その言葉が、崩壊の合図となった。
私の心の奥底でせき止めていたものが、どんどん喉を這い上がってくる。
「……ごめんなさい。まだ本調子じゃないみたい。林檎は後で食べるから」
まずい、早く逃げなければ。
こんな情けない顔なんて、見られたくない。
私は、善の主人なのに。
「珠希」
善の脇を通り抜けようとした瞬間、逆に腕を掴まれる。
引き戻されて、近くの壁に押しつけられる。
善にしてはかなり乱暴だった。
「善っ、離して!」
私は逃げ道を探すけれど、善が壁に手をついているせいで、どこにも逃れようがなかった。
私は咄嗟に顔を手で覆い隠す。
「珠希、大丈夫だ。目だけチラッと出して」
無理だ、目だけでも見せるのが怖い。
けれど、目だけ見せれば満足して解放してくれるだろうか。
なら、ほんの少しだけ頑張ってみようか。
――私はそう考えて、指の隙間から片目だけを覗かせた。
「ほら、見てな」
善が私の目の前でパチンと指を鳴らす。
すると次の瞬間――善の指には、輪っかのようなものが摘まれていた。
「……! それ……」
「カカ、吃驚したか?」
善はニヤッと悪戯っ子のような笑顔を見せる。
彼の指に摘まれていたのは、アンティークショップで私が釘付けになっていた、ラピスラズリの指輪だった。
「どうして……? 私、ただ見てただけって言ったのに……」
「今の珠希に必要な物なんじゃねェかと思ってさ。アンタも遠慮した感じだったし」
ああ、まただ――善の優しさが、胸にちくりと刺さるようだ。
きっと、私が化粧を直している間に購入していたのだろう――私がドジを踏んでばかりな一方で、善は私を元気づけようと立ち回っていたのだ。
「こんなに綺麗に輝いてんだ、身につけてやれよ。こいつもそう望んでるに違いねェ」
善は温かくも真剣な眼差しで語りかけてくる。
橙色に染まった空間の中、ラピスラズリの青が鮮烈に輝いている。
……道端で出会った猫のように、私のことをじっと見つめている。
けれど――私は首を横に振って、それを拒んだ。
私の反応が予想外だったのか、善はきょとんと目を瞬かせた。
「……それは、嫌ってことか?」
嫌なわけがない。
善からの贈り物が嬉しくないわけがない。
ましてその指輪は私が欲しがったものだし、指輪も私を選んでくれているのなら、ぜひ付けてあげたい。
……でも。
「違うの。……そんな綺麗な石、受け取れない」
この指が少しでも触れようものなら、綺麗な青色が濁ってしまう。
そんな気がしてならないのだ。
「すまねェ、よく理解できねェんだが……これを受け取れないってのァどうしてだィ?」
善は穏やかな声音で問いかける。
その目は至って冷静で、私を責めているわけでも、悲しんでいるわけでもない。
おそらく――彼は私の心の内を、分かろうとしてくれているのだ。
逃げてはいけないような気がして、私は少しずつ思いを吐き出した。
「……私は、そんなものを贈られるような生き方をしてないから。
善だって、私がどんな人間か知ってるでしょう?
