いわくつきの骨董姫

 翌日の夜、私は桜花郷の外れにある、人気のない野原に立っていた。
 春の夜風が、着物の裾を揺らしていく。
 辺りに人の姿はない。
 民家の明かりも、ここからではほとんど見えなかった。
 草むらの虫の声を聞きながら、私は空を見上げた。
 東の空が、ほんのりと白み始めている。
 もうすぐ、月が昇る。
 
「…………」
 
 胸の前で、右手をそっと握りしめた。
 薬指にはめられたラピスラズリが、夜の闇を吸い込んで輝いている。
 
(——大丈夫。善とはきちんと話した。私にできることも、できる限りした)
 
 忙しない鼓動を宥めるよう、自分に言い聞かせる。
 やがて、遠くの山際から月が顔を覗かせた。
 ほんのりと欠けた、それでもまだ十分に丸い月。
 けれど今夜は薄い雲がかかっていて、月の輪郭が現れたり、霞んだりと繰り返していた。 
 頼りない朧月をしばらく見ていた、その時だった。

 ——ガシャ。
 
 少し離れたところから、硬いものが擦れ合う音が聞こえた。
 私は音のする方へゆっくりと振り返る。
 
 
 ——ガシャ。ガシャ。ガシャ。

 月明かりの届かない暗がりから、大きな影が一歩ずつ、こちらへ近づいてくる。
 頭に兜を被り、古びた甲冑で全身を被った、鎧の武者。

(……よかった。来てくれた)
 
 計画どおりだ、と私は安堵した。 
 鎧武者が私を求めているのなら、こちらから探し回る必要はない——人のいない場所で待っていれば、必ず向こうから現れる。
 街中で善と戦わせるわけにはいかないため、私はこの野原を戦場に選んだ。
 腰に据えた刀から漂う気配は、先日よりも幾分か禍々しくなっている気がした。

「……羅煌」

 静かに名を呼ぶ。
 懐の手鏡へ手を伸ばすこともせず、ただ真っ直ぐ、こちらへ歩いてくる彼を見つめる。

《……主……》

 低い声が、私の頭の中に響いた。
 けれど、今宵の月のように幽(かす)かな響きだった。
 雑音の向こうから、弱々しくこちらへ語りかけてくるような——。
 
《我が……主……》 
「羅煌」
 
 もう一度、名前を呼ぶ。
 鎧武者の足が止まった。
 初めて会った夜とは違う——私はもう、目の前にいるものが何か知っている。
 その姿を作っているのが羅煌であることも。
 携えた刀に、三百を超える仲間たちの怨念が宿っているかもしれないことも。
 そして——彼が私に何を求めているのかも。

《主……》

 鎧武者が、また一歩こちらへ近づいた。
 力なく伸ばされた左手を見て、胸が少し痛んだ。
 ——きっと彼らは、ずっと探していたのだ。
 自分たちを使ってくれる誰かを。
 刀として生まれた自分たちへ、もう一度役目を与えてくれる主を。
 だから、物の声を聞く私を見つけて——『我が主』と呼んだ。
 けれど。

「ごめんなさい。私は、貴方たちの主にはなれないの」

 私が静かに告げると、伸ばされていた羅煌の手がぴたりと止まった。

「貴方たちが望んでいた時代は、もう終わってしまったの。私も、貴方たちを使ってあげられない」

 武士という身分そのものがなくなって、もう何十年も経っている。
 刀を腰に差して町を歩く時代は、とうに過ぎ去った。
 その事実を彼らに告げるのは、とても残酷なことのように思えたけれど、嘘をつくわけにはいかない。
 私はどうしたって、彼らの主人になることはできない——彼らが望んでいるものをそのまま与えてあげることは、できないのだ。

「でもね、羅煌。貴方が託してくれたことは、この目で見させてもらったわ。三十年前に、貴方たちが何を願っていたのか。どうして、自ら壊れることを選んだのか」
 
 羅煌が私に見せた記憶——あれがなければ、私は何も知らなかった。
 善が三十年間守り続けてきた秘密も、刀たちが味わった苦悩も。
 羅煌が、刀たちの頭として最後まで背負っていたものも。
 
