《我が、主……》
暗闇の中で、誰かの手が私の肩に触れた。
私の肩をすっぽり覆ってしまいそうな、ひやりと冷たい大きな手。
「のう、煙の。天はなぜ、ワシらに心を授けたのだろうな」
私を主と呼んだ男の声が、今度は少し遠くから聞こえてくる。
「ワシらは道具なのに、血も涙もあったのだ。血も涙もなければ、どれほど楽だったのだろうな」
けれど、胸の内を吐露するその声は、低く、静かで——どこか虚しさを覚えた。
「お前の言うとおりだよ、羅煌」
応じたのは、善の声だった。
いつも聞いているから、間違いない——あの少し掠れた、低くて艶のある声。
「こんなモンがなければ、俺もお前も、こんな苦労はしなかっただろうに」
二人の声が、ぴたりと重なる。
「「──心なんて、最初からなければよかった」」
途端、視界が明るくなる。
真っ白になった景色の中、一番最初に視界に飛び込んできたのは、刀たちの群れだった。
刀。刀。刀。刀。刀。刀。刀。刀。
刀。刀。刀。刀。刀。刀。刀。刀。
刀。刀。刀。刀。刀。刀。刀。刀。
刀。刀。刀。刀。刀。刀。刀。刀。
真っ白で何もない空間に、規則正しく並んで突き立てられた、刀の群れ。
それらは、彼らは、次の瞬間——バキィン! という不快な音とともに、鉄屑の山と化した。
修復もできないほど砕けてしまって、見るも無惨な残骸となった彼ら。
呼吸が苦しくなるほど、私の胸は締めつけられる。
「——感謝する、同胞よ」
「あァ」
次に現れたのは——正座して頭を垂れた、死装束の大柄な男。
そして——その傍らに立つ、褐色の肌と銀髪をした男。
今とはまるで違う、総髪に古びた着物をまとった、見たことのない善の姿だった。
ああ、そうか――と私は悟った。
これは過去の再生。
三十年前の事件が起きた当時の、記憶の再現なのだ。
「俺も、近いうちに逝くよ」
善は手刀を振り上げると、羅煌の頸部へまっすぐに振り下ろした。
もう一度、バキン! という乾いた音が響いた。
*
障子越しの朝日が、部屋を淡く照らしている。
水中で横たわるような息苦しさの中で、私は目を覚ました。
「三倉殿……! ああ、やっと目を覚ました……」
「大丈夫ですか、珠希様? お顔、失礼いたしますね」
視界の右側から紫玄が、左側から古蘭が覗き込んでいる。
紫玄は心の底から安心したように深く息を吐き、古蘭は私の額を手ぬぐいで拭いてくれる。
身じろぎすると、湿った寝間着の布地が肌に触れて、自分が驚くほど汗まみれになっていたことに気づく。
「私……何を……?」
「珠希様がなかなか起きてこられないので、私が様子を見に来たところ、うなされていたのです」
「……今は、何時なの?」
「朝の九時にございます」
「……大寝坊ね、それは」
朝に強く、普段も六時に起きてご飯を作り始めている私にとって、これはなかなかの異常事態だ。
昨夜も「朝は得意なの」などと古蘭に向かって豪語していただけに、この醜態はかなり恥ずかしかった。
「肝が冷えました。それがしたちが大声で起こそうとしても、まったく目を覚まさなかったものですから」
「そんなに?」
「ええ。ずっとおつらそうにしていましたから、いよいよ病院に駆け込もうかと思っておりました」
さすがにそれは大袈裟では……と言いかけた。
けれど、古蘭がそこまで心配するほど、私は酷いうなされ方をしていたのだろう。
現に私は、とても息苦しい思いのする夢を見ていたわけだし。
……否。
(……夢、じゃないわね)
だって、あんな夢を見る理由が、私にはない。
見たことのない、かつての善の姿。
見たことのない、かつての羅煌の姿。
初めて目にした、数多くの刀たち。
あれは、どれも私が持ち得ない情報ばかりだった。
「……珠希様? どうかなさいましたか」
「ごめんなさい、古蘭。少し話しかけないでくれる?」
古蘭は目を瞬かせながらも、紫玄と共に大人しくその場に正座して、静かにしていた。
私は上体だけを起こして、一つずつ頭の中を整理していく。
(まず、あれが普通の夢とは考えにくい)
夢は自分の記憶や経験が混ざり合って生まれるものだ。
けれど私は、羅煌と話したこともなければ、三十年前を見たこともない。
ならば、あの夢は。
(誰かの記憶が、私の中に流れてきた……?)
