鈍い音とともに、拳が頬へ叩き込まれた。
口の中で血の味がしたかと思うと、続けざまに腹へ蹴りを入れられ、俺の身体は畳の上を転がった。
「罪人の分際で、随分と偉そうだったな。煙羅」
頭上から、苛立ちを含んだ男の声が降ってくる。
会合を終えてから、俺は二人の骨董守に連れられ、封じの間と銘打たれた座敷牢へ押し込められた。
両手は御札の巻かれた縄で拘束されたまま。
本体である煙管も、既に珠希の手から取り上げられて封じられている。
つまり今の俺は、好きに扱ってくださいと言わんばかりの格好だった。
「ユエ子様にあのような口を利くとは……三十年も人間社会に紛れているうちに、自分の立場も忘れたか」
「カカ。元からあんな感じだよ。今さら畏まって喋るような相手じゃねェからな」
この骨董守たちは、俺が広間でユエ子を煽ったのがいたく気に食わなかったらしいが、おそらく建前だろう。
ユエ子は案外、形だけの礼節は求めない。
与えられた役目を果たす——その用件さえ満たしていれば、ユエ子はあらかた目を瞑っていた。
「凡人はきちんとお行儀よくしてなきゃ、簡単に首が飛ぶもんな。ご苦労様なこって」
「っ黙れ、下手人が!」
脇腹めがけて蹴りが飛んでくる。
……が、足袋を履いた足で力いっぱい蹴られたところで、俺は頑丈な鉄の煙管だから、別に痛くも痒くもない。
むしろ、俺を蹴った相手のほうが、軽く呻いていた。
「おーい、大丈夫かァ? あんまりやると、手足が逝っちまうぞ」
「……この付喪神殺しめ」
吐き捨てるような声とともに、今度は頭を踏みつけられる。
もう一人の骨董守が、不愉快そうに俺を睨む。
「へいへい。で、殴る蹴るをやめたってことは、気は済んだってことでいいのかィ?」
俺は畳の上に転がったまま、口の端を吊り上げた。
もう一発くらいは来るかと思ったが、二人は忌々しそうに俺を睨みつけるだけで、それ以上は手を出してこなかった。
「そこで大人しくしていろ。下手な真似をすれば、今度こそただでは済まさんぞ」
「へェい」
頑丈な木組みの格子戸が閉まり、錠が掛けられる。
二人分の足音が聞こえなくなったところで、俺は畳の上に転がったまま、小さく息を吐いた。
「……ったく」
神蔵家にいた頃から、付喪神を雑に扱う骨董守がいなかったわけではない。
神蔵家は多数の骨董守を抱える巨大な組織。
どれだけ上が規律に厳しかろうと、それが末端まで浸透しているとは限らない。
人間に逆らえないのをいいことに、付喪神を憂さ晴らしの道具にするような馬鹿も、昔から少なからずいた。
(罪人が相手じゃァ、さすがに露骨だな)
三十年前、神蔵家が管理していた刀の付喪神を大量に破壊した男。
そんな奴を少しくらい痛めつけたところで、誰も文句は言わない――あの二人はそう考えたのだろう。
(……しかしまァ、趣味の悪ィ部屋だ)
廊下に繋がる襖には、ユエ子お手製の御札が全面に貼られていて、なんとも気味が悪い。
格子の外には、仰々しいあつらえの黒漆の箱が置かれていて、その中には俺の本体――鉄の煙管が厳重に封じられていた。
俺は試しに、中の本体へ意識を伸ばしてみる。
「っぐ……!」
途端、身体の内側を焼かれるような痛みが走った。
たまらず接続を切ると、痛みもすぐに消えた。
「……こっちのほうが殴られるよりよっぽど痛ェな」
両手の拘束に、丈夫な檻に、部屋そのものを覆う封印。
そして、本体の隔離。
どれか一つでも欠けていたなら、無理に突破することも考えただろう。
だが、さすがはユエ子というべきか。
あの女は、煙羅という付喪神をよく知っている。
力任せに突破する気すら失せる程度には、念入りな封じ方だった。
(三十年前に押し込められた時も、こんな有様だったっけなァ)
嫌な記憶が蘇りかけて、俺は意識して思考を逸らす。
――代わりに浮かんできたのは、またしても珠希の顔だった。
(……ったく。昨日まで四六時中そばにいたせいかねェ)
珠希の気配がまったくない。
