ひろくんのヒーロー様

『あ、あの子だよ……例の、5組の……』
『ねえ、やっぱりあの子が噂の……?』

登校中、学校中に飛び交うヒソヒソとした噂話は、そのすべてが俺――皐月宏斗に向けられたものだった。ある意味、周囲の視線を独り占めしている状況ではあるし、この学校で如月律に次ぐ二番目の有名人になったことも間違いはなかった。

理由は、あまりにも明白だ。

文化祭のあの日、俺は如月律にキスをされた。

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『皐月』

力強く腕を引かれ、視界が白銀の髪で埋め尽くされたかと思った瞬間、柔らかなピンク色の唇が俺の唇を強引に覆った。あの時、体育館の周囲の空気は一瞬で静まり返り、時が止まったかのような漠然とした静寂が広がっていた。

『好きだよ』

押し殺したような、だけど熱を帯びた律のそのたった一言だけが、やけに鼓膜に響いた。脳内は真っ白。理解の範疇を超えた事態に、俺は言葉一つ返すことすらできなかった。

おかしい。だって、ここは少女漫画の世界なんだぞ……?
完璧なメインヒーローであるはずのあいつが、男の俺を好きになるわけが。

『さつ……宏斗。こっち見て』

突然、ファーストネームで低く、甘く呼ばれて、不覚にも心臓がドクンと大きく跳ね上がる。周囲の女子生徒たちは、顔を信じられないほど真っ赤にして息を呑みながら、俺たちの様子を凝視していた。

「ちょっと……! ちょっと待てお前、少し頭冷やせ……っ!!」

これ以上ここにいたら世界が崩壊する。そう直感した俺は、律の手首を掴むと、そのまま逃げるように屋上へと連行した。自分でも意図が分からない、ドタバタと暴れる心臓の鼓動にイライラしながらも、俺は必死に冷静を装う。一方の如月律はといえば、俺に腕を引かれるがままに大人しく着いてきて、抵抗するどころか、満更でもなさそうに少しだけ口角を上げていた。

「お前、どういうつもりだよ! 何考えてんだ!」
「どういうって、そのままの意味だけど」

バタン、と屋上の扉を閉め、詰め寄る。激しい風に煽られて、俺の髪はぐしゃぐしゃに乱れていく一方なのに、律の白銀の髪は乱れるどころか、光を浴びて映画のワンシーンのように美しくなびいていた。この世界の絶対的な主役が、本気で自分を好きだなんて、やっぱり心底信じられなかった。

「そんなん、ただのライブ直後のテンションっていうか、一時的な勘違いだろ……っ」

あまりにも力強く、真っ直ぐな律の視線に耐えきれなくなり、俺は目線を逸らして一歩後ろに下がった。なのに、あいつはまるで俺を逃がさないと決めているように、ゆっくりと、確実に距離を詰めてくる。

「勝手に、俺の気持ち決めつけないで」
「……っ」
「俺だって……こんな感情、生まれて初めてなんだよ」

その瞬間、律の耳と頬に、少女漫画お決まりの綺麗な赤斜線が浮かび上がった。あいつはきゅっと唇を結び、細い手の甲で顔の下半分を隠しながら、ふいと視線を逸らす。

…これって、完全にヒロインが王子様に向ける表情とセリフだろ!!

なのに、その対象が、なんで男の俺なんだよ……!

「宏斗。好きだよ」

律が再び覚悟を決めたような真剣な眼差しで俺を見つめた瞬間、タイミングよく雲に隠れていた太陽が顔を出し、彼を祝福するように眩しい光を差し込んできた。いつだって、この世界の神様は如月律の味方だった。

しかし、いくらそんな奇跡を見せつけられても、現実世界で恋愛経験ゼロ、おまけに男相手に想いを寄せられるなんて未だかつてない経験なのだ。

「おう、ありがとう」

返す言葉がそれしか見つからなかった俺に対し、如月律は不服そうに美形な眉をきゅっと寄せた。

「それだけ?」
「え?」
「宏斗は……俺に対して、どう思ってるとか、ないの?」

あ、えーー!? そういう感じの詰め寄り方してくるの!?
男と付き合うとか考えたこともないし、そもそも……俺、ここの世界の人間じゃないし……!