今だって、貴方を利用している状態なのに……」
そもそも、私たちは利害関係だったはずだ。
最初は恋の夢と金銭をやり取りして、そこからお互いの目的が重なったから、手を取り合っただけ。
「玉樟花魁と恋愛ごっこをしたくて貢ぐのは、理解できる。
でも、貴方が『私』に求めているのは、きっとそれじゃないでしょう?」
私は遊女として、下心を隠した男たちを何人も相手取ってきた。
だからこそ、分かる――善の優しさは、まるっきり下心のない、見返りを求めない愛だ。
私には、それが理解できなかった。
「分からないのよ。私、こんなに優しくされるような人間じゃないのに、どうして……」
そこから先は、声に出せなかった。
喉の奥に詰め物をされたようで苦しい。
なにも話せなくなった私の代わりに、今度は善が、ゆっくりと口を開いた。
「……アレだな、人間ってのァとかく面倒な生き物だよなァ。付喪神の俺にゃァよく分からん感覚だ」
善はふー……と長く息を吐くと、私に確認を取るように聞いた。
「ひとつ言っとくがな、珠希。俺ァ多分、お前さんが思うほど複雑にできてねェぞ」
「……え?」
「俺はいつだって、俺のしたいことをしているだけ。そう言ってんだ」
善の言葉に、私は殴られたような気がした。
乱暴な言葉選びでもなければ、乱暴な声音でもないのに――頭にガツンと拳骨を食らった気分だ。
「俺がアンタに色々やってるのは、それが俺にとって一番気分がいいからだ」
「……気分が、いい?」
「ああ。俺が好きか嫌いか、俺の気分がいいか悪いか。俺にとっちゃァそれだけだよ」
気づけば、ぽかんと口が開いてしまっていた。
善の口から出てきたのは、大人っぽい見た目に全くそぐわない、子供のようにシンプルな言葉だ。
「お前さんは頭がいいから、色々考え込んだり、心配になったりするんだろう。
けど、俺についてはそこまで難しく考えるこたァねェよ」
困ったことに、私は善の言っていることが今ひとつ理解できない。
間抜けな顔をしているであろう私に、善はなんでもないように笑いかける。
「アンタと一緒にいると、俺も気分がよくなる。アンタが楽しそうに笑えば、俺も嬉しくなる。
アンタを傷つける奴は、俺もムカつくからぶん殴る。ほれ、難しいことなんざァ何もねェだろ?」
……私は善について、思い違いをしていたのかもしれない。
彼は人間のフリをするのが上手すぎるから、つい人間の物差しを当てて、解釈しようとしてしまったのかもしれない。
けれど、実際は――喧嘩煙管に過ぎない善の思考は、驚くほど単純だった。
「だからよ、珠希。俺にも分かるよう、端的に教えてくれ。俺と一緒にいるのは好きか?」
善が改めて、問いかけてくる。
……答えなど決まっている。
「……私、善といるのが、好き」
一緒に出かけるのは、楽しい。
贈り物をされると、嬉しい。
褒められるのは、好きだ。
善はいつも私を笑顔にしてくれる、心地いい存在だ。
……でも、それがなくなるとしたら。
もし、善が……私のそばを離れる理由があるとしたら。
「……善。私、善と一緒にいたい。お金とか、贈り物とかがなくても、いい。善がいれば、何もいらない……」
ああ、そうか――私が色々ぐちゃぐちゃ考えていた理由が分かった。
「私を、一人にしないで……こんな幸せ、二度と失いたくない……」
私は怖かったのだ。
私を満たす幸福が、再び失われてしまうのが。
善がいつか、私のなにかに幻滅して、他の人たちと同じように離れていってしまうのが。
だから、どうにか彼を繋ぎ止めようとして、彼の好意の理由を探そうとした。
「そんな縋るような目なんかしなさんな。道具は手前の主人から離れたりしねェからよ」
善は私の右手を取ると、薬指にラピスラズリの指輪をはめた。
ひやりとした指輪の感触は、驚くほどすぐに馴染んだ。
はめた感触も、重みも、初めてつけたとは思えないほどしっくりくる。
「俺ァ、か弱い女に縋られるよりも、強ェ女にこき使われるほうが好きなんだ。だから、安心して胸張ってな」
灰色の瞳が、朱色を帯びている。
火鉢の中の埋み火が息を吹き返すように、善の瞳が熱く語りかけてくる。
「……呆れた」
あれこれ考えて不安になっていたのが、馬鹿みたいだ。
複雑すぎる女と、単純すぎる男――あまりにも両極端で、正反対だ。
「アンタって、本当に道具なのね」
「おうとも、お前さんだけの逸品だぜ?」
善は私にニッと笑い返すと、指輪をはめた私の手の甲に口づけを落とした。
まるでごっこ遊びのような求愛に、思わず笑いがこぼれてくる。
次いで、善の顔がゆっくり近づいてくる。
次の展開を予想して、私は大人しく目を閉じる。
「しゃちょ〜? 珠希さまぁ〜?」
お互いの唇が触れようとした寸前で、突然、壱丸の無邪気な呼び声が廊下に響き渡った。
私が吃驚して目を開けるのと同時に、善もパッと私から離れる。
「も〜お二人ともどこですかぁ? かくれんぼしてぼくをからかってるんですかぁ〜?」
なんとも心細そうな壱丸の声。
廊下のあちこちをぽてぽて歩き回る足音。
私と善は廊下のほうに注意を向けつつ、「どうしよう?」とお互いに目線を送り合っていた。
そうこうしているうちに、壱丸の声がだんだんと切なげになってくる。
「まさか、ぼくを置いて二人きりでデエトとか……!? 内緒で豪華なディナーとか……!?
