「はァ~~……至福至福ゥ……」
その日の夜。
善は寝室の窓際で、心の底から幸せそうな声を漏らした。
彼が手にする煙管から立ちのぼった紫煙が、夜の空気へゆらゆらと溶けていく。
「やっぱ自由ってのァいいねェ。好きな時に煙草吸えて、好きな時に酒が飲めて。なにより……」
善が煙管をくわえたまま、にんまりと私を見る。
「嫁と同じ部屋で過ごせる」
「私はもう一日くらい古蘭と一緒でもよかったけどね。友達とお泊まり会してるみたいで楽しかったし」
「おお、こいつァ手厳しい」
カカッ、と楽しそうに笑って、善はまた煙管をふかした。
開け放した障子の向こうには、神蔵家の庭が広がっている。
昼間は稽古の声が響いていたけれど、今は虫の声と、風に揺れる木々の葉擦れしか聞こえない。
「……でも、そうね。思ったより早く、アンタを助けられたのはよかったわ」
「あァ、これもひとえに珠希のおかげさね」
二日前、突然この屋敷へ連れてこられてから、善とはずっと離ればなれだった。
顔を見ることはできても、格子越し。
二人だけで話す時間なんて、ほとんどなかった。
だから、こうしていつものように同じ空間にいるだけで、ひどく久しぶりのように感じる。
「……ねえ、善」
「ン?」
煙管をくわえたまま、善がこちらを見る。
「アンタは、これからどうしたい?」
「これから?」
「今回の――羅煌のこと」
善の表情が変わった。
それまでだらしなく緩んでいた顔から笑みが消え、口から煙管が離れる。
私は正座した膝の上に手を置いたまま、善を真っ直ぐ見た。
「羅煌は、アンタの友人だったんでしょう?」
「まァな。それなりに信頼のおける仲だったよ」
善は煙管を吸うと、ふう、と障子の外へ煙を吐き出した。
「三十年前、アンタは羅煌に頼まれて、彼を終わらせた。今度も同じことになると思う」
「そうだなァ」
「だから、アンタ自身がどうしたいのか、ちゃんと聞いておきたいの」
私は善の主人だ。
私が命令すれば、彼は必ず従う。
だからこそ、危険が大きい今回ばかりは、善の気持ちを確認せずに命令したくはなかった。
「羅煌を助けたい? もう一度、アンタの手で終わらせてあげたい?」
善はしばらく黙っていた。
やがて煙草盆にカン! と煙管を叩きつけ、灰を落とすと、少し困ったように眉を下げた。
「……そりゃァな。あんな有様になってるって知っちまった以上、放っときたくはねェよ。あいつ自身が望んでああなったわけでもなさそうだしな」
やっぱり、義理堅い善なら、そう答えると思っていた。
「だがな、珠希。俺ァアンタの命令が最優先だ。他にどんな事情があろうと」
善の灰色の瞳が、真っ直ぐこちらを見据える。
けれど表情は、いつものように笑ってはいなかった。
「だから、珠希が『行くな』ってんなら行かない。このまま神蔵家から逃げちまってもいい」
「……!」
予想もしない返事だった。
善は私に絶対従う——分かっていたけれど、それでも予想できなかった。
羅煌を助けに行きたいと考えているであろう善が、こうもあっさりと、羅煌を見捨てる選択をするなんて。
「……いいの? それじゃ、羅煌を放っておくことになるのよ。アンタは今、羅煌を助けたいって言ったばかりじゃない」
「ああ」
善は煙草盆に煙管を置くと、そのまま私の真正面に正座した。
「だが、それとこれとは別だ。俺ァアンタの道具。神蔵家とは和解できたし、羅煌とのしがらみも表に出たが、アンタが俺を所有している現状を放棄した覚えはねェ」
善はほんの一瞬だけ、視線を下に落としたけれど、すぐに私をまた見つめて言い切った。
「俺の主人は珠希だ。だからもう、羅煌のためだけに命を賭けることはしない。アンタが『行かないで』ってんなら、俺ァ行かねェよ」
その言葉が、胸に真っ直ぐ刺さってくる。
善なら間違いなく戦うと思っていた。
けれど、違った——三十年前と同じ状況でも、彼の立場は三十年前とは違うのだ。
「逆に聞くが、珠希は俺をどうしたいんだィ?」
善が少し身を乗り出して聞いてくる。
