董姫』か。……煙羅たちが惹かれたのも頷けるな」
ユエ子様は気持ちよさそうに笑った後、穏やかな表情で善の本体へ目を落とした。
「そなたの恋人、しかと預かったぞ。……いや、『人』ではないか?」
「ふふふ、確かにそうですわね」
傷だらけになって、それでも私の手元へ帰ってきた、私の道具。
これから先も、大切に使っていかなければ。
それこそ、私がいつか寿命を迎えて、棺桶に入るその時まで――。
私は神蔵家の屋敷へ帰還した後、東の離れで一睡もできないまま、朝を迎えることとなった。
明るい朝日の中で見た煙管の状態は、もう凄惨としか言いようのない有様だった。
表面の至るところに刀傷がついて、雁首も吸い口も余すことなく傷だらけ。
特に火皿の近くには、刃で深く抉られたような傷が一本、くっきりと刻まれていた。
もともと余計な装飾がなかったのもあって、変化もより目立ったのだろう。
「……随分と無茶をしたものじゃ」
私の向かいに座ったユエ子様も、煙管を手に顔をしかめている。
彼女の幼い指が、傷ついた鉄の表面をなぞった。
「霊力がほとんど残っておらん。もう少し戦いが長引いておれば、こやつも危うかったであろうな」
心臓を冷たい手で掴まれたような気がした。
最後には霊体すら維持できなくなっていたのだから、そこまで消耗したことはうっすら察していたけれど。
ユエ子様から言葉にされると、改めて恐ろしく感じた。
やはり、善もギリギリだったのだ、と。
「この傷は、直せるのですか?」
ようやく出た声は、自分でも分かるほどか細かった。
私の心情を察してか、ユエ子様は即座に
「心配するでない」
と言いきった。
「腕の立つ職人に心当たりがある。傷だらけではあるが、直すことは可能であろう」
「本当ですか?」
「うむ。わらわが保証しよう」
胸の奥に詰まっていた淀みが、ほんの少しだけ溶けていく。
けれど、ユエ子様は少し険しい顔で続けた。
「ただ、これからはより大事にせい。煙管を扱える職人も、最近は減ってきておるからの。今はよくても、あと十年経てば、元通りにはできなくなるやもしれん」
「……はい。肝に銘じます」
静かに頷く。
私も薄々ながら、煙管の時代の終わりを察していたから。
むしろ今の時代、腕利きの職人が現役でいること自体が幸いだった。
煙草屋の前を通りかかれば、一面に並んでいるのは紙巻き煙草ばかり。
煙管用の刻み煙草が隅に追いやられている風景も、そう珍しくない。
「どうか、善をよろしくお願いいたします」
私は畳に両手をつき、深く頭を下げる。
そして、傷だらけになった煙管を見る。
もう二度と、あんな激しい扱いはできない――次からは、私が主人としてしっかり弁えなければ。
(だからと言って、使わずに飾っておく……というわけにもいかないのが、難しいところなんだけどね)
彼が目を覚ましたら、引き際をしっかり決めておかなければ。
と顔を伏せながら考えていると、
「……珠希。面を上げよ」
とユエ子様が私に呼びかけた。
言われたとおり顔を上げると、ユエ子様は私と入れ替わるように頭を下げた。
「此度の件、改めて礼を言わせてもらいたい」
私は目を瞬いた。
「そなたがおらねば、三十年前の真実が明るみに出ることはなかった。煙羅との誤解も解けぬまま、羅煌らの無念にも気づけず——さらに多くの者を失っていたことであろう」
ユエ子様は頭を下げたまま続ける。
「ここに至るまでの数々の非礼も、今ここで詫びさせてほしい。本当に、申し訳ないことをした」
――ああ、そうか。
そういえば私、最初はかなり強引に連れてこられたんだっけ。
ユエ子様に言われて、今更思い出した。
「そなたらを無理やりこの地へ連れてきた。煙羅を罪人となじって拘束し、主人たるそなたまで巻き込んだ。わらわの頭ひとつで済むようなことではないと、承知してはおる」
千年にわたって神蔵家を率いてきた彼女が、深々と頭を下げている。
その重みは、並大抵のものではない。
「……顔をお上げください、ユエ子様」
ゆっくりと顔を上げたユエ子様を、私はまっすぐ見つめ返した。
「私は、善が受けた仕打ちを代わりに許すことはできません。けれど……私に対しての謝罪は、確かに受け取りました」
「……感謝する」
ユエ子様はもう一度だけ、軽く頭を下げる。
「とんでもございません。此度の一件で、私も多くの気づきを得ました。善の主人として、彼と話し合う機会をいただけたこと――感謝しております」
