ひろくんのヒーロー様

4月10日。
都立泉桜高校の桜は、春風に煽られて盛大に舞っていた。
そして、ある男の心もまた盛大に舞い上がっていた。

「きみ、ハンカチ落ちたよ」

前髪をかき上げ、伏し目がちに儚さを演出しながらハンカチを拾い上げる。
ミステリアスな雰囲気と、さりげない優しさのギャップ。そして最後に、口角を数センチだけ上げて微笑む。

「はい、どうぞ」

『あ…どうも…』

ふっ……落ちたな。
そう確信しているのは、この男・皐月宏斗ただ一人だけだった。

三人兄弟のうち強烈な姉二人に育てられた末っ子長男は、少年漫画より少女漫画、戦隊ヒーローより魔法少女。そんな環境で育った結果が、今のこれである。

「あーまたやってる。ヒロイン不在のヒーローごっこ」
「おい誠也!俺はいたって本気だ!」

中学からの友人・師走誠也は、今日も呆れたようにため息を吐く。それはもう、彼にとっての日課になっていた。中学の卒業式の日に「やっと高校生になれる」と胸を膨らませていた宏斗を見て、誠也は嫌な予感を覚えていたが、その予感は見事に的中したのである。

「少女漫画といえば、舞台は高校!俺がヒーローになる時がやってきたんだ!」

もはや、返す言葉もない。
16にもなって少女漫画のキャラがリアルで通用すると思っている時点でまずいのに、ましてや、自分をヒーローだと思い込んでいるのはもっとまずい。

「おい、ヒロ。お前みんなになんて呼ばれているのか知ってるのか?」

廊下に春の風が吹き通る。誠也は心苦しそうに口を開いた。

「え…なに」
「お前…泉桜のヒッ…」
『あっ、ヒーロー様だ!』

誠也が言いかけたと同時に、三年生の先輩が横切った。

「泉桜高校のヒーロー様じゃん!」
「ちょっと…やめなよ」

クスクスと、周囲から忍び笑いが漏れる。
廊下を吹き抜ける春風だけが、やけに冷たかった。
バカな宏斗でも、さすがに分かっていた。

自分が“格好いいヒーロー”としてではなく、“痛い奴”として嘲笑されているのだと。

「俺、帰る」
「あ、おい!待てよヒロ!」

宏斗は振り返ることもなく、走って校舎を飛び出した。
ジワジワと目頭が熱くなる感覚が情けなく、より羞恥心を搔き立てた。

少年がレンジャーに憧れることも、少女がプリキュアに憧れることも悪いことなんかじゃない。じゃあ、一体自分の何がおかしいのか。

俺はただ…誰かのヒーローになりたいだけなのに

「ただいま」

いつもよりか細い声で家に帰ると、下着姿でうろついている次女の怜が通り過ぎた。

「ひろ~お帰り!」

Tシャツとパンツだけという、相変わらず姉として終わっている格好だが、これでも一応彼氏はいる。そして、宏斗を“泉桜のヒーロー様”にしてしまった元凶。少女漫画オタクでもあった。

「ひろ見て!ウニウサギ先生の新作が出たのよ!」
「…あー、うん」
「ヒーローの西園寺メロくんがもうヤバいっ!ひろも絶対すk……どうしたの」

怜は机にコミックを置き、言葉を詰まらせて宏斗を見つめた。
普段こそ騒がしいが、こういう変化には妙に鋭い。
いつもと様子がおかしい宏斗に気づくと、怜は手にしていた漫画をそっと机に置き、リビングに落ちていたズボンを拾い上げた。

沈黙が流れる空間で、怜は何も聞かないまま、壁に立てかけられたベースを背負った。

「ひろ、行くよ」

その一言で十分だった。
宏斗は走って自分の部屋へ戻り、ギターを抱えて怜と共に家を飛び出した。

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「ひろとくん!今日いつもより力強くていいね!」

スタジオに爆音が響く。汗がにじむほどギターをかき鳴らし、嫌なことを忘れていく。怜に誘われて始めたギターは、俺にとって唯一の特技だった。上達は思った以上に早く、才能を見かねた怜がバンドに誘ってくれたのだ。それからというもの、放課後はいつもこうして音を鳴らしている。

「ひろ、今日のピッキング、いつもより深い」

怜は真剣な目でベースを構え直した。

「感情が音に乗るタイプは、伸びるよ。苦しい時ほど、いい音が出るんだって」

感情が音に乗る……。
その瞬間を知った宏斗は、無我夢中で弦を掻き鳴らした。
“泉桜のヒーロー様”として作った営業用の笑顔とは違う、心の底から楽しそうな表情。誰に笑われても、ここにいる俺だけは嘘じゃない。

俺には、音楽がある。