目を激しく泳がせながら、必死に断る言葉を探す。話を逸らさなければ、と必死に次の話題を考えているうちに、律は隙を突いて俺の身体を強引に引き寄せ、その細い両腕で抱きしめた。

「宏斗、付き合って」

ドクドクと、自分でも驚くほど激しい鼓動が胸の内に響き渡る。さらりと触れる白銀の髪から、瑞々しいシトラスの香りが優しく包み込んできて、あいつの硬くて温かい体温がやけに心地よかった。しかし、今の俺にはそんな感傷に浸っている余裕なんてない。

「と……! 友達からで!!」
「嫌だ」
「順序っていうもんがあるだろうが、この猪突猛進男!」
「俺、そういうの待てない」

俺を抱きしめる腕の力が、徐々に、だけど痛いほど強くなる。いつも無表情で、感情なんて無さそうに見えたあの完璧な王子様が、今、俺の胸の中でこんなにも必死に余裕をなくしている。その事実を誰が想像できただろうか。宏斗は、律のタキシードの肩口に、熱くなってしまった自分の顔をバッと隠した。

「……まだ、お互いのこと、ちゃんと分かってないだろ」

その言葉を聞いた律は、少しだけ抱きしめる力を弱めると、俺の顔を覗き込んできた。耳まで真っ赤になった俺の顔を見て、あいつは満足そうに、ふわりと優しく笑った。

こいつ、こんな顔して笑うんだな……と、不覚にも胸の奥がドクンと跳ねる。

「じゃあ……俺のこともっと知ったら、好きになってくれる?」
「……わ、わかんねぇよ、そんなの」

律のすらっとした大きな手が、熱を持つ俺の頬を優しく包み込んだ。

「顔は、正直なんだね」

そう囁いて、あいつは名残惜しそうに、また俺の唇にそっと自身の唇を落とした。律の背後にこれでもかと飛び交うキラキラのオーラが、今はやけに鬱陶しく、そして暴力的なまでに眩しかった。

「いいよ。じゃあ、友達から始めよう」

ようやく俺の身体から離れた律は、屋上の出口へと歩き出した。重い鉄のドアに手をかけ、まだ赤面したまま固まっている俺を振り返ると、あいつは意地悪く、だけど極上の笑みを浮かべてみせた。

「すぐに、俺のものにしてみせるから」

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それから数日後。
噂話の主人公となった俺は、顔面蒼白のまま校舎の入り口をくぐっていた。別の意味での学校の超有名人となり、皐月宏斗のイメージは今や完全に、

【 如月律にキスされた男 】
として定着してしまっていた。

どんよりとした気分のまま、靴箱にローファーを入れ、上履きを取り出そうとした、その瞬間。後ろから覆いかぶさるようにして、頭上から影が落ち、ガタッと靴箱に手が突かれた。俗に言う、完璧な角度の『壁ドン』だった。

「宏斗、おはよう」

朝の瑞々しい日光を浴びて、朝一からこれでもかと輝かしいオーラを纏った律が、空間に華を咲かせながら俺を見下ろしている。案の定、周囲の廊下の奥から、ざわざわと女子生徒たちが集まってくる気配がした。

「き、如月……おはッ……」

“おはよう”と言いかけた瞬間、俺の頬を細い指先がピッとつまんだ。律は少し不満げに眉をひそめる。

「律、って呼んでよ」

今まで誰も見たことのないような、如月律のどこか甘えるような表情と言動。その破壊力に、背後で『バタバタバタッ!!』と、何人かの女子生徒たちが白目を剥いてリアルに倒れていく音が響いた。それはそうと、今まで感情の起伏がゼロだった彼が、こんなに表情をコロコロ変えるなんて、全校生徒の誰も想像していなかっただろう。

「お、おはよう……りつ」

俺が観念して名前を呼ぶと、律は嬉しそうに目を細め、ほんの少しだけその白い頬を赤らめた。

ドサッ、バタアンッ!!

そして、またしても心臓を撃ち抜かれた女子生徒たちが次々と廊下に倒れ伏す音が、盛大に響き渡ったのだった。