そうして歩いているうちに、いつしか夕焼けは夜空へと変わり、少しだけ欠けた月がそろそろと顔を出した。
露店はすっかり畳まれ、人通りもほとんどない。
みんな、落武者と遭遇しないよう警戒しているのだろう。
通りを行く僅かな人たちも、自分だけは取り残されたくないというように、家路を急いでいた。
「……そろそろですね」
紫玄が辺りを見回しながら呟く。
ここからは聞き込みではなく、待つ時間だ。
落武者が出現したら、相手に気づかれないよう、行動を観察してみる。
「乾物屋さんで聞いたお話では、この辺りで声がしたんだったわね」
「はい。念のため、このあたりの物陰に隠れていましょう」
紫玄の意見に従い、私たちは人目につかない路地へ身を寄せた。
繁華街から離れた住宅街とはいえ、帝都とは思えないほど辺りは静かだ。
風が生垣をさわさわと揺らす音だけが聞こえる。
「神蔵家の骨董守は積極的に襲ってくるらしいけれど、三倉家である私はどうなのかしら」
「それは、なんとも。ですが、三倉家も神蔵家の血を少なからず引いております。警戒するに越したことはないかと」
紫玄の言うとおり、三倉家も、元々は神蔵家の分家だ。
相手が何を理由に神蔵家を敵視しているのか分からない以上、気を抜くべきではない。
すると、紫玄と古蘭が、私のほうへ同時に振り返る。
「ご安心ください、三倉殿。我らが命を賭けて、貴方をお守りします」
「有事の際は、兄様と私が必ず食い止めます! わたくしどもも、付喪神の端くれですから」
「ええ、ありがとう。頼りにしているわ」
二人の気遣いを嬉しく感じていた、その時だった。
風に揺れていた生垣が急に、ザアアア……と大きな音を立てる。
ワンピースのスカートがひるがえるほどの強い突風が、ひゅうっと私たちの隙間を駆け抜ける。
慌ててスカートを押さえようと、周囲への警戒をゆるめた、その瞬間。
《――我が主》
風の音に紛れて、掠れた男の声が聞こえた。
声がするだけなら、想定内。
ただ——想定以上に、発生源が近かった。
(――後ろ!?)
すぐ背後から、氷のように冷たい気配が這い寄ってくる。
振り向いた時には既に――私の肩に、手甲に覆われた無骨な手が触れていた。
《我が主、よ》
ぞっ! と私の背筋を、冷たい震えが這い上がる。
青白い光に包まれた鎧姿の大男が、私の視界を覆い尽くした。
「三倉殿!」
「珠希様!」
ほんの一瞬、呆然としていた私の意識を、二人の呼び声が引き戻す。
次の瞬間には、二人が私と落武者を引き離そうと動いていた。
紫玄の十手が、私に触れていた落武者の手首を打ち据える。
古蘭は私の肩を抱くように引き寄せ、数歩後ろへ飛び退いた。
「何用だっ! この方に触れることは断じて許さぬ!」
紫玄が十手の先を落武者へと向け、威嚇する。
すると、落武者は腰に差していた太刀をすらりと引き抜き、軽く前傾したかと思うと——目にも留まらぬ速さで距離を詰めてきた。
(速い……!)
全身に重い甲冑をまとっているとは思えないほど、身のこなしが素早い。
どころか、甲冑がカチャカチャ動く音すら、ほとんど聞こえない。
「ぐっ!」
落武者の太刀を、紫玄が十手で受け流した瞬間、けたたましい金属音と共に火花が散った。
紫玄は押し切られないよう、自分の体を盾にしながら、落武者の猛攻を受け流し続ける。
「兄様!」
「っ、古蘭! 容赦するな!」
紫玄は十手を返し、落武者の太刀を絡め取る。
その隙に、古蘭が横合いから踏み込み、鉄扇で落武者の首を薙ぎ払った。
演武を見ているような、二人の鮮やかな連携。
けれど、落武者は首をほんの僅かに傾けるだけで、鉄扇をあっさり避けた。
さらに一歩踏み込んだ落武者に押される形で、紫玄の体が後ろへと流される。
(善とはまるで違う……)
素人目でも分かる――今のは明らかに、体の使い方を熟知している者の動きだ。
圧倒的な身体能力で押し切るのではなく、研鑽された技術で翻弄するような。
善の豪快な喧嘩殺法とはまた異なる、熟達した武人のような強さ。
「古蘭!」
「はい!」
二人が息を合わせ、再び左右から挟み込む。
紫玄の十手が刀を捕らえ、古蘭の鉄扇が死角から迫る。
落武者は十手を受け流し、鉄扇を最小限の動きでいなし続ける。
けれど――落武者の視線は、交戦中もずっと、私の姿を捉えていた。
「っ、こちらを見なさいっ!」
古蘭もそれに気づいたのだろう。
あえて声を上げ、相手の注意を自分のほうへ引きつけようとしていた。
鉄扇を翻し、舞うように落武者の側面へ回り込むけれど――落武者は振り向きもせずに、刀の柄頭で古蘭の手首を軽く払った。
「くうっ……!」
鉄扇が押し返され、古蘭の身体がたたらを踏む。
(まずい、二人の攻撃が全部無効化されてる……!)
