生まれた時からずっと、何もかもが思い通りに上手く行く人生だった。
恵まれた容姿、類稀なる才能。大して努力をしなくとも周囲からは過剰に褒めちぎられ、ただ廊下を歩くだけで都合よく劇的な風が吹き、こちらから笑いかけずとも人は勝手に群がってくる。
世界から祝福された“選ばれた人生”のようでいて、その実態は、ただただ退屈で空っぽな人生だった。
『如月律! 次の50m走、俺と勝負しろよ!』
だけど、高校に入学してから、俺の灰色だった世界にほんの少しだけ鮮やかな色彩が宿った。幼い頃から腫れ物を扱うように遠巻きにされ、対等に接してくれる人間なんて一人もいなかった俺に、毎日毎日、懲りずにしつこく勝負を仕掛けてくる男が現れたのだ。
皐月……宏斗。隣のクラスの奴か
『おい! お前足早すぎんだろ!! ふくらはぎにエンジンでも仕込んでるのかよ!』
最初は、ただの“鬱陶しくてうるさい奴”としか思っていなかった。運動の勝負ならまだしも、お世辞にも頭が良いとは言えない癖に、定期テストの点数でまで無謀な勝負を仕掛けてきた。もちろん、俺がすべての勝負事で負けるはずはなかった。でも、結果がどうであろうと、いつの間にか、彼が持ってくる無茶苦茶な挑戦状を、胸の奥で密かに楽しみにしている自分がいた。
けれど……いつしか、皐月は俺に勝負を仕掛けて来なくなった。
友達に、なれるんじゃないかって……ほんの少しだけ、期待してたのに、そんなのはただの独りよがりな勘違いであり、無様に期待してしまった自分がひどく馬鹿馬鹿しかった。
_____________
時は無情に過ぎ去り、季節は夏休みに入った。
クーラーの冷気で冷え切った自室で、所在なく漫画を読んでいると、手元のスマホが小刻みに通知音を鳴らした。
『律にぃ! 駅まで迎えに来て!』
妹の梨乃からの連絡だった。毎回毎回、帰りの足のことも考えずに大量の買い物をし、俺を荷物持ちとして呼び出す始末。深くため息を吐きながらも、俺はサンダルを引っ掛けて玄関を出た。
「あっつ……」
容赦なく照りつける太陽の下に出ても、俺の顔に不快な汗がベタベタと滲むことはなく、常に白銀の髪はサラサラと涼しげに風になびいていた。自分でも、つくづくおかしな体質だと思う。周囲の女子からも『律くんの周りだけいつも涼しそう』なんて言われるけれど、俺だって普通に暑いし、普通に汗くらいかく。
「おっそい!」
駅前では、梨乃がいくつものブランドの紙袋をぶら下げて日傘を差していた。その重い紙袋を回収するのは、俺の役目だと口に出さずとも分かっている。無言で荷物を持ち上げ、家の方へと歩き出す。
『あ、律にぃ、あっちの角曲がって帰ろ』
「……遠回りじゃん」
『お願い、お願い!!』
強引に腕を引っ張られ、梨乃に流されるまま俺はある角を曲がった。そこは、視界が一気に開ける開放的な土手沿いで、西日が差し込んで少しだけ日が落ちかけていた。
『あ、聞こえる……』
梨乃が足を止め、耳を澄ますようにしてそっと目を閉じた。
「何が?」
『ほら、聞こえない? ……ギターの音』
妹に促されるまま、俺も雑音を排して耳を澄ます。すると確かに、風の向こうからほんの少しだけ、荒々しく弾かれる弦の音が聞こえてきた。目を開けると、梨乃は先に土手の斜面を駆け上がり、遠くの景色を眺めていた。
『あ、あれだ!』
「おい、ちょっと、先に行くなよ」