今回の事件は、遅かれ早かれ、向き合わなければいけないことだったのだ。
善にとっても、そして神蔵家にとっても、前に進むために必要なことだった。
「……責められこそすれ、感謝されるいわれはないのじゃがな」
ユエ子様は困ったように笑みを浮かべるけれど、私には彼女を咎めることなどできなかった。
彼女には、私たちの恨みを買ってでも、守らなければならないものがあったのだ。
かつての善――煙羅を罪人として追放したことについても、苦渋の決断だったに違いない。
彼を極悪人と見なしていたのなら、ユエ子様は間違いなく、破壊処分を下していたはずだから。
紫玄たちと同様に、彼女も煙羅の人柄を信じていたのだろう。
「……しかし」
話がひと段落したところで、ユエ子様がふと私を見た。
「人間と付喪神が恋仲になること自体は、長く生きておれば稀に目にするが……そなたらのような関係は、わらわも初めて見るのう」
「と、仰いますと?」
私が首を傾げると、ユエ子様は少し考えるように、顎へ手をやった。
「なんと言うべきか……人間と付喪神という関係が、保たれたままなのじゃ。そなたらは。わらわが過去に見てきた者たちは、お互いの違いに苦しんでおった」
「違い、ですか?」
ユエ子様の言わんとしていることが、よく分からなかった。
当の彼女も、的確な言葉が見つからないのか、「ううむ」と唸っている。
「例えば……付喪神が『人間になりたい』と願ったり、人間が『自分も付喪神であれば』と嘆いたりとな。しかしそなたらは、そんなことなど微塵も考えておらぬじゃろう?」
「……ああ」
言われてみれば、確かにそうだ。
私は一度だって『善が人間だったらいいのに』と思ったことがない。
時折、人間にはない、付喪神ならではの価値観に驚くことはあったけど……煩わしい、とは感じなかった。
だって善は、その価値観があってこその、善なのだから。
「似た姿、似た感情はあっても、元は『人』と『道具』じゃからのう。見ている世界も違えば、生きる意味も違う。互いの種に誇りを持ったまま、その違いを尊重し合う関係を築くというのは、案外難しいものじゃ」
ユエ子様は私から預かった善の本体へ、視線を落とした。
「……多分、私は……善が人間だったら、好きになっていないと思います」
「む?」
ユエ子様は予想外だと言わんばかりに目を丸くした。
「お気を悪くしないでほしいのですが……私は昔から、人をあまり信じられないのです」
人は誰かを虐めるし、貶めるし、嘘もつく。
私自身も、何度も人の恨みを買うような真似をしてきた。
自分に惚れた男を利用したことなんて数知れずだ。
無論、すべての人がそうだとは思っていない。
けれど、私は目の前にいる人をまっすぐ信じられるほど、清らかな人間ではなかった。
「善は『道具』だからこそ、安心できるのです」
この国の誰よりも物の声を聞いてきた私だからこそ、断言できる。
物は、当たり前のように人に寄り添い、人のために働いてくれる。
人間のそばにいることを、何よりも誇りに思ってくれる。
「『道具』としての彼が、『人間』としての私を強く求めてくれたからこそ、惹かれてしまったのでしょうね」
最初は、利害の一致から手を取り合っていたつもりだった。
けれど、『道具』としての彼の気持ちを知って、私は本当の意味で、彼の主人になろうと決めた。
きっと彼が人間だったら、こんなに深い関係にはなれなかっただろう。
人間の私と、付喪神の善――この関係だからこそ、私たちはちょうどいいのだ。
「それに……元花魁に近づいてくる男なんて、十中八九ろくでなしですからね」
「……ふはっ! それは真理じゃのう!」
まあ……善にも下心はちゃんとあるけれど、状況を選んだ上で暴露してきているあたり、そこいらの男よりも誠実と言える。
なにより私も、彼に求められるのだけはまんざらでもない。
「なるほど。物の心を誰よりも知り、誰よりも尊ぶ『骨董姫』か。……煙羅たちが惹かれたのも頷けるな」
ユエ子様は気持ちよさそうに笑った後、穏やかな表情で善の本体へ目を落とした。
「そなたの恋人、しかと預かったぞ。……いや、『人』ではないか?」
「ふふふ、確かにそうですわね」
傷だらけになって、それでも私の手元へ帰ってきた、私の道具。
これから先も、大切に使っていかなければ。
それこそ、私がいつか寿命を迎えて、棺桶に入るその時まで――。