「同じ質問で返さないでよ」
「悪ィな」
ちっとも悪びれていない顔で言う。
私はむっと眉を寄せたけれど、善は私にニッと笑いかけた。
「でも、やっと二人きりになれたんだ。ここは腹割って、本音で話し合おうや」
そう言って、善は私の頬を人差し指でつついた。
「アンタ、今にも泣きそうじゃねェか」
「…………っ」
言われた途端、ぎゅっと喉の奥が締まった感じがした。
今までなんともなかったはずなのに、唐突に目の奥がじわじわと熱くなってくる。
「……アンタが勝手にそう見てるだけよ」
昼間だって泣かなかったのに。
羅煌のことを考えていた時も、善が危険な戦いへ赴く可能性を考えていた時も、涙なんて出なかったのに。
こうして善に指摘された途端、泣きそうになるなんて。
私は悔しくなって、善から顔を背けた。
右手の指に嵌めたラピスラズリが、行灯の明かりを受けて、深い青色に輝いているのが見える。
「……私は、羅煌を助けてあげたい」
横目で指輪を見つめたまま、落ち着いてゆっくり口を開く。
「でも、その代償にアンタが壊れるのは嫌」
答えはこれだけで十分だろう。
——羅煌を救いたい。
——善を失いたくない。
どちらも、私の本心なのだから。
「そうかィ、そんなに大事にしてくれてんのかィ」
それを聞いた善の目が、嬉しそうに細められる。
心なしか、声まで妙に弾んでいるように聞こえた。
「当たり前でしょう。アンタがいないと、本当に困るのよ。骨董店だって、アンタの会社から支援を受けてるから安定してるんだし。仕入れだって、商売の伝手だって――」
なんだか癪に障って、少し強めに言い返したけれど、善はそれでも上機嫌だった。
まるで、頼りにされていること自体が嬉しくて仕方ないとでも言うように。
「それなら尚のこと。ご主人様のためにも、俺ァ絶対に生き残らにゃならんわけだ」
「……そうよ」
私は善を真っ直ぐ見た。
「羅煌を助けて、アンタも帰ってきなさい。どっちかじゃ駄目。両方よ」
「あいよ。仰せのままに」
善が楽しそうに笑う。
「……なァ、珠希」
けれど不意に、彼の声色が変わった。
私は思わず、ピンと背筋を伸ばす。
妙に真面目な表情を浮かべて、善は言った。
「一つ、聞いてほしいことがある。一生のお願いだ」
「……なに?」
一生のお願い。
その言葉に、嫌な予感がした。
まさか、万が一自分が帰らなかった時のことでも言うつもりだろうか。
身構える私を前に、善は真剣な面持ちで言った。
「一回でいい——俺の煙管を、アンタの口にくわえてくれ」
「……………………は?」
沈黙。沈黙。沈黙に次ぐ沈黙。
虫の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……何言ってんの、アンタ?」
「いや、そんな反応されても当然だけどな。けど、これでも切実な話なんだよ!」
本気で白けている私に、善はむしろ必死の形相で訴えてくる。
「俺ァ美女にくわえてもらうのが夢だったんだ! なのに今までの持ち主ァ全員男! それも鳶職だの町人だの、むさっ苦しい野郎ばっかり! 野郎の荒れた唇に何百回、何千回挟まれてきたと思ってやがる!」
「知らないわよ、そんなこと……」
「で、ようやく念願の女主人を得たと思ったら、煙草は吸わねェと来た!」
善は畳に両手をついた。
「二百年も道具として生きてきてンのに、野郎の唇しか知らねェなんて泣くに泣けねェよ! 俺の心まで荒れっちまう!」
さっきまで溢れそうだった涙が、一瞬で引っ込んでしまった。
ここまでの情緒が全部ぶち壊しだ。
私は半ば軽蔑を込めて、目の前でうずくまる付喪神を見下ろした。
「いや、霊体なら何度か唇は重ねたけどよォ……やっぱ本体は別っつーか……一度くらい、こう……」
善はしくしくと泣く真似をしている。
私は深々とため息を吐いた。
ほんの少し前まで、この男が壊れてしまったらどうしよう、なんて泣きそうになっていたのが、一気に馬鹿らしくなってきた。
「阿呆ねえ、アンタ……」
――本当に。
どこまで行っても、善は善なのだ。