ただそれだけで、こうも落ち着かなくなるとは。
いつの間にか、珠希のいる日常がすっかり当たり前になっていたようだ。
騒がしくない、ただ薄暗いだけの空間で物思いに耽るのは、ずいぶん久しい。
珠希が茶を用意する音も、壱丸の明るい声も、モノダマたちの騒がしい足音もしない。
(あー……せめて珠希の茶が飲みてェ……)
不意にそんなことを思って、俺は自分で少し面食らった。
食欲が湧かない、喉が渇くことさえないはずの体が、なぜこうも無性に、珠希の茶を欲しているのだろう。
俺はただ、主人の珠希が無事かどうかを気にしていただけなのに。
ふとした違和感に首を傾げていた、その時だった。
——廊下の向こうから、微かな足音が聞こえてきた。
足音は一定の間隔で、迷いなくこちらへ近づいてくると、やがて座敷牢の前でぴたりと止まった。
「よォ、紫玄」
開いた襖の向こうから、紫玄のしかめっ面が現れる。
紫玄は格子の前まで歩み寄り、俺の顔を間近で見たところで、目を少し見開いた。
「その顔は……」
「ン?」
言われて、先ほど殴られた頬が少し腫れているのに気づく。
「あァ、これか。俺をここまで連れてきた連中に、ちょいと可愛がられてな」
「何?」
「ユエ子様への無礼がどうとか、神蔵家の付喪神を壊した罪人がどうとか。まァ、言ってること自体は間違っちゃいねェからいいんだが」
「誰だ、それは」
紫玄は厳しい表情で、腹の底に響くような低い声で問い詰めてくる。
「さァ? 名前までは知らねェな」
「顔くらい覚えているでしょう。ならば特徴を――」
「おいおい、そんな怖ェ顔すんなよ。人間に何発か殴られたくらいで、俺がどうにかなると思うか?」
「そういう問題ではない!」
紫玄が声を荒らげた。
座敷牢に響いた声に、俺は「おお」と目を丸くする。
「罪人であろうと、拘束された者へ私刑を加えることなど、神蔵家では認められていない! ましてユエ子様が、付喪神に対する暴挙をお許しになるはずがない!」
「ふうん」
紫玄は本気で腹を立てていた。
元から生真面目だというのもあるが、曲がったことが大嫌いな正義漢だからこそ、余計に許せないのだろう。
規範に背いた行為だから、というより、もっと個人的な感覚で怒っていた。
「そうかィ。なら、まだ安心だな」
「何がです」
「んにゃ、俺にこんな真似する馬鹿がいるなら、珠希にも妙なちょっかい出す奴がいてもおかしくねェな、って思ったからよ。ユエ子やお前が許さないってんなら、少なくとも珠希の安全は保証されるだろ?」
珠希を色眼鏡で見る連中は、少なからずいる。
なにせ、長年行方知れずだったくせに、突然帰ってきた正統な跡取りだ。
少し前まで、遊女に身をやつしていたことも露見している。
罪人の煙羅を従えているという点で、気に食わないと感じる者もいるだろう。
珠希はこんな奴らに泣かされるほど弱くはないが、自衛には限界があるものだ。
「上がどれだけ目を光らせていたとしても、陰に隠れて羽目を外す小物は出てくるモンだ。三十年も経ってりゃ、神蔵家も色々変化がありそうだなと思ってよ」
「三倉殿は客人です。客人に危害を加えるなど、断じて許されません。離れには古蘭がおりますし、何かあれば、すぐにそれがしにも報せが来るでしょう」
「そうかィ」
紫玄がそう言い切ってくれるなら、安心材料は増える。
万が一珠希に何かがあっても、どうにかしろと訴えられる先があるということだ。
「……本当に、不思議な方だ」
紫玄が俺を睨みながら零す。
心の底から理解できない、とばかりの訝しげな表情だった。
「自分より他人を優先する貴方が、なぜ羅煌様たちを破壊したのです」
俺は黙った。
理由など、話すつもりはない。
だから、代わりにいつものように
「カカ」
と笑った。
紫玄の眉間に、深い皺が刻まれた。
「貴方はいつもそうだ」
押し殺していたものが滲み出すように、紫玄の声が震え出した。