生意気な妹に振り回されながら、重い荷物を抱えて土手を上る。すると遠くの河川敷に、何人かの人影が見えた。制服を着崩した、ちょうど俺たちと同い年くらいの背格好。
『ちょっと近くまで行ってみようよ……』
「あ、おい、待てって」
『私、前からずっと気になってたんだよね、この音……』
好奇心に導かれるまま、梨乃の足取りはどんどん早まっていく。しかし、そこに佇んでいる人物の正体に気づいた瞬間、俺の足は地面に縫い付けられたようにピタリと止まった。
「皐月……?」
そこにいたのは、見たこともないほど気持ちよさそうに笑っている男だった。あの、うるさくて、負けず嫌いで、いつも俺に向かって不格好に突っかかってきていた、あの皐月宏斗が。大事そうにギターを抱え、首筋の汗を夕日に光らせて、世界の誰よりも楽しそうに、熱く音を鳴らしていた。
ビリビリと痺れるような激しいノイズが心臓を直撃し、一瞬、リアルに息が止まった。
“俺の知らない皐月宏斗”が、そこにいた。
俺の前では決して見せなかった、あんなに柔らかく眩しい笑顔。俺の知らない、掠れた熱い声。俺の知らない、焦がれるような音楽への情熱。そのすべてが、どうしようもなく胸の奥をギチギチと締め付けた。
『すっご……あの人、ギターめちゃくちゃうまい……』
「……梨乃、帰るよ」
『え? あ、ちょっと、律にぃ! 待ってってば!』
くるりと背を向けた瞬間、土手を突風が強く吹き抜けた。けれど分かっていた。これは俺のために吹いたいつもの風じゃない。皐月の放つ圧倒的な音に呼ばれたみたいに、土手の上を激しく駆け抜けていったんだ。
やっぱり、俺は皐月と友達になりたいのだろうか。胸の中にずっしりと居座る、この酷くモヤモヤとした不快な気持ちを晴らすには、プライドなんて捨てて、正直に「友達になってくれ」と言うべきなのか。生まれて初めて直面する制御不能な感情に、戸惑いを隠せなかった。
文化祭の日……あいつに、話しかけてみるか
_____________
「皐月、軽音部の部長が裏で呼んでるよ」
文化祭当日。タイミングよく、軽音部の部長から「皐月を呼んでほしい」と頼まれ、俺は初めて自分からあいつに声をかけた。心臓がうるさかった。
けれど、皐月は、俺の目を一切見ようとしなかった。
また、胸の奥が痛いくらいに苦しくなる。拒絶されたような寂しさに耐えかねて、咄嗟にその腕を掴んで彼を困らせてしまう。違う。そうじゃない。
俺は、ただ……お前と友達になりたいだけで……。
冷たく振りほどかれた自分の手を見つめながら、心の中にあるドス黒い衝動が、確かに疼くのを感じていた。
_____________
クラスの出し物である執事喫茶は、信じられないほどの大盛況だった。ひっきりなしに女子生徒たちに囲まれ、写真を求められ、体力も精神もとっくに限界を迎えていた。その時だった。
『ねえ、13時から体育館で軽音部のライブがあるらしいよ』
近くにいた客の何気ない会話が、弾かれたように耳に飛び込んできた。慌てて壁の時計を確認する。
12時50分……あと10分で、あいつのステージが始まる。
周囲を見渡しても、次々と客が押し寄せていて絶対に抜け出せるような状況ではなかった。それでも俺は、すべてを放り出してタキシードの上着を脱ぎ捨て、教室を全力で飛び出していた。
“ ―――ジャーーーーーーーッ !!!”
