四極のノスタルジア

目が覚めると、世界は最悪なまでに濁っていた。

「…がはっ、ゲホッ……」

肺に飛び込んできたのは、鉄錆の臭いと、喉を焼くような不気味な悪臭。
激しい耳鳴りの中、俺はふらつく身体をどうにか起こした。

「みんな…どこに行ったんだ……」

返事はない。顔を上げた俺は、その光景に言葉を失った。数万人の観客で埋め尽くされていたはずのスタンド席はボロボロに崩れ落ち、黒い錆にまみれていた。
満天の星も、シャルトの光さえ消えている。唯一あるのは、不気味な血色の月光だけだった。

「なんで……」

ステージの床に手を突き、愕然とする俺の背後に、ドロリと重苦しい影が落ちた。
ピチャ、ピチャと、全身が凍り付くような足音が響く。呼吸が苦しくなるほどに鼓動が跳ね上がり、恐る恐る振り返った。

「君が、あの“アイドル”というやつかい?」

そこにいたのは、断じて同じ星の者ではなかった。
風になびく銀色の髪に、空と同じ赤黒い瞳。ねじれ曲がった二本の角を持ち、背中には大きな翼があった。端正な顔立ちをしていながら、不穏な空気をまとう彼は、間違いなく『第二の星』の魔族だった。

「僕がここに着いたのが少し遅くてねぇ、君以外全員逃げちゃったんだよ」

教科書でしか見たことのない別世界の強者が、なぜ今、目の前に立っている。なぜ、俺たちの存在を知っているんだ。

「それにしても、噂では聞いていたけど……実物はそれ以上だなぁ」

男は、残酷な笑みを浮かべて俺を見下ろした。暗黒を滲ませた赤い瞳が、獲物を値踏みするように光った。男が静かに一歩足を進めると、またピチャ…と泥を踏む音がした。その瞬間、男の背後から突如現れた巨大な影が俺を覆う。
魔法も、超能力も、戦うための肉体もない俺に、抗う術なんてあるはずがない。死の恐怖が、俺の全身から声を出す力すらを奪っていく。

「お前のシャルト、いただきまぁす」

鋭い爪で俺の頬を撫で、長ったらしい舌と白く尖った牙が垣間見えたその時だった。

「ゔっ……ゴプッ……」

男は、目の前で口から大量の血を吐き、それまでの傲慢な瞳を激しく揺らした。
目を見開いた俺の視界の先には、男の胸の真ん中を黒い異形の影が鋭くぶち抜いていた。その瞬間、男の胸からどくどくと青い血が溢れ出る。

「死ね」

もう一度、俺の背後から黒い何かが男の心臓を目掛けて飛びついた。
しかし、二度も食らうわけにはいかないと言わんばかりに、男は忌々しげに舌を鳴らし、大きな翼を広げて空へと跳ね上がった。
胸から青い血を滴らせながらも、その瞳には奇襲を仕掛けてきた存在へ敵意が宿っている。

言葉もない俺の視界の真ん中に、バサリと静かに着地する影があった。
背後から飛び出してきたその主は、不気味な覆面で顔を隠した、小柄な少女。
男の胸をぶち抜いた黒い異形は、彼女の背中からまるで影のようにうごめきながら生え出ていた。

「ねぇ、僕の獲物なんだけど…横取りとか趣味悪ぅ」
「黙れ、消えろ」

少女の声は低く、酷く冷たかった。同時に、彼女の背後から伸びる黒いそれが、爆音を立ててもう一度男に飛びつく。激突は一瞬。空を駆ける銀髪の魔人と、地を這う黒い異形が、目にも留まらぬ速度で火花を散らす。

しかし、彼女はずっと俺を庇うようにして戦っていた。

男の攻撃を正面から捌きながら、彼女は驚くほど器用にこちらへと飛んでくる破片や異物を残さず徹底的に砕いていく。

「ここから、3時の方向。早く逃げて」

激しい交差の最中、彼女は男を見据えたまま、俺にだけ聞こえる細い声で鋭く告げた。男と火花を散らし、俺というお荷物を背負いながら彼女は互角以上に渡り合っている。

「……っ!」

彼女の言葉に弾かれたように、俺は無我夢中で彼女が示した方向へと走り出していた。背後から響く肉を切り裂く音と、狂ったような風の唸り。
振り返る余裕なんてなかった。いま何が起こっているのか、どうして目の前に第二の星の魔人族たちがいるのか、何一つ、分からない。

意識が朦朧とする中、俺は光が見えるまで走り続けた