そこまで考えて、ふと昨夜の出来事が脳裏をよぎる。
――そうだ、あの落武者。
先ほどの夢に出てきた羅煌と、背丈や体格がほとんど同じだ。
それに、《我が主》と私に向かって呼びかける、あの必死な様子。
私は思わず、落武者が手を置いた右肩に触れた。
(もしかして、あの落武者は私を捕まえようとしたんじゃなくて……)
何かを伝えようとしたのではないか?
……そんな想像をしてしまったら、途端にあの夢を見たことも、偶然とは思えなくなってきた。
だとしたら、次に私がすべきことは。
「……善」
そう、夢に出てきた善に、話を聞いてみるしかない。
私は布団を払い除けて立ち上がると、二人に呼びかけた。
「古蘭、紫玄。ユエ子様のところへ行くわよ」
「えっ? しかし珠希様、朝餉は……」
「ご飯は後よ。紫玄、お部屋の外で待ってて。今すぐ着替えるから」
「え?」
私は寝間着の腰紐をシュッとほどいた。
一瞬呆けていた紫玄は、私の寝間着の衿がはらりと緩んだのを見るなり、
「みっ!? 三倉殿、お待ちくだされ! それがしは出て行きますゆえ!!」
と半ば逃げるように部屋から出て行った。
「た、珠希様、あの……!?」
「急かしてごめんなさい。記憶が消えないうちに確かめたいの。そこの着物、着させてくれる?」
「あっ、は、はいっ!」
慌ただしく私の着替えを手伝い始める古蘭。
サッと襦袢を身につけ、彼女が拡げた着物に袖を通しながら、私は思考を続ける。
(もし、あの夢が落武者の見せたものだったとしたら、私に見せた理由もあるはず)
落武者が私に伝えようとしたこと。
伝えようとした意図。
そして、善が頑なに口を閉ざす理由。
私は、今すぐにそれを確かめなければならない気がした。
*
支度を終えた私は、古蘭と紫玄を連れて、ユエ子様を訪ねた。
ユエ子様は突然の申し出に驚いていたけれど、「今なら落武者が彷徨っている理由が分かるかも」と言うと、善のいる座敷牢へすんなり通してくれた。
「おう、今日はずいぶん大勢で来たなァ」
「……アンタは何してるのよ」
座敷牢に入った私は、格子に両足を掛けて上体起こしをしている善に出迎えられた。
「暇過ぎておっ死にそうなんだよ。もうこいつらの相手するのも飽きてきたしよ」
「……とりあえずその体勢はやめて、きちんと座ってくれる? これから真面目な話をするから」
私が言うと、善は「へェい」と言いながら、その場に正座した。
真面目な話と聞いて、あぐらではなく正座をしている点は律儀な男だ。
「ねえ、善。私、夢を見たの」
「夢だァ?」
「そう。昔のアンタが出てくる夢よ」
すると、善は訝しげに片眉を吊り上げた。
「ンなこと言ったって、お前さん、俺が昔どんな姿してたか分からねェだろ」
「髪、後ろでひとつに括ってたでしょ」
私がそう言うと、それまでまだお気楽そうだった善の雰囲気が、一瞬でピンと張り詰めた。
さらに、私と一緒にいた古蘭や紫玄、ユエ子様も、ハッとした顔で私を見ている。
「今みたいな品のいい着物じゃなくて、結構着古した着物を着ていたわね」
富豪の姿ではなく、特別な階級も持たない、ただの庶民のような格好。
民草の武器である喧嘩煙管らしい身なりだった。
「それで、アンタは言ってたわ。『心なんてなければよかった』、『こんなモンがなければ、苦労しなかった』って」
善は何も言い返さない。
そのままじっと耳を傾けるように、私の話の続きを待っていた。
「もう一人、夢に出てきた人がいたの。アンタに向かって、『感謝する、同胞よ』って言ってたわ」
私は善を真っ直ぐ見つめる。
「アンタは『喧嘩で刀を壊した』って言ってたけど、実際はお願いされてやったんじゃないの?」
座敷牢が、水を打ったように静まり返る。
「もしそうなら、聞かせて」
私は一歩、格子へ近づいた。
「どうして、羅煌はそんなお願いをしたの。アンタは自分を悪人にしてまで、何を隠したかったの?」
長い沈黙のあと。
善は肩を落とし、小さく笑った。
「……カカ」
それは誤魔化しではなく、降参だと伝えているように、私には思えた。
暗闇の中で、誰かの手が私の肩に触れた。