その日の夜。
善は寝室の窓際で、心の底から幸せそうな声を漏らした。
彼が手にする煙管から立ちのぼった紫煙が、夜の空気へゆらゆらと溶けていく。
「やっぱ自由ってのァいいねェ。好きな時に煙草吸えて、好きな時に酒が飲めて。なにより……」
善が煙管をくわえたまま、にんまりと私を見る。
「嫁と同じ部屋で過ごせる」
「私はもう一日くらい古蘭と一緒でもよかったけどね。友達とお泊まり会してるみたいで楽しかったし」
「おお、こいつァ手厳しい」
カカッ、と楽しそうに笑って、善はまた煙管をふかした。
開け放した障子の向こうには、神蔵家の庭が広がっている。
昼間は稽古の声が響いていたけれど、今は虫の声と、風に揺れる木々の葉擦れしか聞こえない。
「……でも、そうね。思ったより早く、アンタを助けられたのはよかったわ」
「あァ、これもひとえに珠希のおかげさね」
二日前、突然この屋敷へ連れてこられてから、善とはずっと離ればなれだった。
顔を見ることはできても、格子越し。
二人だけで話す時間なんて、ほとんどなかった。
だから、こうしていつものように同じ空間にいるだけで、ひどく久しぶりのように感じる。
「……ねえ、善」
「ン?」
煙管をくわえたまま、善がこちらを見る。
「アンタは、これからどうしたい?」
「これから?」
「今回の――羅煌のこと」
善の表情が変わった。
それまでだらしなく緩んでいた顔から笑みが消え、口から煙管が離れる。
私は正座した膝の上に手を置いたまま、善を真っ直ぐ見た。
「羅煌は、アンタの友人だったんでしょう?」
「まァな。それなりに信頼のおける仲だったよ」
善は煙管を吸うと、ふう、と障子の外へ煙を吐き出した。
「三十年前、アンタは羅煌に頼まれて、彼を終わらせた。今度も同じことになると思う」
「そうだなァ」
「だから、アンタ自身がどうしたいのか、ちゃんと聞いておきたいの」
私は善の主人だ。
私が命令すれば、彼は必ず従う。
だからこそ、危険が大きい今回ばかりは、善の気持ちを確認せずに命令したくはなかった。
「羅煌を助けたい? もう一度、アンタの手で終わらせてあげたい?」
善はしばらく黙っていた。
やがて煙草盆にカン! と煙管を叩きつけ、灰を落とすと、少し困ったように眉を下げた。
「……そりゃァな。あんな有様になってるって知っちまった以上、放っときたくはねェよ。あいつ自身が望んでああなったわけでもなさそうだしな」
やっぱり、義理堅い善なら、そう答えると思っていた。
「だがな、珠希。俺ァアンタの命令が最優先だ。他にどんな事情があろうと」
善の灰色の瞳が、真っ直ぐこちらを見据える。
けれど表情は、いつものように笑ってはいなかった。
「だから、珠希が『行くな』ってんなら行かない。このまま神蔵家から逃げちまってもいい」
「……!」
予想もしない返事だった。
善は私に絶対従う——分かっていたけれど、それでも予想できなかった。
羅煌を助けに行きたいと考えているであろう善が、こうもあっさりと、羅煌を見捨てる選択をするなんて。
「……いいの? それじゃ、羅煌を放っておくことになるのよ。アンタは今、羅煌を助けたいって言ったばかりじゃない」
「ああ」
善は煙草盆に煙管を置くと、そのまま私の真正面に正座した。
「だが、それとこれとは別だ。俺ァアンタの道具。神蔵家とは和解できたし、羅煌とのしがらみも表に出たが、アンタが俺を所有している現状を放棄した覚えはねェ」
善はほんの一瞬だけ、視線を下に落としたけれど、すぐに私をまた見つめて言い切った。
「俺の主人は珠希だ。だからもう、羅煌のためだけに命を賭けることはしない。アンタが『行かないで』ってんなら、俺ァ行かねェよ」
その言葉が、胸に真っ直ぐ刺さってくる。
善なら間違いなく戦うと思っていた。
けれど、違った——三十年前と同じ状況でも、彼の立場は三十年前とは違うのだ。
「逆に聞くが、珠希は俺をどうしたいんだィ?」
善が少し身を乗り出して聞いてくる。
「同じ質問で返さないでよ」