体育館に到着した瞬間、割れんばかりのギターの音が鼓膜を震わせた。出口付近で「地味だから」と帰ろうとしていた生徒たちが、その音に圧倒されて呆然と足を止める。俺はその人混みを強引にかき分け、体育館の最前線へと這い進んだ。
『聴いてください。『レプリカ』』
皐月がマイクを握り、紡ぎ出したその旋律は、鼓膜なんかじゃなく、俺の心臓のド真ん中に直接ドクドクと流れ込んでくるみたいだった。気づけば、帰ろうとしていた生徒たちが吸い寄せられるように引き返し、ステージのあいつを囲んで熱狂の渦を作っていく。
汗に濡れた指先で、激しく弦を弾くたび、世界を震わせるような音が体育館中を真っ直ぐに貫いていく。俺はただ、呆然と立ち尽くしたまま、光の真ん中で輝く皐月だけを狂ったように見つめていた。
あぁ……違う。
俺は、あいつと「友達」になんてなりたくない。そんな綺麗な関係を望んでいるんじゃない。
俺は。
この手で、皐月宏斗のすべてを奪って、自分だけのものにしたいんだ。
恵まれた容姿、類稀なる才能。大して努力をしなくとも周囲からは過剰に褒めちぎられ、ただ廊下を歩くだけで都合よく劇的な風が吹き、こちらから笑いかけずとも人は勝手に群がってくる。
世界から祝福された“選ばれた人生”のようでいて、その実態は、ただただ退屈で空っぽな人生だった。
『如月律! 次の50m走、俺と勝負しろよ!』
だけど、高校に入学してから、俺の灰色だった世界にほんの少しだけ鮮やかな色彩が宿った。幼い頃から腫れ物を扱うように遠巻きにされ、対等に接してくれる人間なんて一人もいなかった俺に、毎日毎日、懲りずにしつこく勝負を仕掛けてくる男が現れたのだ。
皐月……宏斗。隣のクラスの奴か
『おい! お前足早すぎんだろ!! ふくらはぎにエンジンでも仕込んでるのかよ!』
最初は、ただの“鬱陶しくてうるさい奴”としか思っていなかった。運動の勝負ならまだしも、お世辞にも頭が良いとは言えない癖に、定期テストの点数でまで無謀な勝負を仕掛けてきた。もちろん、俺がすべての勝負事で負けるはずはなかった。でも、結果がどうであろうと、いつの間にか、彼が持ってくる無茶苦茶な挑戦状を、胸の奥で密かに楽しみにしている自分がいた。
けれど……いつしか、皐月は俺に勝負を仕掛けて来なくなった。
友達に、なれるんじゃないかって……ほんの少しだけ、期待してたのに、そんなのはただの独りよがりな勘違いであり、無様に期待してしまった自分がひどく馬鹿馬鹿しかった。
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時は無情に過ぎ去り、季節は夏休みに入った。
クーラーの冷気で冷え切った自室で、所在なく漫画を読んでいると、手元のスマホが小刻みに通知音を鳴らした。
『律にぃ! 駅まで迎えに来て!』
妹の梨乃からの連絡だった。毎回毎回、帰りの足のことも考えずに大量の買い物をし、俺を荷物持ちとして呼び出す始末。深くため息を吐きながらも、俺はサンダルを引っ掛けて玄関を出た。
「あっつ……」
容赦なく照りつける太陽の下に出ても、俺の顔に不快な汗がベタベタと滲むことはなく、常に白銀の髪はサラサラと涼しげに風になびいていた。自分でも、つくづくおかしな体質だと思う。周囲の女子からも『律くんの周りだけいつも涼しそう』なんて言われるけれど、俺だって普通に暑いし、普通に汗くらいかく。
「おっそい!」
駅前では、梨乃がいくつものブランドの紙袋をぶら下げて日傘を差していた。その重い紙袋を回収するのは、俺の役目だと口に出さずとも分かっている。無言で荷物を持ち上げ、家の方へと歩き出す。
『あ、律にぃ、あっちの角曲がって帰ろ』
「……遠回りじゃん」
『お願い、お願い!!』
強引に腕を引っ張られ、梨乃に流されるまま俺はある角を曲がった。そこは、視界が一気に開ける開放的な土手沿いで、西日が差し込んで少しだけ日が落ちかけていた。
『あ、聞こえる……』
梨乃が足を止め、耳を澄ますようにしてそっと目を閉じた。
「何が?」
『ほら、聞こえない? ……ギターの音』
妹に促されるまま、俺も雑音を排して耳を澄ます。すると確かに、風の向こうからほんの少しだけ、荒々しく弾かれる弦の音が聞こえてきた。目を開けると、梨乃は先に土手の斜面を駆け上がり、遠くの景色を眺めていた。
『あ、あれだ!』
「おい、ちょっと、先に行くなよ」
