ひろくんのヒーロー様

夏休みが明け、学校中が浮き足立つ中、いよいよ文化祭当日を迎えた。

『ねえ! 5組の如月くんやばいっ!!! 本物の王子様じゃん、あれ!!』
『みんな如月くんを一目見ようとして、廊下まで大行列だよ!』
『執事服姿、マジで、死ぬ……っ』

校舎のどこを歩いても、聞こえてくるのはその名前ばかり。そして当然のように、今日も如月律がこの世界の『絶対的な主役』だった。

「まーた背後に大輪の薔薇が咲き誇ってるわ」

ふんっ、と窓際で悪態をつきながらも、高級なタキシードを完璧に着こなすあいつの姿に、正直ほんの少し見惚れてしまっている自分もいた。文化祭の執事喫茶、ホスト、コスプレ、ロミオとジュリエット。これらは少女漫画における絶対的なお約束だ。ただそこに衣装を着て立っているだけで、世界中の視線と称賛を独り占めにする彼が、今の俺には痛いほど羨ましかった。

「皐月。軽音部の部長が、裏で呼んでるよ」

いつの間にか女子の群れを抜け出してきた律が、静かに俺の名を呼んだ。タキシードの襟元を正す仕草すら、計算されたように美しい。

「あー……どうも」

大人げないとは分かっていたが、どうしても目を合わせる気になれず、ぶっきらぼうに席を立ち上がった。その瞬間……ぐい、と強い力で腕を引っ張られた。

「……っ!?」

よろめいた視界の先、シトラスの爽やかな香りが、真っ直ぐに俺の鼻腔へと滑り込んでくる。驚いて顔を上げると、至近距離に律の顔があった。

「皐月って……軽音部だったの?」
「……は?」

腕を引っ張ってまで聞くような内容かよ、と声に出そうになった。しかし、律の切れ上がった美しい瞳は、微かな焦燥を孕んだまま、じっと俺の目を射抜いて逸らそうとしない。その真剣すぎる眼差しに気圧されそうになる。

「いや、文化祭の助っ人として弾くだけだし……っていうか、手、離せよ」

宏斗は急激に跳ね上がった心拍数を隠すように、挙動不審になりながら一歩後ろに下がった。今更ながら、この如月律という男から真っ向から絡まれると、とてつもない圧迫感がある。

「……先輩が待ってるから、行くわ」

掴まれていた腕を振り払い、宏斗は逃げるように教室を後にした。“如月律”を見るたびに、胸の奥がチクチクと苦しくなる。自分がどれだけ平凡な異分子なのかを思い知らされ、自分の持っていないものをすべて最初から与えられている彼が、どうしても妬ましかった。

ギターケースを肩に担ぎ、騒がしい廊下を出ると、入り口で部長が待っていた。いつもはボサボサの髪の毛を珍しくワックスでセットしていて、俺と目が合うと、少し恥ずかしそうに頬をかいた。

『最後の文化祭だからさ、ちょっと気合い入れてみたんだ!』

その不器用な笑顔を見た瞬間、胸の奥のモヤモヤがすっと消えていくのが分かった。嬉しかった。自分が作った曲で、誰かの心に火が灯ること。誰かの特別な思い出の中に、自分が残れること。そして、それを繋ぐのが、お姉ちゃんに教わった「音楽」だということ。

「今日のライブ、絶対に成功させましょうね」

宏斗は部長の背中をポン、と軽く叩き、二人の戦場である体育館へと向かった。

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『軽音部、13時からライブやるらしいよ』
『えー、でもウチの軽音部ってなんか地味じゃん。』

本番30分前。
ステージ裏から覗く体育館は、直前まで行われていたお笑いライブのおかげでそれなりの人数が集まっていた。けれど、彼らの用が済んだら一斉に帰ってしまうだろうな、という不穏な予感が肌を刺す。

『以上、ありがとうございましたーーーー!!』

芸人の生徒たちがステージを降り、宏斗たちの心拍数が徐々に跳ね上がっていく。そして予感は的中し、お笑いが終わった瞬間に生徒たちは一斉に席を立ち、出口へと向かい始めた。

後ろを振り向くと、部長たちは顔をこわばらせ、張り付けたような笑顔で宏斗の背中を叩いた。大丈夫、大丈夫だから、と繰り返すその手が、ものすごく苦しい、と泣き叫んでいるようにも聞こえた。

ステージの上から、体育館の出口へ向かう生徒たちの冷たい背中を見つめる。
ギターを握る手が震えた。悔しくて、悲しかった。でも何より、俺たちの曲を1秒も聴きもしないで「地味だから」という理由だけで見向きもされないことが、たまらなく苦しくて、悔しかった。

如月なら、ただそこに立つだけで、嫌でも人が集まるんだろうな。如月なら……

“ ―――ジャーーーーーーーッ !!!”

