ひろくんのヒーロー様

文化祭の喧騒や、如月ファンクラブの一件がようやく落ち着きを見せ始め、心地よい涼風が校庭を吹き抜ける。季節は静かに、だけど確実に真夏の終わりを合図していた。

四限終了を告げるチャイムと同時に、教室の窓際でそわそわと誰かを待っていた軽音部の部長が、廊下から宏斗へ向けて小さく手招きをした。

「皐月く~ん、ちょっと今、いいかな?」

そう言って微笑む部長は、いつの間にか分厚い眼鏡からコンタクトレンズに変え、髪型も以前のボサボサ頭から見違えるほどさっぱりと垢抜けていた。部長は少し照れくさそうにしながらも、緊張で滲んだ手汗をズボンで何度も擦り、そのまま制服のポケットから一本の小さなUSBメモリーを取り出した。

「あのね、皐月くん。この前、文化祭のステージでみんなで歌った『レプリカ』の動画と音源、僕が編集しておいたんだ……」
「え……あの時のライブ、ですか」

部長から差し出されたUSBメモリーを、宏斗はまるで世界に一つだけの壊れ物を扱うように、そっと両手で受け取った。まさか、あの人生を変えた怒涛のライブが、こうして形に残されているなんて思いもしなかった。プラスチックの小さな塊を手のひらで握りしめると、あの日の地鳴り狂うような歓声も、肌を灼くほど眩しかったスポットライトの熱も、すべてがこの中に大切に閉じ込められている気がした。

「あとね、もう一つ。どうしても皐月くんに話したいことがあるんだ」
「話したいこと……ですか?」

宏斗は目線を部長へと戻し、貰ったUSBメモリーを大切に制服のポケットへと仕舞い込んだ。

「君に、この軽音部を引き継いでほしいんだ。ほら、僕以外のメンバーはみんな3年生だし、あの文化祭のライブで全員引退だからさ」
「でも……っ! 俺、一人じゃ何もできませんよ」

あまりにも突然の告白に、宏斗は言葉を失った。
確かに、先輩たちが引退してしまえば、部員がゼロになった軽音部が廃部になることくらい分かっていた。けれど、あの熱狂のステージに助っ人として立つことと、部長として誰かを引っ張っていくことは、全くの別物だ。
今の宏斗には、誰かの先頭に立てるほどの自信なんて、1ミリも持ち合わせていなかった。

「大丈夫だよ、皐月くん」

戸惑う宏斗の肩に、部長はそっと大きな手を置いて、包み込むように暖かく微笑んだ。

「君には才能がある。……自分の音楽で、他人の心を揺さぶって動かす、本物の才能があるんだよ」
「才能って……そんなの、バンドは一人じゃ成り立たないです!」

震えるような微かな声で、思わず反論をしてしまった。けれど、部長は優しく微笑んだまま、宏斗のポケットをそっと指差した。

「これがあればきっと、君と一緒に音楽をやりたいって心から願う人が、これから必ず現れるよ」
「でも……これは先輩たちがいてくれたからで……」
「だけど、それは皐月宏斗がいなければ、この世に絶対に生まれなかった音楽だ」

部長の目はどこまでも真っ直ぐで優しいはずなのに、なぜか胸の奥をキリキツと刺すような、圧倒的な熱量を持っていた。それが決してお世辞でも、その場しのぎの上辺だけの言葉でもないということは、痛いほど伝わってしまった。だからこそ、宏斗は、託された部長の熱い想いを、その背中に背負う決意をした。

「……分かりました。じゃあ俺、正式に軽音部に入ります」
「本当かい……!? ありがとう、ありがとう……っ!」

自信なんてこれっぽっちもない状態での引き受けだったけれど、目の前で部長が今にも泣きそうな顔をして、ガシッと宏斗の手を力強く握りしめてくれたことが、何よりも誇らしくて嬉しかった。

「また、皐月くんに救われてしまったね」
「そんな、救うだなんて……大袈裟ですよ」
「ううん。やっぱり君は……僕たちのヒーローだ」

部長の目から零れ落ちた一粒の涙を見た瞬間、ジワリと胸の奥から熱いものが込み上げ、宏斗の目頭が熱くなる。無意識のうちに、宏斗も部長の手を強く握り返していた。
現実世界で傷つき、誰も言ってくれなかった「ヒーロー」という言葉を真っ直ぐに注いでくれるこの唯一の先輩は、宏斗にとって、もうかけがえのない大切な存在になっていたから。

「宏斗」

その瞬間、背後から響いた、聞いたこともないほど冷たく低い声に、ゾクッと宏斗の肩が大きく跳ね上がった。一瞬にして廊下のざわめきが静まり返り、周囲の生徒たちがヒュッと息を呑んだのが分かった。空間の温度が急激に凍りつくような異様な気配を、宏斗の防衛本能が瞬時に感知する。

気づけば、いつの間にか背後に立っていた律の、すらりと長い指先が宏斗のつむじから、耳の裏、そして剥き出しの首筋へと、いやらしくゆっくりと滑り込んできていた。肌をなぞる冷たい指先の感触に、全身にバチバチと激しい電流が走る。