生意気な妹に振り回されながら、重い荷物を抱えて土手を上る。すると遠くの河川敷に、何人かの人影が見えた。制服を着崩した、ちょうど俺たちと同い年くらいの背格好。
『ちょっと近くまで行ってみようよ……』
「あ、おい、待てって」
『私、前からずっと気になってたんだよね、この音……』
好奇心に導かれるまま、梨乃の足取りはどんどん早まっていく。しかし、そこに佇んでいる人物の正体に気づいた瞬間、俺の足は地面に縫い付けられたようにピタリと止まった。
「皐月……?」
そこにいたのは、見たこともないほど気持ちよさそうに笑っている男だった。あの、うるさくて、負けず嫌いで、いつも俺に向かって不格好に突っかかってきていた、あの皐月宏斗が。大事そうにギターを抱え、首筋の汗を夕日に光らせて、世界の誰よりも楽しそうに、熱く音を鳴らしていた。
ビリビリと痺れるような激しいノイズが心臓を直撃し、一瞬、リアルに息が止まった。
“俺の知らない皐月宏斗”が、そこにいた。
俺の前では決して見せなかった、あんなに柔らかく眩しい笑顔。俺の知らない、掠れた熱い声。俺の知らない、焦がれるような音楽への情熱。そのすべてが、どうしようもなく胸の奥をギチギチと締め付けた。
『すっご……あの人、ギターめちゃくちゃうまい……』
「……梨乃、帰るよ」
『え? あ、ちょっと、律にぃ! 待ってってば!』
くるりと背を向けた瞬間、土手を突風が強く吹き抜けた。けれど分かっていた。これは俺のために吹いたいつもの風じゃない。皐月の放つ圧倒的な音に呼ばれたみたいに、土手の上を激しく駆け抜けていったんだ。
やっぱり、俺は皐月と友達になりたいのだろうか。胸の中にずっしりと居座る、この酷くモヤモヤとした不快な気持ちを晴らすには、プライドなんて捨てて、正直に「友達になってくれ」と言うべきなのか。生まれて初めて直面する制御不能な感情に、戸惑いを隠せなかった。
文化祭の日……あいつに、話しかけてみるか
_____________
「皐月、軽音部の部長が裏で呼んでるよ」
文化祭当日。タイミングよく、軽音部の部長から「皐月を呼んでほしい」と頼まれ、俺は初めて自分からあいつに声をかけた。心臓がうるさかった。
けれど、皐月は、俺の目を一切見ようとしなかった。
また、胸の奥が痛いくらいに苦しくなる。拒絶されたような寂しさに耐えかねて、咄嗟にその腕を掴んで彼を困らせてしまう。違う。そうじゃない。
俺は、ただ……お前と友達になりたいだけで……。
冷たく振りほどかれた自分の手を見つめながら、心の中にあるドス黒い衝動が、確かに疼くのを感じていた。
_____________
クラスの出し物である執事喫茶は、信じられないほどの大盛況だった。ひっきりなしに女子生徒たちに囲まれ、写真を求められ、体力も精神もとっくに限界を迎えていた。その時だった。
『ねえ、13時から体育館で軽音部のライブがあるらしいよ』
近くにいた客の何気ない会話が、弾かれたように耳に飛び込んできた。慌てて壁の時計を確認する。
12時50分……あと10分で、あいつのステージが始まる。
周囲を見渡しても、次々と客が押し寄せていて絶対に抜け出せるような状況ではなかった。それでも俺は、すべてを放り出してタキシードの上着を脱ぎ捨て、教室を全力で飛び出していた。
“ ―――ジャーーーーーーーッ !!!”
体育館に到着した瞬間、割れんばかりのギターの音が鼓膜を震わせた。出口付近で「地味だから」と帰ろうとしていた生徒たちが、その音に圧倒されて呆然と足を止める。俺はその人混みを強引にかき分け、体育館の最前線へと這い進んだ。
『聴いてください。『レプリカ』』
皐月がマイクを握り、紡ぎ出したその旋律は、鼓膜なんかじゃなく、俺の心臓のド真ん中に直接ドクドクと流れ込んでくるみたいだった。気づけば、帰ろうとしていた生徒たちが吸い寄せられるように引き返し、ステージのあいつを囲んで熱狂の渦を作っていく。
汗に濡れた指先で、激しく弦を弾くたび、世界を震わせるような音が体育館中を真っ直ぐに貫いていく。俺はただ、呆然と立ち尽くしたまま、光の真ん中で輝く皐月だけを狂ったように見つめていた。
あぁ……違う。
俺は、あいつと「友達」になんてなりたくない。そんな綺麗な関係を望んでいるんじゃない。
俺は。
この手で、皐月宏斗のすべてを奪って、自分だけのものにしたいんだ。