「自分にとって都合が悪くなると、そうやって笑ってはぐらかす。肝心なことは何一つ言わないまま、こちらが勝手に諦めるのを待つ。三十年前もそうだった……!」
格子を握る紫玄の手に、力が籠もった。
「『腹が立ったから、みんな壊してしまった』――そう言って笑って、それきりだった! 羅煌様たちと何があったのか、何一つ説明しなかった!」
「なんだィ、まだ引きずってたのかよ」
何があったのか——今更そんなことを話してどうするというのだ。
状況がいい方に転がるならもちろん言うが、それはありえないと分かっているから、俺は口を閉ざしているのだ。
「ンなことより、紫玄。怪異の調査中、うちのお姫さんを護衛するのは誰だィ?」
追及が面倒なので、話題を無理やり変える。
すると、紫玄はさらに不快そうに眉根を寄せた。
「それがしと古蘭です」
「そうか、しっかり頼むぜ」
その一言さえムカつく、と言いたげな紫玄の視線。
それを俺は、まっすぐに睨み返した。
「万が一、珠希に何かあったら、まずはお前の古蘭からへし折るぞ」
「——っ!」
あえて低く落とした声で言えば、紫玄は肩を僅かに揺らした。
無論、こいつの妹——古蘭に恨みはない。
むしろ、俺もまだ可愛いと思っているくらいだ。
しかし、この二人がヘマをして、珠希が命を落とすようなことだけはあってはならない。
それを防ぐために必要な脅しだ。
「巻き込まれただけのあの女は、何がなんでも守れ。自分が折れてでも、だ」
「……っ!」
紫玄は何かを言いたそうに口を動かしていたが、やがて喉仏を上下させてから、こくりと頷いた。
「……承知しました」
それ以上、紫玄は俺を追及しなかった。
踵を返し、そのまま座敷牢を出ていく。
しかし、襖を閉める直前に
「……その傷の件は、ユエ子様に報告します」
とだけ言い残して、去っていった。
再び静寂が訪れた座敷牢で、俺は格子へ体を預けつつ、目を閉じた。
(頼むから、俺のせいで死なないでくれよ。珠希……)
一章 骨董姫と神蔵家の当主・了
口の中で血の味がしたかと思うと、続けざまに腹へ蹴りを入れられ、俺の身体は畳の上を転がった。
「罪人の分際で、随分と偉そうだったな。煙羅」
頭上から、苛立ちを含んだ男の声が降ってくる。
会合を終えてから、俺は二人の骨董守に連れられ、封じの間と銘打たれた座敷牢へ押し込められた。
両手は御札の巻かれた縄で拘束されたまま。
本体である煙管も、既に珠希の手から取り上げられて封じられている。
つまり今の俺は、好きに扱ってくださいと言わんばかりの格好だった。
「ユエ子様にあのような口を利くとは……三十年も人間社会に紛れているうちに、自分の立場も忘れたか」
「カカ。元からあんな感じだよ。今さら畏まって喋るような相手じゃねェからな」
この骨董守たちは、俺が広間でユエ子を煽ったのがいたく気に食わなかったらしいが、おそらく建前だろう。
ユエ子は案外、形だけの礼節は求めない。
与えられた役目を果たす——その用件さえ満たしていれば、ユエ子はあらかた目を瞑っていた。
「凡人はきちんとお行儀よくしてなきゃ、簡単に首が飛ぶもんな。ご苦労様なこって」
「っ黙れ、下手人が!」
脇腹めがけて蹴りが飛んでくる。
……が、足袋を履いた足で力いっぱい蹴られたところで、俺は頑丈な鉄の煙管だから、別に痛くも痒くもない。
むしろ、俺を蹴った相手のほうが、軽く呻いていた。
「おーい、大丈夫かァ? あんまりやると、手足が逝っちまうぞ」
「……この付喪神殺しめ」
吐き捨てるような声とともに、今度は頭を踏みつけられる。
もう一人の骨董守が、不愉快そうに俺を睨む。
「へいへい。で、殴る蹴るをやめたってことは、気は済んだってことでいいのかィ?」
俺は畳の上に転がったまま、口の端を吊り上げた。
もう一発くらいは来るかと思ったが、二人は忌々しそうに俺を睨みつけるだけで、それ以上は手を出してこなかった。
「そこで大人しくしていろ。下手な真似をすれば、今度こそただでは済まさんぞ」
