十六夜の月が高く昇る頃、座敷牢の襖が静かに開いた。
小さな足音が、格子の手前でピタリと止まる。
「……何をしとるんじゃ、そなたは」
顔を上げれば、格子の向こうに、心底呆れたような顔をしたユエ子が立っていた。
「今のうちに鍛錬してんだよ。戦闘に備えて全盛期にできるだけ近い筋肉作っとかにゃァ」
暇を究めた俺は、両手以外が自由なのをいいことに、筋肉をひたすら鍛えることにした。
今は逆立ちをしながら腕立て伏せをしている最中である。
ユエ子はやれやれとかぶりを振った。
「そなたのそれは『霊体』であろう。人間のように、鍛錬で筋肉がつくわけなかろうが」
「うるせェな、暇なんだから放っとけ」
「そんなことより、三倉の娘が手がかりを掴んだようじゃぞ」
「!」
俺は即座に逆立ちをやめ、姿勢を正す。
「落武者の正体はやはり羅煌。紫玄と古蘭の二人がかりでも、軽くいなされてしまったらしい」
「そうかィ。まァ、そうだろうなァ」
俺が破壊した中で、神蔵家の付喪神をいともたやすく破壊できる刀。
その条件を満たせるのは、かつて俺と共に『神蔵家の双羅』と呼ばれた、羅煌だけだろう。
あの二人が止められなかったのも、俺からすれば予想どおりだ。
そもそも、あいつらで止められる相手なら、俺も呼び戻されてはいないだろう。
「で、二人とも壊されちゃいねェんだろうな?」
「安心せい、どちらも無事じゃ。三倉の娘も怪我ひとつしておらぬ」
「……そうかィ」
それを聞いて、俺は素直に安堵した。
ただでさえ弱体化した付喪神に、あの羅煌の相手をさせるのは酷というものだ。
二人も精一杯やったに違いないが、全員が無事に帰還できたのは運がよかったという他ない。
「しかし、羅煌のやつ……何を思うたか、三倉の娘を『主人』と認識したようでな。肩を掴んで、自ら接触してきたらしい」
「『主人』だァ?」
「ああ。奴はどうやら、主人を探し求めて徘徊しておったようなのじゃ」
「おーおー、そりゃとんでもなくデカい新情報だな」
さすがは物の声を聞く『骨董姫』、さっそく大きな成果をあげたらしい。
あの女に使われる身として、俺も誇らしい気分だ。
……が。
(面白くねェな)
滑稽なことに、真っ先に出てきた感想はそれだった。
俺のご主人様を勝手に我が主などと呼んだ挙句、肩も掴むとは。
珠希のことなど微塵も知らないくせに、何を考えてそんな大胆な行動を取るのか。
「……そなた、今とんでもなく幼稚な顔をしておるぞ。お気に入りを取られそうで腹を立てておる童の顔じゃ」
「うるせェよ、千年ババアめ」
くつくつ笑うユエ子につい憎まれ口を叩くが、当の本人にはまったく響いていないようだった。
面白くない、面白くない、と不貞腐れていると、ユエ子は俺の正面へ腰を下ろした。
「しかし、そなた。よくこれだけの霊力を維持しておったな。追放され、神蔵の加護も失い、三十年経ってなお、その霊力……並の付喪神なら、霊体の維持すら危うかろうて」
「まァな。俺のご主人様の霊力が豊富なのもあるがね」
付喪神は主人に使われ、大切にされるほど、強くなっていく。
その主人の霊力が破格となれば――付喪神もその分、より強力になっていく。
昨日は派手に啖呵を切っていた俺も、実は珠希に出会うまではかなり弱っていた。
今の俺があるのは、実質珠希のおかげなのだ。
(もしかして、羅煌が珠希を『主人』と認識したのも、霊力に反応したから……? いや、さすがに短絡的すぎるか)
どの道、『骨董姫の一番』の座を奪うつもりなら、俺も容赦はしない。
俺が一人で嫉妬に燃えていると、
「そなたは昨日、のたまっておったな」
と、ユエ子が目を細めて言った。