二人は、目の前の落武者に全力で応戦している。
それなのに落武者は、二人を相手にしながら、さらに私を狙い続けている。
まるで、蜜蜂の猛攻をものともせず、巣を狙い続ける熊のようだ。
「私は三倉家の骨董守よ! 神蔵家とは関係ないわ!」
私は少しずつ距離を取りながら叫んだ。
けれど、落武者は紫玄を押し返し、古蘭の鉄扇を弾きながら、なおもこちらへ歩みを止めない。
「っ、三倉殿! ここは我らに任せて、お逃げくだされ!」
「この者は珠希様を狙っています! 今のうちに逃げて!」
紫玄と古蘭も、圧倒的な実力差に危機感を覚えたのだろう。
敵の行く手を阻むように立ちはだかり、私に逃げるよう促していた。
《……主、よ……我が主よ……!》
また、落武者の呻くような声が聞こえた。
私は思わずハッと息を呑む。
(まさかこいつ、私を主人だと思っているの!? 二人には、声が聞こえていないの?)
これまで入手していた情報とは明らかに異なる動きに、二人が反応を示さないはずがない。
だとしたら、これは私だけに聞こえる、物の声だ。
「珠希様、逃げて……! もう、抑え込めません!」
私が考えている間にも、二人は落武者に少しずつ押されていた。
しかも、落武者はまだ余力を残している。
このままでは、二人が壊されてしまう。
(……仕方ない)
私は懐から手鏡を取り出し、
「二人とも、目を隠しなさい!」
と叫んだ。
唐突な指示に驚きながらも、二人はすぐさま腕で目元を覆う。
私は鏡を高く掲げた。
「アリエッタ! お願い!」
瞬間、鏡面が夜闇を裂くように、まばゆい閃光を放った。
突然の目くらましに、落武者が顔を背けて怯む。
その隙に、手鏡の中から、何本もの白い腕がするりと伸びてきた。
「きゃ……!?」
「なっ、これは……!?」
白い腕は、紫玄と古蘭、そして私の身体を優しく抱き寄せる。
次の瞬間、私たち三人は周囲の景色ごと、鏡の中へ吸い込まれていく。
歪んでいく視界の向こうで、落武者が私に向かってなおも手を伸ばしていた。
《主よ、待っ……!》
最後に聞こえた落武者の声が、私の胸にツンと刺さった。
露店はすっかり畳まれ、人通りもほとんどない。
みんな、落武者と遭遇しないよう警戒しているのだろう。
通りを行く僅かな人たちも、自分だけは取り残されたくないというように、家路を急いでいた。
「……そろそろですね」
紫玄が辺りを見回しながら呟く。
ここからは聞き込みではなく、待つ時間だ。
落武者が出現したら、相手に気づかれないよう、行動を観察してみる。
「乾物屋さんで聞いたお話では、この辺りで声がしたんだったわね」
「はい。念のため、このあたりの物陰に隠れていましょう」
紫玄の意見に従い、私たちは人目につかない路地へ身を寄せた。
繁華街から離れた住宅街とはいえ、帝都とは思えないほど辺りは静かだ。
風が生垣をさわさわと揺らす音だけが聞こえる。
「神蔵家の骨董守は積極的に襲ってくるらしいけれど、三倉家である私はどうなのかしら」
「それは、なんとも。ですが、三倉家も神蔵家の血を少なからず引いております。警戒するに越したことはないかと」
紫玄の言うとおり、三倉家も、元々は神蔵家の分家だ。
相手が何を理由に神蔵家を敵視しているのか分からない以上、気を抜くべきではない。
すると、紫玄と古蘭が、私のほうへ同時に振り返る。
「ご安心ください、三倉殿。我らが命を賭けて、貴方をお守りします」
「有事の際は、兄様と私が必ず食い止めます! わたくしどもも、付喪神の端くれですから」
「ええ、ありがとう。頼りにしているわ」
二人の気遣いを嬉しく感じていた、その時だった。
風に揺れていた生垣が急に、ザアアア……と大きな音を立てる。
ワンピースのスカートがひるがえるほどの強い突風が、ひゅうっと私たちの隙間を駆け抜ける。
慌ててスカートを押さえようと、周囲への警戒をゆるめた、その瞬間。
《――我が主》
風の音に紛れて、掠れた男の声が聞こえた。
声がするだけなら、想定内。
ただ——想定以上に、発生源が近かった。
(――後ろ!?)