突然、鼓膜を破らんばかりの爆音が体育館中に鳴り響いた。歪んだギターの激しいフィードバック音。その圧倒的な音圧に、出口へ向かっていた生徒たちが一斉に足を止め、驚いたようにステージへと振り返る。

音の正体は、部長だった。
震えた手でギターを抱え、前髪を振り乱して不敵に笑う部長の横顔を眺めながら、宏斗は突き動かされるようにマイクを両手で強く握りしめた。

「聴いてください。『レプリカ』」

ドン、と重いドラムの合図と共に、激しい前奏が幕を開ける。
完全に足を止めた生徒たちが、一人、また一人とステージへと身体を向け、吸い寄せられるように波となって集まってきた。

苦しい時ほど、いい音が出るんだって――

お姉ちゃん……俺、今めちゃくちゃ苦しいよ。やっぱり俺は、あいつみたいな本物のヒーローにはなれない。けれど、胸の奥から溢れ出るドス黒い劣等感も、不格好なプライドも、すべてを濁流のような感情に変えてギターの弦へと叩きつける。激しい衝動のままサビへ突入する瞬間、前髪を振り払って、俺はフロアを真っ直ぐに見据えた。

その瞬間に、あいつの姿が視界に飛び込んできた。

客席の最後列。人混みの向こう側で、タキシード姿の如月律が、今まで見たこともないような、魂を射抜かれたような衝撃の表情で、ステージの俺を呆然と見つめていた。

あぁ、……勝った

初めて、この世界の完璧なヒーローに、自分の力で勝った気がした。
曲が終わった瞬間、体育館は割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。地鳴りのようなアンコールの嵐。部長はぐしゃぐしゃに涙を流しながら笑っていて、他の部員たちも泣きながらハイタッチを交わしている。世界が自分を肯定してくれているような、最高の瞬間だった。

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『皐月くん! すごくかっこよかった!!』
『歌もギターも上手すぎて鳥肌立ったんだけど!』

ライブが終わった直後の廊下で、予想外の超展開が待っていた。今まで空気のようなモブ存在だったはずの宏斗の前に、今日、生まれて初めて女の子たちに黄色い声で囲まれるという“特大のラブコメイベント”が発生したのだ。

「ま、まあ、大したことないよ。これくらい普通だって」

いざキャーキャー言われて囲まれると、日頃研究していたはずの「ミステリアス(風)ヒーロー」の成果は1ミリも発揮できなかった。キザなセリフはどこかへ消え去り、そこにいたのはただ耳まで真っ赤にした純情な赤面ボーイである。だが、これは千載一遇のチャンスだ。ここで格好つけなきゃ男がすたる。

「でも……ライブ、来てくれてありがとな」

フッと少し目を伏せ、必殺の爽やかスマイルを繰り出した…その瞬間。
計算し尽くしたかのようなタイミングで、窓から劇的な風が吹き抜けた。廊下に飾られた文化祭の装飾が揺れる。

来た……っ!! とうとう、俺の主人公時代が到来したんじゃねぇの、これ……!?

脳内で大勝利のファンファーレが鳴り響いた、まさにその刹那だった。

“ コツ、 コツ、 コツ ”

静かに、だけど確かな存在感を放つ足音が近づいてくる。
その音が響くたび、俺を囲んでいた女子たちの空気が一瞬で引き締まり、ざわつき始める。彼女たちの視線が、一斉に宏斗の後ろへと釘付けになった。

「如月、……っ」

ゆっくりと振り返った俺の視線が、こちらへ向かって歩いてくる如月律と、真っ正面からぶつかった。タキシードの胸元を少しはだけさせ、狂気的なまでに力強い瞳で俺だけを見つめている。そのただならぬオーラに圧され、心臓が跳ねて思わず一歩後ずさった。

「皐月」

低い声が鼓膜を揺らした瞬間、有無を言わさない強引な力で腕を引っ張られた。世界が反転する。抵抗する隙なんて、1秒も与えられなかった。

視界を埋め尽くす白銀の髪と、激しいシトラスの香り。
次の瞬間、律の熱いピンク色の唇が、俺の唇を容赦なく、完全に覆い尽くしていた。