濃紺だった空の向こうが、だんだん赤みを帯びてきた頃――百丸様は布団の中でぐったり脱力していた。
うつ伏せになった彼の表情は見えないけれど、髪の毛の隙間から見える耳は赤くなっている。
「容赦がねェぜ……とんだ声で鳴かされちまった……」
「私は楽しかったわ。貴方みたいにノリ心地のいい男は好きよ」
「そいつを言うなら『ノリのいい男』だろうがよ」
おっかねェ女だ……と呟く百丸様。
あられもない姿を私に晒してしまったのが、よほど恥ずかしかったらしい。
彼の声には、ほんのひとつまみの恨みがこもっていた。
「的確に性癖をついてくるアンタの手腕が怖ェよ……花魁に上り詰めただけあるぜ……」
「料金に見合う接待だったでしょう?」
「まァな」
そう言って、百丸様はむくりと身を起こした。
襦袢の隙間から覗く筋肉は、ただの商人のものとは思えないほどしっかりしている。
例えばそう……軍人と言われても、信じてしまいそうなほど。
(この人、本当に何者なのかしら)
少なくとも、商人以外にもう一つ、別の顔を持っていることは間違いない。
裏稼業に通じている可能性も、考えられなくはない。
無論、それならそれで、愛人にでもなって上手く利用するつもりだけど。
「なァに人の体ァじろじろ見てんだィ。助平ちゃんか?」
「あら、ごめんなさい。ぼうっとしちゃって」
「なんでェ、まァた呆けてたのかィ」
百丸様の無骨な手がするりと伸びてきて、私の髪を梳くように撫でた。
その手に、嫌な感じはしない。
「ちったァ悩んでくれてンのかィ?」
「ええ、そうね。私が今まで逢った客の中で、貴方は一番のお金持ちだし」
「カカカッ! そいつァ結構。商人にとっちゃァ一番の褒め言葉だ」
実際、大金持ちに身請けされることは、すべての遊女の悲願だ。
このちとせ楼に売られて以来、私はずっとその光を追い求めてきた。
どんな客にも笑顔を崩さず、理想の女を演じた。
いつか外の空気を吸えると信じて、底冷えするような夜をいくつも越えながら、夢を売り続けた。
それなのに。
(いざ目の前に好機が訪れると、こうも恐ろしくなるのね)
期待を裏切られる苦渋を何度も味わってきたからだろう。
彼を信じたい無垢な心と、経験から来る防衛本能が、私の中で激しくせめぎ合っている。
「ま、今すぐ決める必要はねェよ。デカい賭けを持ちかけられてんだ、悩むのも当たり前さね。ただ……」
百丸様は一度言葉を切ると、下ろした私の髪をひと房手にして、唇を寄せた。
そして、顔を上げて、まっすぐな視線で私を射貫いてくる。
「何度でも言うが、俺ァ本気だ。惚れた女の一生を預かるからには、後悔なんざァさせねェ」
軽薄な笑顔を消した彼の目は、朝日のせいか朱色に染まっているように見えた。
その色鮮やかさに、不覚にも心臓が跳ねてしまった。
*
朝日に照らされた帰り道を、土産酒をぶら提げた百丸様が歩いて行く。
その背中を二階から見送っていると、
「そうだ、アンタにひとつ忠告しとかねェと」
と、彼が何かを思い出したように、私を振り返って言った。
「アンタの馴染み客に、酒屋の柿本虎次って野郎がいただろ。そいつにゃ警戒した方がいい」
柿本虎次はちとせ楼に酒を卸している酒屋の道楽息子で、私に貢いでいた元・馴染み客の一人だ。
最初こそほどほどに金を使っていた柿本は、百丸様が通うようになってからやたらと彼を敵視し、
その日その日の所持金を全て突っ込み始めた。
が、豪商相手にそんな張り合いは続かず、だんだんツケ払いを要求するようになって、
最後は親にも借金がバレて激怒されたのだと聞いている。
「知り合いから聞いたンだが、奴は最近、賭場で大負けしたらしい。