うわーん、ひどいです〜っ! お昼寝中に置いてけぼりなんてあんまりですよぉ〜!
ぼくもお腹空いてるのにぃ〜!」
きゅんきゅん泣いている壱丸には申し訳ないけれど、私も善も堪えきれず、とうとう噴き出してしまった。
勝手に落ち込んで、勝手に泣き出して、壱丸ったら可愛すぎる。
「ああ〜っ! やっぱり二人してかくれんぼしてたんですね! もうひどいですよう〜!」
私たちの笑い声に反応して、ぷりぷり怒った様子の壱丸が走り寄ってくる。
私はお詫びに壱丸を抱き上げ、思い切りもふもふ撫でてあげた。
「ごめんね、壱丸。お腹が空いて心細かったのね」
「ちょうどいいや。ほれ、林檎でも食いな」
「うわあ……しゃちょー、本当に包丁が下手っぴですねぇ……」
「るせェやい!」
朱色に染まる台所に、壱丸の無邪気な声と、善の笑い声が響く。
涙は流れることもないまま、私の中で乾き切っていた。
二章「骨董姫と瑠璃色の指輪」・了
私の心の奥底でせき止めていたものが、どんどん喉を這い上がってくる。
「……ごめんなさい。まだ本調子じゃないみたい。林檎は後で食べるから」
まずい、早く逃げなければ。
こんな情けない顔なんて、見られたくない。
私は、善の主人なのに。
「珠希」
善の脇を通り抜けようとした瞬間、逆に腕を掴まれる。
引き戻されて、近くの壁に押しつけられる。
善にしてはかなり乱暴だった。
「善っ、離して!」
私は逃げ道を探すけれど、善が壁に手をついているせいで、どこにも逃れようがなかった。
私は咄嗟に顔を手で覆い隠す。
「珠希、大丈夫だ。目だけチラッと出して」
無理だ、目だけでも見せるのが怖い。
けれど、目だけ見せれば満足して解放してくれるだろうか。
なら、ほんの少しだけ頑張ってみようか。
――私はそう考えて、指の隙間から片目だけを覗かせた。
「ほら、見てな」
善が私の目の前でパチンと指を鳴らす。
すると次の瞬間――善の指には、輪っかのようなものが摘まれていた。
「……! それ……」
「カカ、吃驚したか?」
善はニヤッと悪戯っ子のような笑顔を見せる。
彼の指に摘まれていたのは、アンティークショップで私が釘付けになっていた、ラピスラズリの指輪だった。
「どうして……? 私、ただ見てただけって言ったのに……」
「今の珠希に必要な物なんじゃねェかと思ってさ。アンタも遠慮した感じだったし」
ああ、まただ――善の優しさが、胸にちくりと刺さるようだ。
きっと、私が化粧を直している間に購入していたのだろう――私がドジを踏んでばかりな一方で、善は私を元気づけようと立ち回っていたのだ。
「こんなに綺麗に輝いてんだ、身につけてやれよ。こいつもそう望んでるに違いねェ」
善は温かくも真剣な眼差しで語りかけてくる。
橙色に染まった空間の中、ラピスラズリの青が鮮烈に輝いている。
……道端で出会った猫のように、私のことをじっと見つめている。
けれど――私は首を横に振って、それを拒んだ。
私の反応が予想外だったのか、善はきょとんと目を瞬かせた。
「……それは、嫌ってことか?」
嫌なわけがない。
善からの贈り物が嬉しくないわけがない。
ましてその指輪は私が欲しがったものだし、指輪も私を選んでくれているのなら、ぜひ付けてあげたい。
……でも。
「違うの。……そんな綺麗な石、受け取れない」
この指が少しでも触れようものなら、綺麗な青色が濁ってしまう。
そんな気がしてならないのだ。
「すまねェ、よく理解できねェんだが……これを受け取れないってのァどうしてだィ?」
善は穏やかな声音で問いかける。
その目は至って冷静で、私を責めているわけでも、悲しんでいるわけでもない。
おそらく――彼は私の心の内を、分かろうとしてくれているのだ。
逃げてはいけないような気がして、私は少しずつ思いを吐き出した。
「……私は、そんなものを贈られるような生き方をしてないから。
善だって、私がどんな人間か知ってるでしょう?
