鎧武者の刀が、善の肩口を掠める。
着物が裂け、血が飛ぶ。
けれど、善はまったく怯まない。
避ければ次の一撃が遅れるとでもいうように、その傷を受け入れたまま懐へ踏み込んだ。
「お返しだァ!!」
鉄の煙管が、鎧武者の肩を横殴りにする。
轟音と共に甲冑の肩当てが砕け、破片が宙を舞った。
鎧武者の巨体が大きく傾くが、すんでのところで持ちこたえる。
すると、鎧武者は崩れた姿勢のまま刀を返し、今度は善の脇腹を薙いだ。
また血が飛ぶけれど、それでも彼は、刀を持った鎧武者の腕を掴み――兜に強烈な頭突きを食らわせた。
《…………!!》
兜が砕け、足をもつれさせる鎧武者。
巨体がぐらりと傾いたかと思った、次の瞬間。
刃が、頭突きを食らわせた後の善の顔を、鋭く走り抜けた。
「ッぐ——!」
切り裂かれた顔面の左半分から、鮮血が迸る。
善が初めて、大きくよろめいた。
爛々と輝いていた朱色の双眸の片方が、一瞬で赤色に呑まれる。
あれほど楽しそうに笑っていた善の顔からも、笑みが消えた。
「――善っ!!」
心臓がグッと締め上げられるのに合わせて、気づけば私は絶叫していた。
その声と、ほとんど同時に――一陣の風が辺りを吹き抜けた。
月を覆っていた雲はたちどころに流され、夜空に穴を空けたような白い月が、全貌を現した。
まばゆい月光が、破綻した甲冑姿を照らし出し、鎧武者は刀を振り上げた格好のまま、ピタリと止まった。
時間にしてみれば、一秒にも満たない、ほんの刹那の間。
けれど、善はそれを見逃さなかった。
――直刀のような、迷いのない善の貫手が、鎧武者へ突き出される。
――鎧武者が振り下ろした刀身が貫手を受け、甲高い音とともに砕け散る。
――そのまま、吸い込まれるように……善の腕は、鎧武者の胸を一直線に貫いた。
この場の音のすべてが、ぱったりと消えた。
風のざわめきも、呼吸の音も、鼓動も。
世界から切り取ってしまったかのように、消えた。
《……見事、なり》
静寂を静かに破る、羅煌の声。
それを皮切りに、血まみれの善が、甲冑の崩れた羅煌にもたれかかるように、ずるずると脱力していった。
地面に崩れ落ちていく善を、壊れてボロボロになった羅煌の腕が、受け止める。
けれど、それ以上はもたなかった。
月光に照らされた甲冑の輪郭が、霧散していく。
善を支えていた巨躯が、塵となって、夜風に溶けていく。
「善!!」
私は駆け出した。
支えを失って倒れかけた体へ飛び込み、すんでのところで抱き留めた。
本当は下敷きになって押し潰されるつもりだったけれど、善の体には、重みがほとんどなくなっていた。
「善、善っ……!」
「……珠希」
返ってきたのは、ようやく絞り出したような細い声だった。
私の腕の中で、善の身体が微かに透けている。
「悪ィ……霊体が維持できなくなってきた……少し、寝る――」
善は残る力を振り絞るように告げると、とうとう力尽きたのか――ふわりと形のない煙となって、煙管に吸い込まれていった。
握りしめた私の手には、すっかり傷だらけになった鉄の煙管だけが残されていた。
*
気がつくと、俺は荒野に立っていた。
薄暗い蔵の中とは違う、晴れた空と、乾ききった地面。
湿り気のないカラカラの風が、ひゅうと音を立てて吹き抜けていく。
その真ん中に、一本の刀が突き立っていた。
――見間違えるはずもない、何度となく目にした姿。
三十年前の俺がへし折った、ただ一つの刀だ。
「……ったく。最後の最後まで、無口な野郎だねェ」
俺はぼやきながら、刀の前まで歩いていった。
口もきけないくせに、一体何のために現れたのか。
さっさと仲間を引き連れて、浄土でゆっくりすればいいのに。
「……なァ、羅煌」
俺は刀に背を預けるようにしてあぐらをかいた。
「なんであの時、隙を見せた」
最後の、俺の目を斬ったあの瞬間。
羅煌なら間違いなく、怯んだ俺にとどめを刺せた。
なのに、この男はそれをしなかったのだ。
一瞬でも動きを止めれば、俺がそこに突っ込んでくることくらい、考えなくてもわかっていたはずなのに。