すぐ背後から、氷のように冷たい気配が這い寄ってくる。
振り向いた時には既に――私の肩に、手甲に覆われた無骨な手が触れていた。
《我が主、よ》
ぞっ! と私の背筋を、冷たい震えが這い上がる。
青白い光に包まれた鎧姿の大男が、私の視界を覆い尽くした。
「三倉殿!」
「珠希様!」
ほんの一瞬、呆然としていた私の意識を、二人の呼び声が引き戻す。
次の瞬間には、二人が私と落武者を引き離そうと動いていた。
紫玄の十手が、私に触れていた落武者の手首を打ち据える。
古蘭は私の肩を抱くように引き寄せ、数歩後ろへ飛び退いた。
「何用だっ! この方に触れることは断じて許さぬ!」
紫玄が十手の先を落武者へと向け、威嚇する。
すると、落武者は腰に差していた太刀をすらりと引き抜き、軽く前傾したかと思うと——目にも留まらぬ速さで距離を詰めてきた。
(速い……!)
全身に重い甲冑をまとっているとは思えないほど、身のこなしが素早い。
どころか、甲冑がカチャカチャ動く音すら、ほとんど聞こえない。
「ぐっ!」
落武者の太刀を、紫玄が十手で受け流した瞬間、けたたましい金属音と共に火花が散った。
紫玄は押し切られないよう、自分の体を盾にしながら、落武者の猛攻を受け流し続ける。
「兄様!」
「っ、古蘭! 容赦するな!」
紫玄は十手を返し、落武者の太刀を絡め取る。
その隙に、古蘭が横合いから踏み込み、鉄扇で落武者の首を薙ぎ払った。
演武を見ているような、二人の鮮やかな連携。
けれど、落武者は首をほんの僅かに傾けるだけで、鉄扇をあっさり避けた。
さらに一歩踏み込んだ落武者に押される形で、紫玄の体が後ろへと流される。
(善とはまるで違う……)
素人目でも分かる――今のは明らかに、体の使い方を熟知している者の動きだ。
圧倒的な身体能力で押し切るのではなく、研鑽された技術で翻弄するような。
善の豪快な喧嘩殺法とはまた異なる、熟達した武人のような強さ。
「古蘭!」
「はい!」
二人が息を合わせ、再び左右から挟み込む。
紫玄の十手が刀を捕らえ、古蘭の鉄扇が死角から迫る。
落武者は十手を受け流し、鉄扇を最小限の動きでいなし続ける。
けれど――落武者の視線は、交戦中もずっと、私の姿を捉えていた。
「っ、こちらを見なさいっ!」
古蘭もそれに気づいたのだろう。
あえて声を上げ、相手の注意を自分のほうへ引きつけようとしていた。
鉄扇を翻し、舞うように落武者の側面へ回り込むけれど――落武者は振り向きもせずに、刀の柄頭で古蘭の手首を軽く払った。
「くうっ……!」
鉄扇が押し返され、古蘭の身体がたたらを踏む。
(まずい、二人の攻撃が全部無効化されてる……!)
二人は、目の前の落武者に全力で応戦している。
それなのに落武者は、二人を相手にしながら、さらに私を狙い続けている。
まるで、蜜蜂の猛攻をものともせず、巣を狙い続ける熊のようだ。
「私は三倉家の骨董守よ! 神蔵家とは関係ないわ!」
私は少しずつ距離を取りながら叫んだ。
けれど、落武者は紫玄を押し返し、古蘭の鉄扇を弾きながら、なおもこちらへ歩みを止めない。
「っ、三倉殿! ここは我らに任せて、お逃げくだされ!」
「この者は珠希様を狙っています! 今のうちに逃げて!」
紫玄と古蘭も、圧倒的な実力差に危機感を覚えたのだろう。
敵の行く手を阻むように立ちはだかり、私に逃げるよう促していた。
《……主、よ……我が主よ……!》
また、落武者の呻くような声が聞こえた。
私は思わずハッと息を呑む。
(まさかこいつ、私を主人だと思っているの!? 二人には、声が聞こえていないの?)
これまで入手していた情報とは明らかに異なる動きに、二人が反応を示さないはずがない。
だとしたら、これは私だけに聞こえる、物の声だ。
「珠希様、逃げて……! もう、抑え込めません!」
私が考えている間にも、二人は落武者に少しずつ押されていた。
しかも、落武者はまだ余力を残している。
このままでは、二人が壊されてしまう。
(……仕方ない)
私は懐から手鏡を取り出し、
「二人とも、目を隠しなさい!」
と叫んだ。
唐突な指示に驚きながらも、二人はすぐさま腕で目元を覆う。
私は鏡を高く掲げた。
「アリエッタ! お願い!」
瞬間、鏡面が夜闇を裂くように、まばゆい閃光を放った。
突然の目くらましに、落武者が顔を背けて怯む。
その隙に、手鏡の中から、何本もの白い腕がするりと伸びてきた。
「きゃ……!?」
「なっ、これは……!?」
白い腕は、紫玄と古蘭、そして私の身体を優しく抱き寄せる。
次の瞬間、私たち三人は周囲の景色ごと、鏡の中へ吸い込まれていく。
歪んでいく視界の向こうで、落武者が私に向かってなおも手を伸ばしていた。
《主よ、待っ……!》
最後に聞こえた落武者の声が、私の胸にツンと刺さった。