「悪ィな」
ちっとも悪びれていない顔で言う。
私はむっと眉を寄せたけれど、善は私にニッと笑いかけた。
「でも、やっと二人きりになれたんだ。ここは腹割って、本音で話し合おうや」
そう言って、善は私の頬を人差し指でつついた。
「アンタ、今にも泣きそうじゃねェか」
「…………っ」
言われた途端、ぎゅっと喉の奥が締まった感じがした。
今までなんともなかったはずなのに、唐突に目の奥がじわじわと熱くなってくる。
「……アンタが勝手にそう見てるだけよ」
昼間だって泣かなかったのに。
羅煌のことを考えていた時も、善が危険な戦いへ赴く可能性を考えていた時も、涙なんて出なかったのに。
こうして善に指摘された途端、泣きそうになるなんて。
私は悔しくなって、善から顔を背けた。
右手の指に嵌めたラピスラズリが、行灯の明かりを受けて、深い青色に輝いているのが見える。
「……私は、羅煌を助けてあげたい」
横目で指輪を見つめたまま、落ち着いてゆっくり口を開く。
「でも、その代償にアンタが壊れるのは嫌」
答えはこれだけで十分だろう。
——羅煌を救いたい。
——善を失いたくない。
どちらも、私の本心なのだから。
「そうかィ、そんなに大事にしてくれてんのかィ」
それを聞いた善の目が、嬉しそうに細められる。
心なしか、声まで妙に弾んでいるように聞こえた。
「当たり前でしょう。アンタがいないと、本当に困るのよ。骨董店だって、アンタの会社から支援を受けてるから安定してるんだし。仕入れだって、商売の伝手だって――」
なんだか癪に障って、少し強めに言い返したけれど、善はそれでも上機嫌だった。
まるで、頼りにされていること自体が嬉しくて仕方ないとでも言うように。
「それなら尚のこと。ご主人様のためにも、俺ァ絶対に生き残らにゃならんわけだ」
「……そうよ」
私は善を真っ直ぐ見た。
「羅煌を助けて、アンタも帰ってきなさい。どっちかじゃ駄目。両方よ」
「あいよ。仰せのままに」
善が楽しそうに笑う。
「……なァ、珠希」
けれど不意に、彼の声色が変わった。
私は思わず、ピンと背筋を伸ばす。
妙に真面目な表情を浮かべて、善は言った。
「一つ、聞いてほしいことがある。一生のお願いだ」
「……なに?」
一生のお願い。
その言葉に、嫌な予感がした。
まさか、万が一自分が帰らなかった時のことでも言うつもりだろうか。
身構える私を前に、善は真剣な面持ちで言った。
「一回でいい——俺の煙管を、アンタの口にくわえてくれ」
「……………………は?」
沈黙。沈黙。沈黙に次ぐ沈黙。
虫の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……何言ってんの、アンタ?」
「いや、そんな反応されても当然だけどな。けど、これでも切実な話なんだよ!」
本気で白けている私に、善はむしろ必死の形相で訴えてくる。
「俺ァ美女にくわえてもらうのが夢だったんだ! なのに今までの持ち主ァ全員男! それも鳶職だの町人だの、むさっ苦しい野郎ばっかり! 野郎の荒れた唇に何百回、何千回挟まれてきたと思ってやがる!」
「知らないわよ、そんなこと……」
「で、ようやく念願の女主人を得たと思ったら、煙草は吸わねェと来た!」
善は畳に両手をついた。
「二百年も道具として生きてきてンのに、野郎の唇しか知らねェなんて泣くに泣けねェよ! 俺の心まで荒れっちまう!」
さっきまで溢れそうだった涙が、一瞬で引っ込んでしまった。
ここまでの情緒が全部ぶち壊しだ。
私は半ば軽蔑を込めて、目の前でうずくまる付喪神を見下ろした。
「いや、霊体なら何度か唇は重ねたけどよォ……やっぱ本体は別っつーか……一度くらい、こう……」
善はしくしくと泣く真似をしている。
私は深々とため息を吐いた。
ほんの少し前まで、この男が壊れてしまったらどうしよう、なんて泣きそうになっていたのが、一気に馬鹿らしくなってきた。
「阿呆ねえ、アンタ……」
――本当に。
どこまで行っても、善は善なのだ。