「……ムカつくなァ。無駄に察しがよくて」
答えは聞かなくても分かっていた。
言葉数の少ないこの男だからこそ、分かった。
こいつは察してしまったのだ。
雲が消え、月の力を取り戻した瞬間、珠希が泣き叫んだのを聞いて。
――俺を壊したら、珠希が深く傷ついてしまう。
それを察したから、こいつは止まった。
仲間と共に壊されることを選んだ。
「こんちきしょうめ。勝ちを譲られるなんざ、喧嘩屋の面目丸潰れじゃねェか」
俺は膝に頬杖をついた。
あのまま続けていたら、果たしてどちらが勝っていたのだろうか。
あるいは、二人とも壊れていたのだろうか。
それを確かめる前に、あいつは自分から幕を引いた。
「ま、正直助かったよ。おかげで、お姫さんの命令を破らずに済んだ」
俺には帰らなければいけない場所がある。
まだ面倒を見なければいけない奴らも、意外と寂しがり屋な主人もいる。
けれど、羅煌たちにはもう、それらがない。
最後にもう一度だけ、守るべき主人を得て、全力で戦えたのなら、もう十分。
——そういうことだったのだろう。
「……刀どもは、満足していたか?」
返事はない。
俺は立ち上がり、改めてその刀を――羅煌の本体を見る。
……あんな本気で喧嘩したのは、何十年ぶりだろう。
傷だらけになって、片目も斬られて、霊力もほとんど使い果たして、挙げ句に珠希にも心配をかけた。
それでも――
「俺ァ楽しませてもらったぜ。ありがとよ」
あの時の俺は、心の底から楽しんでいた。
今まで押さえ込んでいた反動だろうが、実に清々しい気分だった。
……珠希には間違いなく怒られるだろうが、そこは土下座でもなんでもして許してもらおう。
「……さて、そろそろ行くか。お前も寄り道しないで浄土に行けよ」
乾いた風が吹き抜ける。
刀の柄に結ばれていた紐が、微かに揺れる。
「じゃあな、羅煌。またどっかで会おうや」
歩き出してしばらくした頃、背後でさらさらと何かが崩れる音がした。
風が吹き抜けていく。
もう一度振り返った時——荒野には、何も残っていなかった。
着物が裂け、血が飛ぶ。
けれど、善はまったく怯まない。
避ければ次の一撃が遅れるとでもいうように、その傷を受け入れたまま懐へ踏み込んだ。
「お返しだァ!!」
鉄の煙管が、鎧武者の肩を横殴りにする。
轟音と共に甲冑の肩当てが砕け、破片が宙を舞った。
鎧武者の巨体が大きく傾くが、すんでのところで持ちこたえる。
すると、鎧武者は崩れた姿勢のまま刀を返し、今度は善の脇腹を薙いだ。
また血が飛ぶけれど、それでも彼は、刀を持った鎧武者の腕を掴み――兜に強烈な頭突きを食らわせた。
《…………!!》
兜が砕け、足をもつれさせる鎧武者。
巨体がぐらりと傾いたかと思った、次の瞬間。
刃が、頭突きを食らわせた後の善の顔を、鋭く走り抜けた。
「ッぐ——!」
切り裂かれた顔面の左半分から、鮮血が迸る。
善が初めて、大きくよろめいた。
爛々と輝いていた朱色の双眸の片方が、一瞬で赤色に呑まれる。
あれほど楽しそうに笑っていた善の顔からも、笑みが消えた。
「――善っ!!」
心臓がグッと締め上げられるのに合わせて、気づけば私は絶叫していた。
その声と、ほとんど同時に――一陣の風が辺りを吹き抜けた。
月を覆っていた雲はたちどころに流され、夜空に穴を空けたような白い月が、全貌を現した。
まばゆい月光が、破綻した甲冑姿を照らし出し、鎧武者は刀を振り上げた格好のまま、ピタリと止まった。
時間にしてみれば、一秒にも満たない、ほんの刹那の間。
けれど、善はそれを見逃さなかった。
――直刀のような、迷いのない善の貫手が、鎧武者へ突き出される。
――鎧武者が振り下ろした刀身が貫手を受け、甲高い音とともに砕け散る。
――そのまま、吸い込まれるように……善の腕は、鎧武者の胸を一直線に貫いた。
この場の音のすべてが、ぱったりと消えた。
風のざわめきも、呼吸の音も、鼓動も。
世界から切り取ってしまったかのように、消えた。
《……見事、なり》
静寂を静かに破る、羅煌の声。
