ひろくんのヒーロー様

この世界に来てから、早くも三ヶ月が経った。

元の世界に戻りたい、と切実に願うことも少なくなっていた。現実世界に残してきた姉の怜や、親友の誠也のことはもちろん気にかかっていたけれど、この世界特有の“テンプレイベント”に連日巻き込まれ続けるうちに、宏斗の身体はだんだんと、そして恐ろしいことにこの環境へ順応してしまっていたのだ。

『きゃあ! 如月くんだわ!』
『今日も美しいわ……如月くん!』

今日も今日とて、廊下の端から黄色い悲鳴が降ってくる。

「どうせまた、キラキラした謎のオーラが飛び散るんだろ」

その言葉に合わせるかのように、校舎内だというのに都合よく窓からドラマチックな突風が吹き抜けた。白銀の髪が、さらりと美しく揺れる。

「……あいつは風まで操れるのかよ」

もう驚きもしない。むしろ、あまりのヒーローっぷりに妬むことすら、とっくに疲れてしまっていた。

如月律。
この世界が総力を挙げて生み出した、文字通りの“完璧な王子様”。
白銀の髪は常に計算されたようなベストな角度で風に揺れ、ただ廊下を歩くだけで周囲の女子がリアルに息を呑む。男子である俺ですら、一瞬見惚れそうになるほどの整った顔立ち。

……いや、マジで欠点どこだよ。少しは人間らしい隙を見せろよ

宏斗は購買で買った牛乳パックにストローを突き刺し、ズズズと吸いながら、律の周囲に群がる女子たちを冷めた目で眺めた。

『如月くん、今日もかっこいい……尊い……』
『見て、今の前髪の揺れ方、完全に神の領域……』
『私、如月くんの歩く音が大好きなの……』

歩く音ってなんだよ……。

三ヶ月もこの世界にいれば、脳内ツッコミのキレも自然と増すというものだ。
当の律はといえば、そんな周囲の狂騒を気にも留めず、どこか冷めた様子で淡々と歩き続けていた。

しかし、そんな日常の中で、宏斗には一つだけ気になることがあった。

____如月律の、圧倒的な感情の薄さ。

本物のヒーローとして世界に愛されているはずなのに、あいつが心から笑ったり、怒ったり、悲しんだりするような「喜怒哀楽」を、俺は一度も見たことがない。
この世界にとっては、それが“完璧な王子様”の設計図なのかもしれないが、側にいると、あまりにも人間味が感じられなくて不気味なくらいだった。

「ま! 俺には1ミリも関係ねーけど!」

空になった牛乳パックを器用に潰し、ゴミ箱へと投げ捨てた。
なぜなら、そう――泣いても笑っても、もうすぐ夏休み。
そしてその先には、少女漫画における最大特大のキラーイベント『文化祭』が控えているからだ。

この世界の文化祭は、俺の知っている一般的なものとはワケが違う。至る所に恋愛フラグが乱立し、あちこちで告白イベントが量産される、まさにラブコメの“最前線”だ。

フフン、と鼻歌を歌いながら、今度こそこの世界でのメインイベントを存分に満喫してやろうと、俺は頭の中で作戦を練るつもりだった。
しかし、物事はそう簡単に、自分の思い通りには動いてくれない。

「……あれ。この音、まさか」

ふと、喧騒の向こうから、鼓膜を心地よく震わせる音が聞こえてきた。気がつけば、俺は音のする方へと走り出していた。上履きの音を響かせ、階段を一段飛ばしで駆け上がっていく。

間違いない。聞こえる、この泥臭くて、真っ直ぐな音。
俺が現実世界で、唯一嘘偽りなく愛していた。

“ バンッ !”

勢い良く開け放った扉の先。そこは、高校の片隅にある音楽室だった。
西日に照らされた部屋の中に広がっていたのは、地味な軽音部の光景。古びたアンプ、床に散らかった譜面、そして、汗と青春の匂いが泥臭く混ざり合った空気。ずっと冷え切っていた心臓の奥が、数ヶ月ぶりにカッと熱くなるのを感じて、俺は顔を上げた。その瞬間。

「き、君……っ!! ギターヴォーカル、できたりしないかい……っ!?」

黒縁眼鏡をかけた先輩が、血相を変えて俺の、手をガシッと掴んできた。額から大粒の汗を垂らし、藁にもすがるような必死の形相で俺を見つめている。

「え? あ、は、はい……一応……」

あまりの勢いに圧倒され、俺は混乱しながらも小さく頷くことしかできなかった。

しかし、この時の宏斗は、まだ何も知らなかった。
現実世界で自分を救ってくれた「音楽」が、この少女漫画の世界において、あの完璧なヒーローと自分を繋ぐ、唯一の荒縄になるなんて。

この出会いが、自分の運命を、そして如月律の世界を、跡形もなく大きく狂わせることになるなんて、今の俺には知る由もなかったんだ。