「『恋をしてみるのもいい』と。――よもやとは思うが、そなた、三倉の娘と契りを交わしたわけではあるまいな?」
軽く言葉を濁して尋ねるユエ子。
俺は言葉で答える代わりに、「カカ」と笑った。
その反応だけで、彼女にとっては十分だったらしい。
「……信じられん。正気かえ?」
「仕方ねェだろ。そン時の珠希は遊郭一の花魁で、俺ァその馴染み客だったんだ。それくらいのことはするさ」
とはいえ、付喪神は生物でいうところの繁殖能力を持たないので、そういう肉体的な欲は皆無に等しい。
欲に突き動かされてそうなったのではなく、人間の営みを模しているという感覚のほうが近かった。
「ただ、俺もこれが『恋』なのか分からねェんだ」
珠希に対して抱いているこの気持ちを、『恋』と形容していいものか――正直、俺は図りかねていた。
遊郭では暗黙の掟にしたがって契りを交わすこともあったが、あれは『人間ごっこ』に近い感覚だったし。
「俺が珠希に執着しているということだけは、間違いないんだがなァ」
主人だから、恋だから。
――そう言ってしまえば、それまでだ。
けれど、それで終わらせてはいけない何かがあるように、俺は感じるのだ。
「……なァ、ユエ子」
俺は格子へ背中を預けたまま、ぽつりと呟く。
「どうして俺ら付喪神は、人間みてェな自我があって、心があるんだろうな」
ユエ子は独り言のような俺の言葉に、黙って耳を傾けている。
「だって、道具として生きるなら、心なんざねェほうが都合がいいだろう」
付喪神には、人間に従いたがる本能がある。
それが、人間に生み出された道具たる俺たちの在り方であり、宿命だ。
一方で、喜怒哀楽の感情もある。
「こんなモンがあるから、俺らは苦しむ」
使われたい、役に立ちたい、主人に尽くしたい――そんな本能に相対するように。
寂しい、悲しい、腹立たしい――そんな感情まで抱えてしまう。
両者がせめぎ合うせいで、俺たちは時に、人間に従わないというありえない選択をすることもある。
「何の感慨も抱かず、ただ付喪神の本能だけで動けたなら、どんなに楽だったか」
今、珠希に対して抱えている感情にしたってそうだ。
怒られてもいいから、珠希の声が聞きたい。
会うことが叶わないなら、せめて珠希の茶が欲しい。
俺にとっては、腹の中が焼け落ちてしまいそうなほど苦しく、悩ましい問題なのだ。
「なァ。千年生きてるアンタなら、少しは何かわからねェか?」
ユエ子は少し考えるように目を伏せた。
そして、静かに首を横に振った。
「残念じゃが、わらわが誕生するよりも遥か昔から、この国はそういう仕組みで回っておる。なんとも答えようがないな」
「……そうかィ。それならそれで、まァいいか」
しばしの沈黙。
そこから少しして、俺はまた口を開いた。
「なァ、ユエ子」
「何え?」
「珠希の茶が飲みたい。見張り付きでいいから、飲ませてくれ」
訝しげな視線を送ってくるユエ子。
俺は「カカ」と軽く笑った。
「別に逃げねェよ。末後の水に、って思っただけだ」
ユエ子は、なんとも言えない顔で俺を見た。
「そなた、つい先ほど『恋か分からぬ』などと悩んでおった男とは思えぬ要求じゃな」
「カカ、だなァ。俺もらしくねェと思ってる」
だが、欲しいものは仕方がない。
俺は押して頼み込んだ。
「頼むよ、ユエ子。これくらいのおねだりなら、可愛いモンだろ?」
正直、俺も羅煌を討てるか、討ったとしても無事でいられるか、わからないのだ。
なのに、珠希の茶を飲めないまま、なんて想像するだけで口惜しい。
それこそ、化けて出てこれそうなくらいの悔恨になるだろう。
あの男は、俺でも勝てる保証などない——神蔵家最強の一角だったのだから。