「あの日は、拒んでしまってごめんなさい」
 
 雲の僅かな隙間から、月が覗く。
 淡い月光が差し込み、羅煌の甲冑を白く照らした。
 
《我が……主……》
 
 先ほどより、ほんの少しだけ鮮明になった声で、羅煌は呼ぶ。
 けれど、私はもう一度、小さく首を横に振る。
 
「違うわ。私は、貴方たちの主じゃない」
 
 そして、羅煌の奥にいるであろう、名前も知らない刀たちへも届くように告げた。

「今日は、貴方たちを弔うためにここへ来たの」

 ざわり、と風が吹いた。
 月にかかっていた雲が、ほんの少しだけ早く流れていく。
 羅煌が握っている刀は、震えていた。
 カタカタ、カタカタと——私の言葉に反応するように。 
《…………弔、う……》

『我が主』、ではなかった。
 それ以外の言葉が、初めて羅煌から返ってきた。
 声は、彼らに届いている——私は確信した。 
 
「ええ」

 ――ならば、あとは『彼』に託すだけだ。
 それ以上の説明は、あえてしない。
 これから何をしようとしているのか、私たちの口から明言してはいけない。
 羅煌は察するかもしれないけれど、そこまでで十分だ。

「貴方たちに、お願いしたいことがあるの」
 
 私の台詞を合図に、それまで息を潜めていた『彼』が、ざり、と足音を立てながら出てきた。

《…………!》
 
 羅煌の兜が、ゆっくりと持ち上がる。
 私も背後を振り返った。
 ——月明かりの下に、一人の男が立っている。
 粗末な着物をまとった、浅黒い肌の男。
 灰色の髪を後ろで一つに括っただけの、まったく飾り立てたところのない姿。
 神蔵家にいた頃よりも、さらに昔——当人いわく、一番荒んでいた頃の、幕府時代の姿。

《…………煙、羅……?》

 羅煌の声が揺れる。
 先ほどまでよりも、明らかに強い反応だった。
 けれど、向かい合う『彼』はさして興味がない様子を装っている。
 私を見るでもなく、羅煌を見るでもなく、ただ気怠そうに首を鳴らし、ただ一言。

「誰だィ、てめェは?」

 と、鼻で笑った。
 そう——ここにいる『彼』は、『百丸善一』でもなければ、神蔵家最強の『煙羅』でもない。
 ただの名もなき荒くれ者——ただの喧嘩煙管の付喪神だ。

「お願い。私を、あの男から守って」

 一音一音を届けるように、ゆっくりと台詞を口にする。

「私のために、戦って」

 すると、羅煌の兜が私へ向いた。
 同時に羅煌の刀が、カチカチカチカチッ、と大きく震えだした。
 それは、怒りでも、悲しみでもない。
 ——紛れもない、武者震いだった。

「カカッ!」

 荒くれ者の『彼』がにいっと口角を吊り上げた、その刹那。
 彼は既に、地面を強く蹴り出していた。

(速い……!)

 一直線に、私へ向かってくる。
 計画どおりの動きをされているだけなのに、私の体は反射的に強張った。
 まるで、恐ろしい人喰い鬼が迫ってきているかのような気迫。
 けれど、彼が私へ辿り着くよりも早く——羅煌が、私の前へ出た。

 ——ギィィンッ!!

 凄まじい金属音が、夜の野原に響き渡った。
 羅煌が、『彼』が振り上げた鉄の煙管を、瞬時に振り抜いた刀で受け止めている。 
 桜花郷を騒がせた鎧武者の怪異は今、私を守る、一人の勇猛な武士となっていた。

「カカ! やるじゃねェの、アンタ」

 キリキリと、刀と煙管を噛み合わせたまま、『彼』が楽しそうに目を見開く。
 けれど、羅煌は答えない。
 ただ、私を背後に庇ったまま、相手を押し返そうと刀へ力を込めている。
 刀身から先ほど感じていた禍々しい気配は、もうどこにもなかった。
 三百の刀たちの魂は今、恐るべき敵を前に、一つの刃になろうとしている。
 ——主を守るために。
 ——主を害する敵を、斬り伏せるために。

「カカカッ、面白ェ!」
 
『彼』は煙管を握る手に力を込め、一気に羅煌を弾き返した。
 羅煌も即座に体勢を整え、刀を構え直す。
 その切っ先は、迷うことなく目の前の敵を捉えていた。
「だったら——その女ァ、てめェから奪ってみるとするかねェ!」 

 荒くれ者の『彼』は肩に煙管を担ぎ、獰猛な笑顔を浮かべていた。