今だって、貴方を利用している状態なのに……」
そもそも、私たちは利害関係だったはずだ。
最初は恋の夢と金銭をやり取りして、そこからお互いの目的が重なったから、手を取り合っただけ。
「玉樟花魁と恋愛ごっこをしたくて貢ぐのは、理解できる。
でも、貴方が『私』に求めているのは、きっとそれじゃないでしょう?」
私は遊女として、下心を隠した男たちを何人も相手取ってきた。
だからこそ、分かる――善の優しさは、まるっきり下心のない、見返りを求めない愛だ。
私には、それが理解できなかった。
「分からないのよ。私、こんなに優しくされるような人間じゃないのに、どうして……」
そこから先は、声に出せなかった。
喉の奥に詰め物をされたようで苦しい。
なにも話せなくなった私の代わりに、今度は善が、ゆっくりと口を開いた。
「……アレだな、人間ってのァとかく面倒な生き物だよなァ。付喪神の俺にゃァよく分からん感覚だ」
善はふー……と長く息を吐くと、私に確認を取るように聞いた。
「ひとつ言っとくがな、珠希。俺ァ多分、お前さんが思うほど複雑にできてねェぞ」
「……え?」
「俺はいつだって、俺のしたいことをしているだけ。そう言ってんだ」
善の言葉に、私は殴られたような気がした。
乱暴な言葉選びでもなければ、乱暴な声音でもないのに――頭にガツンと拳骨を食らった気分だ。
「俺がアンタに色々やってるのは、それが俺にとって一番気分がいいからだ」
「……気分が、いい?」
「ああ。俺が好きか嫌いか、俺の気分がいいか悪いか。俺にとっちゃァそれだけだよ」
気づけば、ぽかんと口が開いてしまっていた。
善の口から出てきたのは、大人っぽい見た目に全くそぐわない、子供のようにシンプルな言葉だ。
「お前さんは頭がいいから、色々考え込んだり、心配になったりするんだろう。
けど、俺についてはそこまで難しく考えるこたァねェよ」
困ったことに、私は善の言っていることが今ひとつ理解できない。
間抜けな顔をしているであろう私に、善はなんでもないように笑いかける。
「アンタと一緒にいると、俺も気分がよくなる。アンタが楽しそうに笑えば、俺も嬉しくなる。
アンタを傷つける奴は、俺もムカつくからぶん殴る。ほれ、難しいことなんざァ何もねェだろ?」
……私は善について、思い違いをしていたのかもしれない。
彼は人間のフリをするのが上手すぎるから、つい人間の物差しを当てて、解釈しようとしてしまったのかもしれない。
けれど、実際は――喧嘩煙管に過ぎない善の思考は、驚くほど単純だった。
「だからよ、珠希。俺にも分かるよう、端的に教えてくれ。俺と一緒にいるのは好きか?」
善が改めて、問いかけてくる。
……答えなど決まっている。
「……私、善といるのが、好き」
一緒に出かけるのは、楽しい。
贈り物をされると、嬉しい。
褒められるのは、好きだ。
善はいつも私を笑顔にしてくれる、心地いい存在だ。
……でも、それがなくなるとしたら。
もし、善が……私のそばを離れる理由があるとしたら。
「……善。私、善と一緒にいたい。お金とか、贈り物とかがなくても、いい。善がいれば、何もいらない……」