私の肩をすっぽり覆ってしまいそうな、ひやりと冷たい大きな手。
「のう、煙の。天はなぜ、ワシらに心を授けたのだろうな」
私を主と呼んだ男の声が、今度は少し遠くから聞こえてくる。
「ワシらは道具なのに、血も涙もあったのだ。血も涙もなければ、どれほど楽だったのだろうな」
けれど、胸の内を吐露するその声は、低く、静かで——どこか虚しさを覚えた。
「お前の言うとおりだよ、羅煌」
応じたのは、善の声だった。
いつも聞いているから、間違いない——あの少し掠れた、低くて艶のある声。
「こんなモンがなければ、俺もお前も、こんな苦労はしなかっただろうに」
二人の声が、ぴたりと重なる。
「「──心なんて、最初からなければよかった」」
途端、視界が明るくなる。
真っ白になった景色の中、一番最初に視界に飛び込んできたのは、刀たちの群れだった。
刀。刀。刀。刀。刀。刀。刀。刀。
刀。刀。刀。刀。刀。刀。刀。刀。
刀。刀。刀。刀。刀。刀。刀。刀。
刀。刀。刀。刀。刀。刀。刀。刀。
真っ白で何もない空間に、規則正しく並んで突き立てられた、刀の群れ。
それらは、彼らは、次の瞬間——バキィン! という不快な音とともに、鉄屑の山と化した。
修復もできないほど砕けてしまって、見るも無惨な残骸となった彼ら。
呼吸が苦しくなるほど、私の胸は締めつけられる。
「——感謝する、同胞よ」
「あァ」
次に現れたのは——正座して頭を垂れた、死装束の大柄な男。
そして——その傍らに立つ、褐色の肌と銀髪をした男。
今とはまるで違う、総髪に古びた着物をまとった、見たことのない善の姿だった。
ああ、そうか――と私は悟った。
これは過去の再生。
三十年前の事件が起きた当時の、記憶の再現なのだ。
「俺も、近いうちに逝くよ」
善は手刀を振り上げると、羅煌の頸部へまっすぐに振り下ろした。
もう一度、バキン! という乾いた音が響いた。
*
障子越しの朝日が、部屋を淡く照らしている。
水中で横たわるような息苦しさの中で、私は目を覚ました。
「三倉殿……! ああ、やっと目を覚ました……」
「大丈夫ですか、珠希様? お顔、失礼いたしますね」
視界の右側から紫玄が、左側から古蘭が覗き込んでいる。
紫玄は心の底から安心したように深く息を吐き、古蘭は私の額を手ぬぐいで拭いてくれる。
身じろぎすると、湿った寝間着の布地が肌に触れて、自分が驚くほど汗まみれになっていたことに気づく。
「私……何を……?」
「珠希様がなかなか起きてこられないので、私が様子を見に来たところ、うなされていたのです」
「……今は、何時なの?」
「朝の九時にございます」
「……大寝坊ね、それは」
朝に強く、普段も六時に起きてご飯を作り始めている私にとって、これはなかなかの異常事態だ。
昨夜も「朝は得意なの」などと古蘭に向かって豪語していただけに、この醜態はかなり恥ずかしかった。
「肝が冷えました。それがしたちが大声で起こそうとしても、まったく目を覚まさなかったものですから」
「そんなに?」
「ええ。ずっとおつらそうにしていましたから、いよいよ病院に駆け込もうかと思っておりました」
さすがにそれは大袈裟では……と言いかけた。
けれど、古蘭がそこまで心配するほど、私は酷いうなされ方をしていたのだろう。
現に私は、とても息苦しい思いのする夢を見ていたわけだし。
……否。
(……夢、じゃないわね)
だって、あんな夢を見る理由が、私にはない。
見たことのない、かつての善の姿。
見たことのない、かつての羅煌の姿。
初めて目にした、数多くの刀たち。
あれは、どれも私が持ち得ない情報ばかりだった。
「……珠希様? どうかなさいましたか」
「ごめんなさい、古蘭。少し話しかけないでくれる?」
古蘭は目を瞬かせながらも、紫玄と共に大人しくその場に正座して、静かにしていた。
私は上体だけを起こして、一つずつ頭の中を整理していく。
(まず、あれが普通の夢とは考えにくい)
夢は自分の記憶や経験が混ざり合って生まれるものだ。
けれど私は、羅煌と話したこともなければ、三十年前を見たこともない。
ならば、あの夢は。
(誰かの記憶が、私の中に流れてきた……?)