それを皮切りに、血まみれの善が、甲冑の崩れた羅煌にもたれかかるように、ずるずると脱力していった。
地面に崩れ落ちていく善を、壊れてボロボロになった羅煌の腕が、受け止める。
けれど、それ以上はもたなかった。
月光に照らされた甲冑の輪郭が、霧散していく。
善を支えていた巨躯が、塵となって、夜風に溶けていく。
「善!!」
私は駆け出した。
支えを失って倒れかけた体へ飛び込み、すんでのところで抱き留めた。
本当は下敷きになって押し潰されるつもりだったけれど、善の体には、重みがほとんどなくなっていた。
「善、善っ……!」
「……珠希」
返ってきたのは、ようやく絞り出したような細い声だった。
私の腕の中で、善の身体が微かに透けている。
「悪ィ……霊体が維持できなくなってきた……少し、寝る――」
善は残る力を振り絞るように告げると、とうとう力尽きたのか――ふわりと形のない煙となって、煙管に吸い込まれていった。
握りしめた私の手には、すっかり傷だらけになった鉄の煙管だけが残されていた。
*
気がつくと、俺は荒野に立っていた。
薄暗い蔵の中とは違う、晴れた空と、乾ききった地面。
湿り気のないカラカラの風が、ひゅうと音を立てて吹き抜けていく。
その真ん中に、一本の刀が突き立っていた。
――見間違えるはずもない、何度となく目にした姿。
三十年前の俺がへし折った、ただ一つの刀だ。
「……ったく。最後の最後まで、無口な野郎だねェ」
俺はぼやきながら、刀の前まで歩いていった。
口もきけないくせに、一体何のために現れたのか。
さっさと仲間を引き連れて、浄土でゆっくりすればいいのに。
「……なァ、羅煌」
俺は刀に背を預けるようにしてあぐらをかいた。
「なんであの時、隙を見せた」
最後の、俺の目を斬ったあの瞬間。
羅煌なら間違いなく、怯んだ俺にとどめを刺せた。
なのに、この男はそれをしなかったのだ。
一瞬でも動きを止めれば、俺がそこに突っ込んでくることくらい、考えなくてもわかっていたはずなのに。
「……ムカつくなァ。無駄に察しがよくて」
答えは聞かなくても分かっていた。
言葉数の少ないこの男だからこそ、分かった。
こいつは察してしまったのだ。
雲が消え、月の力を取り戻した瞬間、珠希が泣き叫んだのを聞いて。
――俺を壊したら、珠希が深く傷ついてしまう。
それを察したから、こいつは止まった。
仲間と共に壊されることを選んだ。
「こんちきしょうめ。勝ちを譲られるなんざ、喧嘩屋の面目丸潰れじゃねェか」
俺は膝に頬杖をついた。
あのまま続けていたら、果たしてどちらが勝っていたのだろうか。
あるいは、二人とも壊れていたのだろうか。
それを確かめる前に、あいつは自分から幕を引いた。
「ま、正直助かったよ。おかげで、お姫さんの命令を破らずに済んだ」
俺には帰らなければいけない場所がある。
まだ面倒を見なければいけない奴らも、意外と寂しがり屋な主人もいる。
けれど、羅煌たちにはもう、それらがない。
最後にもう一度だけ、守るべき主人を得て、全力で戦えたのなら、もう十分。
——そういうことだったのだろう。
「……刀どもは、満足していたか?」
返事はない。
俺は立ち上がり、改めてその刀を――羅煌の本体を見る。
……あんな本気で喧嘩したのは、何十年ぶりだろう。
傷だらけになって、片目も斬られて、霊力もほとんど使い果たして、挙げ句に珠希にも心配をかけた。
それでも――
「俺ァ楽しませてもらったぜ。ありがとよ」
あの時の俺は、心の底から楽しんでいた。
今まで押さえ込んでいた反動だろうが、実に清々しい気分だった。
……珠希には間違いなく怒られるだろうが、そこは土下座でもなんでもして許してもらおう。
「……さて、そろそろ行くか。お前も寄り道しないで浄土に行けよ」
乾いた風が吹き抜ける。
刀の柄に結ばれていた紐が、微かに揺れる。
「じゃあな、羅煌。またどっかで会おうや」
歩き出してしばらくした頃、背後でさらさらと何かが崩れる音がした。
風が吹き抜けていく。
もう一度振り返った時——荒野には、何も残っていなかった。