「へェい」
頑丈な木組みの格子戸が閉まり、錠が掛けられる。
二人分の足音が聞こえなくなったところで、俺は畳の上に転がったまま、小さく息を吐いた。
「……ったく」
神蔵家にいた頃から、付喪神を雑に扱う骨董守がいなかったわけではない。
神蔵家は多数の骨董守を抱える巨大な組織。
どれだけ上が規律に厳しかろうと、それが末端まで浸透しているとは限らない。
人間に逆らえないのをいいことに、付喪神を憂さ晴らしの道具にするような馬鹿も、昔から少なからずいた。
(罪人が相手じゃァ、さすがに露骨だな)
三十年前、神蔵家が管理していた刀の付喪神を大量に破壊した男。
そんな奴を少しくらい痛めつけたところで、誰も文句は言わない――あの二人はそう考えたのだろう。
(……しかしまァ、趣味の悪ィ部屋だ)
廊下に繋がる襖には、ユエ子お手製の御札が全面に貼られていて、なんとも気味が悪い。
格子の外には、仰々しいあつらえの黒漆の箱が置かれていて、その中には俺の本体――鉄の煙管が厳重に封じられていた。
俺は試しに、中の本体へ意識を伸ばしてみる。
「っぐ……!」
途端、身体の内側を焼かれるような痛みが走った。
たまらず接続を切ると、痛みもすぐに消えた。
「……こっちのほうが殴られるよりよっぽど痛ェな」
両手の拘束に、丈夫な檻に、部屋そのものを覆う封印。
そして、本体の隔離。
どれか一つでも欠けていたなら、無理に突破することも考えただろう。
だが、さすがはユエ子というべきか。
あの女は、煙羅という付喪神をよく知っている。
力任せに突破する気すら失せる程度には、念入りな封じ方だった。
(三十年前に押し込められた時も、こんな有様だったっけなァ)
嫌な記憶が蘇りかけて、俺は意識して思考を逸らす。
――代わりに浮かんできたのは、またしても珠希の顔だった。
(……ったく。昨日まで四六時中そばにいたせいかねェ)
珠希の気配がまったくない。
ただそれだけで、こうも落ち着かなくなるとは。
いつの間にか、珠希のいる日常がすっかり当たり前になっていたようだ。
騒がしくない、ただ薄暗いだけの空間で物思いに耽るのは、ずいぶん久しい。
珠希が茶を用意する音も、壱丸の明るい声も、モノダマたちの騒がしい足音もしない。
(あー……せめて珠希の茶が飲みてェ……)
不意にそんなことを思って、俺は自分で少し面食らった。
食欲が湧かない、喉が渇くことさえないはずの体が、なぜこうも無性に、珠希の茶を欲しているのだろう。
俺はただ、主人の珠希が無事かどうかを気にしていただけなのに。
ふとした違和感に首を傾げていた、その時だった。
——廊下の向こうから、微かな足音が聞こえてきた。
足音は一定の間隔で、迷いなくこちらへ近づいてくると、やがて座敷牢の前でぴたりと止まった。
「よォ、紫玄」
開いた襖の向こうから、紫玄のしかめっ面が現れる。
紫玄は格子の前まで歩み寄り、俺の顔を間近で見たところで、目を少し見開いた。
「その顔は……」
「ン?」
言われて、先ほど殴られた頬が少し腫れているのに気づく。
「あァ、これか。俺をここまで連れてきた連中に、ちょいと可愛がられてな」
「何?」
「ユエ子様への無礼がどうとか、神蔵家の付喪神を壊した罪人がどうとか。まァ、言ってること自体は間違っちゃいねェからいいんだが」
「誰だ、それは」
紫玄は厳しい表情で、腹の底に響くような低い声で問い詰めてくる。
「さァ? 名前までは知らねェな」
「顔くらい覚えているでしょう。ならば特徴を――」
「おいおい、そんな怖ェ顔すんなよ。人間に何発か殴られたくらいで、俺がどうにかなると思うか?」
「そういう問題ではない!」
紫玄が声を荒らげた。
座敷牢に響いた声に、俺は「おお」と目を丸くする。
「罪人であろうと、拘束された者へ私刑を加えることなど、神蔵家では認められていない! ましてユエ子様が、付喪神に対する暴挙をお許しになるはずがない!」