目の前にいた部長は、まさに蛇に睨まれた蛙のように顔を真っ青に硬直させ、肩を小刻みに震わせていた。

「さ、皐月くん……って、その、如月さんと知り合いなの……?」

部長は繋いでいた宏斗の手を、まるで熱湯に触れたかのように大慌てで引き剥がし、ガタガタと数歩後ろに後ずさった。知り合い? 友達? それとも、まさか恋……いや、違う。周囲に大量のギャラリーがいる中、なんと答えるのが正解なのか、頭の中で必死に選択肢を探している宏斗のことを、律は独占欲に満ちた愛おしそうな瞳で見つめていた。

「“まだ”友達です」

律は、全校生徒を魅了するいつもの極上爽やかスマイルを浮かべながら、しかし言葉の“まだ”の部分だけをやけに低い声で強調して言い放った。
「まだ」ってなんだよ「まだ」って。
部長も、額から大量の冷や汗を流しながら『え、どういうこと……!?』と、目線だけで必死に宏斗に助けを求めて訴えかけてくる。

「宏斗。先輩と、何の話をしていたの?」
「え、あぁ……。皐月くんに、次の軽音部を引き継いでほしいって話をしていたんだよ」
「引き継ぐ? ……ってことは、宏斗が軽音部に正式入部するってことですか?」
「そ、そういうことになるのかな…? 皐月くんも、今了承してくれたみたいだし」

その答えを聞いた瞬間、律の表情が僅かに曇り、何かを激しく訴えかけるような重い視線が宏斗へと移された。最近のあいつは、本当にこんな風に表情をコロコロと変える。感情の薄かったはずの王子様のこの心境の変化は、鈍感な宏斗には心底理解ができない領域だった。

「部長が、文化祭のライブ映像と音源をわざわざ編集してくれたんだよ」

宏斗がポケットの中のUSBメモリーを上から軽くポンポンと叩きながら説明すると、律は一瞬だけ、不機嫌そうにその美しい目を細めた。部長は、恐怖に震えながらも至近距離にある律の国宝級の美貌に見とれてしまい、開いた口が塞がらない状態になっている。

「へぇ。……結局、軽音部入るんだ」

どこかトゲのある冷ややかな物言いから、律が信じられないほど子供っぽく拗ねていることなんて、すぐに分かってしまった。彼らしくないほどに分かりやすい独占欲の態度に、宏斗は思わず言葉を詰まらせる。

「え……ま、まあ、うん」

正直、あの頭が狂いそうになるほどの熱気も、割れんばかりの歓声も、そして人生で初めて“律に勝てた”と思えたあの最高の感覚も、全部忘れられなかった。
苦しくなるほどに眩しい照明の下で、自分の鳴らす音楽でもう一度、誰かの心を激しく動かしたい。目の前の部長や…そして、この如月律のように。

「だから……これから新しい部員を集めるために、勧誘活動でもしようかと思ってさ」
「……。」

部長への提案も兼ねて発した、何気ないその一言。
その瞬間、如月律の表情が、ピタリと彫刻のように凍りついた。

窓から教室へと吹き抜けた秋の風が、やけに冷たく肌を刺す。廊下を流れる生徒たちの騒めきが、急に現実感を失って、妙に遠くへと遠のいていくような錯覚に陥った。

「じゃあ、俺も入る」
「………は?」
「軽音部。俺も、今から入るから」

あまりにも自然で、当然のような口調だった。
宏斗と部長は、完全に思考が停止したまま目を丸くさせ、ただ呆然と立ち尽くす。一瞬、脳が理解することを拒否したその言葉の破片を、宏斗はもう一度手繰り寄せ、パズルのピースのように一つ一つ脳内ではめていった。

「お前……付き合いで言ってるならやめろよ。そもそも楽器とか、歌とか歌えんのかよ!」
「楽器は触ったこともない。でも、歌は宏斗が歌うんでしょ?」
「じゃあ、お前は何をするんだよ!」
「鈴……? とか、トライアングルとか」

開いた口が塞がらないどころか、顎が外れそうだった。
よく考えてみろ。この世界の絶対的なヒーロー様が、荒々しいギターやベース、ドラムに囲まれた大音量のスタジオの中で、一人ぽつんと小さく、トライアングルを丁寧に『チーン……』と鳴らしている光景を!

いや、でも待て。この世界はあいつを中心に回ってるわけだから、そんなバカな絵面すら、なんか奇跡のエフェクトで格好よくなっちまうのか……!?

いや、駄目だ。そんなふざけた理由での入部なんて、自分の音楽に対するプライドが絶対に許さなかった。

「……もし、お前が本気で軽音部に入る気があるって言うなら」

宏斗は、首筋をなぞっていた律の手を強引に振り払い、一歩後ろに下がった。そして、現実世界でバンドに全てを懸けていた頃の、鋭く獰猛な眼差しを律へと真っ直ぐに突き刺し、圧倒的な威圧をかける。

「生半可な、お遊びの気持ちで俺の音楽の領域に踏み込んでくるなら、二度と、俺に関わるな」

一切の妥協を許さない、突き刺すような拒絶の視線。
それを真っ正面から受け止めた瞬間、如月律の心臓は、ドクンと今までで一番激しく脈打った。風になびく白銀の髪の隙間から垣間見える、あの冷徹なガラス細工のような瞳が、熱い衝動を孕んだまま、まっすぐに宏斗を捉えて一歩も離さない。

「うん。俺は、本気だよ」

あいつが覚悟を決めた声音でそうセリフを吐いたと同時に、またしても鮮やかな青い風が、二人の境界線を静かに吹き抜けていった。