ああ、そうか――私が色々ぐちゃぐちゃ考えていた理由が分かった。
「私を、一人にしないで……こんな幸せ、二度と失いたくない……」
私は怖かったのだ。
私を満たす幸福が、再び失われてしまうのが。
善がいつか、私のなにかに幻滅して、他の人たちと同じように離れていってしまうのが。
だから、どうにか彼を繋ぎ止めようとして、彼の好意の理由を探そうとした。
「そんな縋るような目なんかしなさんな。道具は手前の主人から離れたりしねェからよ」
善は私の右手を取ると、薬指にラピスラズリの指輪をはめた。
ひやりとした指輪の感触は、驚くほどすぐに馴染んだ。
はめた感触も、重みも、初めてつけたとは思えないほどしっくりくる。
「俺ァ、か弱い女に縋られるよりも、強ェ女にこき使われるほうが好きなんだ。だから、安心して胸張ってな」
灰色の瞳が、朱色を帯びている。
火鉢の中の埋み火が息を吹き返すように、善の瞳が熱く語りかけてくる。
「……呆れた」
あれこれ考えて不安になっていたのが、馬鹿みたいだ。
複雑すぎる女と、単純すぎる男――あまりにも両極端で、正反対だ。
「アンタって、本当に道具なのね」
「おうとも、お前さんだけの逸品だぜ?」
善は私にニッと笑い返すと、指輪をはめた私の手の甲に口づけを落とした。
まるでごっこ遊びのような求愛に、思わず笑いがこぼれてくる。
次いで、善の顔がゆっくり近づいてくる。
次の展開を予想して、私は大人しく目を閉じる。
「しゃちょ〜? 珠希さまぁ〜?」
お互いの唇が触れようとした寸前で、突然、壱丸の無邪気な呼び声が廊下に響き渡った。
私が吃驚して目を開けるのと同時に、善もパッと私から離れる。
「も〜お二人ともどこですかぁ? かくれんぼしてぼくをからかってるんですかぁ〜?」
なんとも心細そうな壱丸の声。
廊下のあちこちをぽてぽて歩き回る足音。
私と善は廊下のほうに注意を向けつつ、「どうしよう?」とお互いに目線を送り合っていた。
そうこうしているうちに、壱丸の声がだんだんと切なげになってくる。
「まさか、ぼくを置いて二人きりでデエトとか……!? 内緒で豪華なディナーとか……!?
うわーん、ひどいです〜っ! お昼寝中に置いてけぼりなんてあんまりですよぉ〜!
ぼくもお腹空いてるのにぃ〜!」
きゅんきゅん泣いている壱丸には申し訳ないけれど、私も善も堪えきれず、とうとう噴き出してしまった。
勝手に落ち込んで、勝手に泣き出して、壱丸ったら可愛すぎる。
「ああ〜っ! やっぱり二人してかくれんぼしてたんですね! もうひどいですよう〜!」
私たちの笑い声に反応して、ぷりぷり怒った様子の壱丸が走り寄ってくる。
私はお詫びに壱丸を抱き上げ、思い切りもふもふ撫でてあげた。
「ごめんね、壱丸。お腹が空いて心細かったのね」
「ちょうどいいや。ほれ、林檎でも食いな」
「うわあ……しゃちょー、本当に包丁が下手っぴですねぇ……」
「るせェやい!」
朱色に染まる台所に、壱丸の無邪気な声と、善の笑い声が響く。
涙は流れることもないまま、私の中で乾き切っていた。
二章「骨董姫と瑠璃色の指輪」・了