そこまで考えて、ふと昨夜の出来事が脳裏をよぎる。
――そうだ、あの落武者。
先ほどの夢に出てきた羅煌と、背丈や体格がほとんど同じだ。
それに、《我が主》と私に向かって呼びかける、あの必死な様子。
私は思わず、落武者が手を置いた右肩に触れた。
(もしかして、あの落武者は私を捕まえようとしたんじゃなくて……)
何かを伝えようとしたのではないか?
……そんな想像をしてしまったら、途端にあの夢を見たことも、偶然とは思えなくなってきた。
だとしたら、次に私がすべきことは。
「……善」
そう、夢に出てきた善に、話を聞いてみるしかない。
私は布団を払い除けて立ち上がると、二人に呼びかけた。
「古蘭、紫玄。ユエ子様のところへ行くわよ」
「えっ? しかし珠希様、朝餉は……」
「ご飯は後よ。紫玄、お部屋の外で待ってて。今すぐ着替えるから」
「え?」
私は寝間着の腰紐をシュッとほどいた。
一瞬呆けていた紫玄は、私の寝間着の衿がはらりと緩んだのを見るなり、
「みっ!? 三倉殿、お待ちくだされ! それがしは出て行きますゆえ!!」
と半ば逃げるように部屋から出て行った。
「た、珠希様、あの……!?」
「急かしてごめんなさい。記憶が消えないうちに確かめたいの。そこの着物、着させてくれる?」
「あっ、は、はいっ!」
慌ただしく私の着替えを手伝い始める古蘭。
サッと襦袢を身につけ、彼女が拡げた着物に袖を通しながら、私は思考を続ける。
(もし、あの夢が落武者の見せたものだったとしたら、私に見せた理由もあるはず)
落武者が私に伝えようとしたこと。
伝えようとした意図。
そして、善が頑なに口を閉ざす理由。
私は、今すぐにそれを確かめなければならない気がした。
*
支度を終えた私は、古蘭と紫玄を連れて、ユエ子様を訪ねた。
ユエ子様は突然の申し出に驚いていたけれど、「今なら落武者が彷徨っている理由が分かるかも」と言うと、善のいる座敷牢へすんなり通してくれた。
「おう、今日はずいぶん大勢で来たなァ」
「……アンタは何してるのよ」
座敷牢に入った私は、格子に両足を掛けて上体起こしをしている善に出迎えられた。
「暇過ぎておっ死にそうなんだよ。もうこいつらの相手するのも飽きてきたしよ」
「……とりあえずその体勢はやめて、きちんと座ってくれる? これから真面目な話をするから」
私が言うと、善は「へェい」と言いながら、その場に正座した。
真面目な話と聞いて、あぐらではなく正座をしている点は律儀な男だ。
「ねえ、善。私、夢を見たの」
「夢だァ?」
「そう。昔のアンタが出てくる夢よ」
すると、善は訝しげに片眉を吊り上げた。
「ンなこと言ったって、お前さん、俺が昔どんな姿してたか分からねェだろ」
「髪、後ろでひとつに括ってたでしょ」
私がそう言うと、それまでまだお気楽そうだった善の雰囲気が、一瞬でピンと張り詰めた。
さらに、私と一緒にいた古蘭や紫玄、ユエ子様も、ハッとした顔で私を見ている。
「今みたいな品のいい着物じゃなくて、結構着古した着物を着ていたわね」
富豪の姿ではなく、特別な階級も持たない、ただの庶民のような格好。
民草の武器である喧嘩煙管らしい身なりだった。
「それで、アンタは言ってたわ。『心なんてなければよかった』、『こんなモンがなければ、苦労しなかった』って」
善は何も言い返さない。
そのままじっと耳を傾けるように、私の話の続きを待っていた。
「もう一人、夢に出てきた人がいたの。アンタに向かって、『感謝する、同胞よ』って言ってたわ」
私は善を真っ直ぐ見つめる。
「アンタは『喧嘩で刀を壊した』って言ってたけど、実際はお願いされてやったんじゃないの?」
座敷牢が、水を打ったように静まり返る。
「もしそうなら、聞かせて」
私は一歩、格子へ近づいた。
「どうして、羅煌はそんなお願いをしたの。アンタは自分を悪人にしてまで、何を隠したかったの?」
長い沈黙のあと。
善は肩を落とし、小さく笑った。
「……カカ」
それは誤魔化しではなく、降参だと伝えているように、私には思えた。