小さな足音が、格子の手前でピタリと止まる。
「……何をしとるんじゃ、そなたは」
顔を上げれば、格子の向こうに、心底呆れたような顔をしたユエ子が立っていた。
「今のうちに鍛錬してんだよ。戦闘に備えて全盛期にできるだけ近い筋肉作っとかにゃァ」
暇を究めた俺は、両手以外が自由なのをいいことに、筋肉をひたすら鍛えることにした。
今は逆立ちをしながら腕立て伏せをしている最中である。
ユエ子はやれやれとかぶりを振った。
「そなたのそれは『霊体』であろう。人間のように、鍛錬で筋肉がつくわけなかろうが」
「うるせェな、暇なんだから放っとけ」
「そんなことより、三倉の娘が手がかりを掴んだようじゃぞ」
「!」
俺は即座に逆立ちをやめ、姿勢を正す。
「落武者の正体はやはり羅煌。紫玄と古蘭の二人がかりでも、軽くいなされてしまったらしい」
「そうかィ。まァ、そうだろうなァ」
俺が破壊した中で、神蔵家の付喪神をいともたやすく破壊できる刀。
その条件を満たせるのは、かつて俺と共に『神蔵家の双羅』と呼ばれた、羅煌だけだろう。
あの二人が止められなかったのも、俺からすれば予想どおりだ。
そもそも、あいつらで止められる相手なら、俺も呼び戻されてはいないだろう。
「で、二人とも壊されちゃいねェんだろうな?」
「安心せい、どちらも無事じゃ。三倉の娘も怪我ひとつしておらぬ」
「……そうかィ」
それを聞いて、俺は素直に安堵した。
ただでさえ弱体化した付喪神に、あの羅煌の相手をさせるのは酷というものだ。
二人も精一杯やったに違いないが、全員が無事に帰還できたのは運がよかったという他ない。
「しかし、羅煌のやつ……何を思うたか、三倉の娘を『主人』と認識したようでな。肩を掴んで、自ら接触してきたらしい」
「『主人』だァ?」
「ああ。奴はどうやら、主人を探し求めて徘徊しておったようなのじゃ」
「おーおー、そりゃとんでもなくデカい新情報だな」
さすがは物の声を聞く『骨董姫』、さっそく大きな成果をあげたらしい。
あの女に使われる身として、俺も誇らしい気分だ。
……が。
(面白くねェな)
滑稽なことに、真っ先に出てきた感想はそれだった。
俺のご主人様を勝手に我が主などと呼んだ挙句、肩も掴むとは。
珠希のことなど微塵も知らないくせに、何を考えてそんな大胆な行動を取るのか。
「……そなた、今とんでもなく幼稚な顔をしておるぞ。お気に入りを取られそうで腹を立てておる童の顔じゃ」
「うるせェよ、千年ババアめ」
くつくつ笑うユエ子につい憎まれ口を叩くが、当の本人にはまったく響いていないようだった。
面白くない、面白くない、と不貞腐れていると、ユエ子は俺の正面へ腰を下ろした。
「しかし、そなた。よくこれだけの霊力を維持しておったな。追放され、神蔵の加護も失い、三十年経ってなお、その霊力……並の付喪神なら、霊体の維持すら危うかろうて」
「まァな。俺のご主人様の霊力が豊富なのもあるがね」
付喪神は主人に使われ、大切にされるほど、強くなっていく。
その主人の霊力が破格となれば――付喪神もその分、より強力になっていく。
昨日は派手に啖呵を切っていた俺も、実は珠希に出会うまではかなり弱っていた。
今の俺があるのは、実質珠希のおかげなのだ。
(もしかして、羅煌が珠希を『主人』と認識したのも、霊力に反応したから……? いや、さすがに短絡的すぎるか)
どの道、『骨董姫の一番』の座を奪うつもりなら、俺も容赦はしない。
俺が一人で嫉妬に燃えていると、
「そなたは昨日、のたまっておったな」
と、ユエ子が目を細めて言った。