しかも元手が実家の酒屋の稼ぎを横領した金だってんで、とうとう父親から勘当されたんだとよ」
「あらま、絵に描いたような転落ぶりね」
当初は金払いのいい客だからと表に出さずにいたが、私は正直、柿本のことが迷惑で仕方がなかった。
自分の親が取引相手なのをいいことに、横柄な態度を取り、口を開けばくだらない自慢話ばかり。
ここでの恋愛ごっこも本気にしだして、私に拙い恋文を何度も渡してくるし、
まだ客を取っていない新造に悪さをしようとしたこともある。
挙げ句の果てには、ちとせ楼に忍び込んでまで私に逢おうとしてきたので、
見かねた楼主がつい先日、出禁を言い渡したところだ。
「あの男なら、もうここには来れないと思うけれど」
「失うモンもなくした奴ァ何だってするさ。アンタ自身、それはよく分かってるだろう?」
「いやね、自業自得で転落した奴と一緒にしないでちょうだい」
「悪かったよ。だが、用心するに越したこたァねェ」
「確かにね。……忠告、心に留めておくわ」
私は百丸様に手を振り、笑顔で見送った。
軽く手を振り返す彼を見て、私はまた、思い悩む。
――百丸善一。
富も地位も、名誉もある男。
けれど、その素性は煙のように掴みどころがない。
そんな男に運命を預けるだなんて、冷静に考えれば、あまりに危うい話だ。
それでも賭けてみたいと思ってしまうのは、どうしてだろう。
(私になら秘密を預けてもいい、ね……。ずいぶん魅力的な誘い文句だわ)
もし、この男の言葉が本気なら。
もし、あの『賭け』が嘘ではないなら。
――私はこの牢獄から抜け出せるのだろうか。
(なんてね……彼の言葉を流せずにいる時点で、心は決まっているようなものだわ)
ならば、最後に必要なのは、賭ける勇気だけ。
あの男になら、そうするだけの価値はあるだろう。
私はすう、と息を吸い込んだ。
いつも感じている朝露の匂いが、今日はいつも以上に新鮮に感じた。
うつ伏せになった彼の表情は見えないけれど、髪の毛の隙間から見える耳は赤くなっている。
「容赦がねェぜ……とんだ声で鳴かされちまった……」
「私は楽しかったわ。貴方みたいにノリ心地のいい男は好きよ」
「そいつを言うなら『ノリのいい男』だろうがよ」
おっかねェ女だ……と呟く百丸様。
あられもない姿を私に晒してしまったのが、よほど恥ずかしかったらしい。
彼の声には、ほんのひとつまみの恨みがこもっていた。
「的確に性癖をついてくるアンタの手腕が怖ェよ……花魁に上り詰めただけあるぜ……」
「料金に見合う接待だったでしょう?」
「まァな」
そう言って、百丸様はむくりと身を起こした。
襦袢の隙間から覗く筋肉は、ただの商人のものとは思えないほどしっかりしている。
例えばそう……軍人と言われても、信じてしまいそうなほど。
(この人、本当に何者なのかしら)
少なくとも、商人以外にもう一つ、別の顔を持っていることは間違いない。
裏稼業に通じている可能性も、考えられなくはない。
無論、それならそれで、愛人にでもなって上手く利用するつもりだけど。
「なァに人の体ァじろじろ見てんだィ。助平ちゃんか?」
「あら、ごめんなさい。ぼうっとしちゃって」
「なんでェ、まァた呆けてたのかィ」
百丸様の無骨な手がするりと伸びてきて、私の髪を梳くように撫でた。
その手に、嫌な感じはしない。
「ちったァ悩んでくれてンのかィ?」
「ええ、そうね。私が今まで逢った客の中で、貴方は一番のお金持ちだし」
「カカカッ! そいつァ結構。商人にとっちゃァ一番の褒め言葉だ」
実際、大金持ちに身請けされることは、すべての遊女の悲願だ。
このちとせ楼に売られて以来、私はずっとその光を追い求めてきた。
どんな客にも笑顔を崩さず、理想の女を演じた。