「ふうん」
紫玄は本気で腹を立てていた。
元から生真面目だというのもあるが、曲がったことが大嫌いな正義漢だからこそ、余計に許せないのだろう。
規範に背いた行為だから、というより、もっと個人的な感覚で怒っていた。
「そうかィ。なら、まだ安心だな」
「何がです」
「んにゃ、俺にこんな真似する馬鹿がいるなら、珠希にも妙なちょっかい出す奴がいてもおかしくねェな、って思ったからよ。ユエ子やお前が許さないってんなら、少なくとも珠希の安全は保証されるだろ?」
珠希を色眼鏡で見る連中は、少なからずいる。
なにせ、長年行方知れずだったくせに、突然帰ってきた正統な跡取りだ。
少し前まで、遊女に身をやつしていたことも露見している。
罪人の煙羅を従えているという点で、気に食わないと感じる者もいるだろう。
珠希はこんな奴らに泣かされるほど弱くはないが、自衛には限界があるものだ。
「上がどれだけ目を光らせていたとしても、陰に隠れて羽目を外す小物は出てくるモンだ。三十年も経ってりゃ、神蔵家も色々変化がありそうだなと思ってよ」
「三倉殿は客人です。客人に危害を加えるなど、断じて許されません。離れには古蘭がおりますし、何かあれば、すぐにそれがしにも報せが来るでしょう」
「そうかィ」
紫玄がそう言い切ってくれるなら、安心材料は増える。
万が一珠希に何かがあっても、どうにかしろと訴えられる先があるということだ。
「……本当に、不思議な方だ」
紫玄が俺を睨みながら零す。
心の底から理解できない、とばかりの訝しげな表情だった。
「自分より他人を優先する貴方が、なぜ羅煌様たちを破壊したのです」
俺は黙った。
理由など、話すつもりはない。
だから、代わりにいつものように
「カカ」
と笑った。
紫玄の眉間に、深い皺が刻まれた。
「貴方はいつもそうだ」
押し殺していたものが滲み出すように、紫玄の声が震え出した。
「自分にとって都合が悪くなると、そうやって笑ってはぐらかす。肝心なことは何一つ言わないまま、こちらが勝手に諦めるのを待つ。三十年前もそうだった……!」
格子を握る紫玄の手に、力が籠もった。
「『腹が立ったから、みんな壊してしまった』――そう言って笑って、それきりだった! 羅煌様たちと何があったのか、何一つ説明しなかった!」
「なんだィ、まだ引きずってたのかよ」
何があったのか——今更そんなことを話してどうするというのだ。
状況がいい方に転がるならもちろん言うが、それはありえないと分かっているから、俺は口を閉ざしているのだ。
「ンなことより、紫玄。怪異の調査中、うちのお姫さんを護衛するのは誰だィ?」
追及が面倒なので、話題を無理やり変える。
すると、紫玄はさらに不快そうに眉根を寄せた。
「それがしと古蘭です」
「そうか、しっかり頼むぜ」
その一言さえムカつく、と言いたげな紫玄の視線。
それを俺は、まっすぐに睨み返した。
「万が一、珠希に何かあったら、まずはお前の古蘭からへし折るぞ」
「——っ!」
あえて低く落とした声で言えば、紫玄は肩を僅かに揺らした。
無論、こいつの妹——古蘭に恨みはない。
むしろ、俺もまだ可愛いと思っているくらいだ。
しかし、この二人がヘマをして、珠希が命を落とすようなことだけはあってはならない。
それを防ぐために必要な脅しだ。
「巻き込まれただけのあの女は、何がなんでも守れ。自分が折れてでも、だ」
「……っ!」
紫玄は何かを言いたそうに口を動かしていたが、やがて喉仏を上下させてから、こくりと頷いた。
「……承知しました」
それ以上、紫玄は俺を追及しなかった。
踵を返し、そのまま座敷牢を出ていく。
しかし、襖を閉める直前に
「……その傷の件は、ユエ子様に報告します」
とだけ言い残して、去っていった。
再び静寂が訪れた座敷牢で、俺は格子へ体を預けつつ、目を閉じた。
(頼むから、俺のせいで死なないでくれよ。珠希……)
一章 骨董姫と神蔵家の当主・了