「『恋をしてみるのもいい』と。――よもやとは思うが、そなた、三倉の娘と契りを交わしたわけではあるまいな?」
軽く言葉を濁して尋ねるユエ子。
俺は言葉で答える代わりに、「カカ」と笑った。
その反応だけで、彼女にとっては十分だったらしい。
「……信じられん。正気かえ?」
「仕方ねェだろ。そン時の珠希は遊郭一の花魁で、俺ァその馴染み客だったんだ。それくらいのことはするさ」
とはいえ、付喪神は生物でいうところの繁殖能力を持たないので、そういう肉体的な欲は皆無に等しい。
欲に突き動かされてそうなったのではなく、人間の営みを模しているという感覚のほうが近かった。
「ただ、俺もこれが『恋』なのか分からねェんだ」
珠希に対して抱いているこの気持ちを、『恋』と形容していいものか――正直、俺は図りかねていた。
遊郭では暗黙の掟にしたがって契りを交わすこともあったが、あれは『人間ごっこ』に近い感覚だったし。
「俺が珠希に執着しているということだけは、間違いないんだがなァ」
主人だから、恋だから。
――そう言ってしまえば、それまでだ。
けれど、それで終わらせてはいけない何かがあるように、俺は感じるのだ。
「……なァ、ユエ子」
俺は格子へ背中を預けたまま、ぽつりと呟く。
「どうして俺ら付喪神は、人間みてェな自我があって、心があるんだろうな」
ユエ子は独り言のような俺の言葉に、黙って耳を傾けている。
「だって、道具として生きるなら、心なんざねェほうが都合がいいだろう」
付喪神には、人間に従いたがる本能がある。
それが、人間に生み出された道具たる俺たちの在り方であり、宿命だ。
一方で、喜怒哀楽の感情もある。
「こんなモンがあるから、俺らは苦しむ」
使われたい、役に立ちたい、主人に尽くしたい――そんな本能に相対するように。
寂しい、悲しい、腹立たしい――そんな感情まで抱えてしまう。
両者がせめぎ合うせいで、俺たちは時に、人間に従わないというありえない選択をすることもある。
「何の感慨も抱かず、ただ付喪神の本能だけで動けたなら、どんなに楽だったか」
今、珠希に対して抱えている感情にしたってそうだ。
怒られてもいいから、珠希の声が聞きたい。
会うことが叶わないなら、せめて珠希の茶が欲しい。
俺にとっては、腹の中が焼け落ちてしまいそうなほど苦しく、悩ましい問題なのだ。
「なァ。千年生きてるアンタなら、少しは何かわからねェか?」
ユエ子は少し考えるように目を伏せた。
そして、静かに首を横に振った。
「残念じゃが、わらわが誕生するよりも遥か昔から、この国はそういう仕組みで回っておる。なんとも答えようがないな」
「……そうかィ。それならそれで、まァいいか」
しばしの沈黙。
そこから少しして、俺はまた口を開いた。
「なァ、ユエ子」
「何え?」
「珠希の茶が飲みたい。見張り付きでいいから、飲ませてくれ」
訝しげな視線を送ってくるユエ子。
俺は「カカ」と軽く笑った。
「別に逃げねェよ。末後の水に、って思っただけだ」
ユエ子は、なんとも言えない顔で俺を見た。
「そなた、つい先ほど『恋か分からぬ』などと悩んでおった男とは思えぬ要求じゃな」
「カカ、だなァ。俺もらしくねェと思ってる」
だが、欲しいものは仕方がない。
俺は押して頼み込んだ。
「頼むよ、ユエ子。これくらいのおねだりなら、可愛いモンだろ?」
正直、俺も羅煌を討てるか、討ったとしても無事でいられるか、わからないのだ。
なのに、珠希の茶を飲めないまま、なんて想像するだけで口惜しい。
それこそ、化けて出てこれそうなくらいの悔恨になるだろう。
あの男は、俺でも勝てる保証などない——神蔵家最強の一角だったのだから。