いつか外の空気を吸えると信じて、底冷えするような夜をいくつも越えながら、夢を売り続けた。
それなのに。
(いざ目の前に好機が訪れると、こうも恐ろしくなるのね)
期待を裏切られる苦渋を何度も味わってきたからだろう。
彼を信じたい無垢な心と、経験から来る防衛本能が、私の中で激しくせめぎ合っている。
「ま、今すぐ決める必要はねェよ。デカい賭けを持ちかけられてんだ、悩むのも当たり前さね。ただ……」
百丸様は一度言葉を切ると、下ろした私の髪をひと房手にして、唇を寄せた。
そして、顔を上げて、まっすぐな視線で私を射貫いてくる。
「何度でも言うが、俺ァ本気だ。惚れた女の一生を預かるからには、後悔なんざァさせねェ」
軽薄な笑顔を消した彼の目は、朝日のせいか朱色に染まっているように見えた。
その色鮮やかさに、不覚にも心臓が跳ねてしまった。
*
朝日に照らされた帰り道を、土産酒をぶら提げた百丸様が歩いて行く。
その背中を二階から見送っていると、
「そうだ、アンタにひとつ忠告しとかねェと」
と、彼が何かを思い出したように、私を振り返って言った。
「アンタの馴染み客に、酒屋の柿本虎次って野郎がいただろ。そいつにゃ警戒した方がいい」
柿本虎次はちとせ楼に酒を卸している酒屋の道楽息子で、私に貢いでいた元・馴染み客の一人だ。
最初こそほどほどに金を使っていた柿本は、百丸様が通うようになってからやたらと彼を敵視し、
その日その日の所持金を全て突っ込み始めた。
が、豪商相手にそんな張り合いは続かず、だんだんツケ払いを要求するようになって、
最後は親にも借金がバレて激怒されたのだと聞いている。
「知り合いから聞いたンだが、奴は最近、賭場で大負けしたらしい。
しかも元手が実家の酒屋の稼ぎを横領した金だってんで、とうとう父親から勘当されたんだとよ」
「あらま、絵に描いたような転落ぶりね」
当初は金払いのいい客だからと表に出さずにいたが、私は正直、柿本のことが迷惑で仕方がなかった。
自分の親が取引相手なのをいいことに、横柄な態度を取り、口を開けばくだらない自慢話ばかり。
ここでの恋愛ごっこも本気にしだして、私に拙い恋文を何度も渡してくるし、
まだ客を取っていない新造に悪さをしようとしたこともある。
挙げ句の果てには、ちとせ楼に忍び込んでまで私に逢おうとしてきたので、
見かねた楼主がつい先日、出禁を言い渡したところだ。
「あの男なら、もうここには来れないと思うけれど」
「失うモンもなくした奴ァ何だってするさ。アンタ自身、それはよく分かってるだろう?」
「いやね、自業自得で転落した奴と一緒にしないでちょうだい」
「悪かったよ。だが、用心するに越したこたァねェ」
「確かにね。……忠告、心に留めておくわ」
私は百丸様に手を振り、笑顔で見送った。
軽く手を振り返す彼を見て、私はまた、思い悩む。
――百丸善一。
富も地位も、名誉もある男。
けれど、その素性は煙のように掴みどころがない。
そんな男に運命を預けるだなんて、冷静に考えれば、あまりに危うい話だ。
それでも賭けてみたいと思ってしまうのは、どうしてだろう。
(私になら秘密を預けてもいい、ね……。ずいぶん魅力的な誘い文句だわ)
もし、この男の言葉が本気なら。
もし、あの『賭け』が嘘ではないなら。
――私はこの牢獄から抜け出せるのだろうか。
(なんてね……彼の言葉を流せずにいる時点で、心は決まっているようなものだわ)
ならば、最後に必要なのは、賭ける勇気だけ。
あの男になら、そうするだけの価値はあるだろう。
私はすう、と息を吸い込んだ。
いつも感じている朝露の匂いが、今日はいつも以上に新鮮に感じた。

