重なる指先、恋の温度。

 後夜祭以来、九条くんとは会っていない。
 感傷に浸る間もなく中間テストの準備で忙しくなり、日々は刻々と過ぎ去っていった。気づけばもう七月。夏休みがすぐそこまで近づいていた。
 九条くんの噂は、変わらずよく耳に入っきた。最近では、八尋君とのダブルエースのコンビネーションがやばい、というのをクラスの女子が楽しそうに話しているのを聞いた。他校との試合を控えて、どうやらスランプからは脱却したらしい。
「よかったね」
 誰でもない、花壇の花たちに向かって呟く。これぞ穏やかな日常だ。けれど以前と比べて寂しく感じるのは、やっとの思いで胸の奥に閉じ込めた恋心のせいなのか。
 俺は、朝の水やりを以前よりもっと早い時間に変えた。
 もともと早起きすぎるじいちゃんの園芸店を手伝ってから登校していたし、夏だから陽が登るのが早く、涼しいから苦じゃない。
 今日も穏やかな一日にしよう。そう思いながら温室の掃除を始めた。テスト明けだからか、温室内も疲れて見える。
 一通り作業を終えた頃には、じわりと汗をかいていた。
 園芸部日誌を書いて、自販機で冷たい飲み物でも買おう。そんなことを考えながらページをめくると、はらりと何かが滑り落ちた。
「付箋?」
 黄色の正方形をしたよく見るやつだ。
「なんだろう」
 裏返しになったのを拾って見てみると、表に何か書いてある。
【日野へ。テストお疲れ。七月〇日、朝十時から、うちの体育館で試合があるんだ。よかったら見に来てほしい。九条陽介】
 読みながら、息が止まるかと思った。付箋を持つ手が細かく震えて、心臓はバクバクと大きく鼓動している。
 少し右上がりに並んだ文字は、一文字一文字が明瞭で、九条くんの明るく優しい人柄そのものだ。メッセージでも電話でもないのは、きっと彼の気遣いだろう。
 ゆっくり息を吐いて大きく吸う、を何度か繰り返し、やっとうまく息ができる気がした。
『日野が見てくれてるって思うだけで、やる気が出るから』
 以前にそう言われたことを思い出す。もしかして、調子が悪いままなのだろうか。
 でも、一方的に九条くんのことを突き放して避け続けているのに。心配する権利なんてないよな……。
 俺はそっと、付箋を鞄にしまった。



 キュッ、キュキュッと、靴がコートに擦れる音が響く。ボールが跳ねて、応援する声が飛び交っている。
 俺はちょうど胸の高さのところにある通気窓から、体育館内を覗いていた。
 たぶん、傍から見ればめちゃくちゃ怪しいやつだが。今日は土曜日。一般の生徒はいないし、ここは人が通らない裏側だから、きっと誰にも見られないはずだ。
 九条くんの付箋は捨てられなかった。
 ここ一週間、毎日眺めては九条くんのことを考え、悩んで。朝、起きられずじいちゃんの手伝いをすっぽかしてしまうくらい、寝不足になった。
 試合を見に行くべきか否か。働いてくれない頭でぐるぐると考えた挙句、気づけば足は勝手に学校へ向かっていた。
(少しだけ見て、試合が終わる前に帰ればいい)
 そう思っていたのだけど。
 コートの中で、水を得た魚みたいに躍動する九条くんのプレーから目が離せず、試合終了のホイッスルでやっと我に返ったのだった。結果はうちの学校の勝利。嬉しいけど、今ここを動くのは得策ではない。
(人が()けるのを待って帰るか……)
 その場に座って時間が過ぎるのを待つ。しかし、ゴロゴロ、と空が唸る音がして頬に雨粒がひとつ当たった。
 雨の予報なんてあったっけ? スマートフォンで検索したら、昼頃に夕立、となっている。
「さいあく」
 思わず悪態が口をついた。いつもなら、外出前に天気予報はチェックするのに。すっかり失念していた。傘なんて持ってきていない。
 どうしよう、と考えているうちにどんどん雲行きは怪しくなっていく。そしてついには、次々に大粒の雨が落ち始めた。ここでは雨を避けられそうにない。
 仕方ない。俺は体育館を挟んでちょうど反対側にある温室を目指して走った。

 ポリカーボネートの屋根に、バチバチと雨が当たる音がする。
 なんとか雨宿りできたはいいが、ここに来るまでの数分でずぶ濡れになってしまった。シャツが肌に張り付いて気持ち悪い。
 勢いを増した雨は、しばらく止みそうにない。あきらめて、置いてある椅子に腰かけた。
 温室の半分には、九条くんと種まきをした向日葵が蕾をつけ、今か今かと開花を待っている。高さは俺と同じ、百六十八センチくらい。こうして座って見ると、それなりに迫力がある。
 おそらくあと数日で黄色い大輪が拝めそうだ。
「でも、九条くんと一緒には見れないなぁ……」
 あんなに一生懸命、世話をしてくれていたのに。心底残念だと思う。はあ、と大きなため息をついたとき、「一緒に見ようよ」と雨音に混ざって聞き慣れたよく通る声が聞こえた……気がした。
 試合後、他の部員たちに囲まれていた九条くんは、もうずいぶん前に体育館を出たはずだ。
「ついに空耳がしだしたか」
 よほど寝不足が祟ったのかと思いながらつぶやくと、「空耳じゃないけど」と、今度は耳のすぐそばで声がした。
 弾かれるように振り返れば、慣れ親しんだ顔。
「く、九条くん?!」
「うん。久しぶり」
 俺があまりにも呆然としすぎたせいか、九条くんがくすりと微笑んだ。変わらず、爽やかでかっこよくて優しい。ユニホーム姿が新鮮だ。
「試合、見に来てくれてただろ?」
 少し首を傾げた彼が問う。俺は突き放した手前、なんだか素直になれずに目が泳いだ。
「ちが……、水やり。そう、水やりに来てただけだよ」
 苦し紛れの言いわけにもほどがある。が、もう引き返せない。
「うそ。園芸部は土日は休みだって、教えてくれたの日野じゃん」
「そっ、そんなこと言った……かな?」
 ははは、と笑いでごまかしてみるが、効果が無いのはわかっている。明らかに挙動不審な俺。九条くんはついに、吹きだしてしまった。
「嘘つくの下手すぎ。頭いいのに、そういう所はポンコツなんだな、日野は」
「ぽっ、ポンコツって……!」
 開いた口が塞がらない。けど、嫌ではなかった。だって、本当に楽しそうに九条くんが笑うから。
 つられて頬が緩みそうになるのを必死にこらえていたら、「ごめん」と謝られてしまった。笑みを残した眼差しが俺に注がれる。
「なあ、本当のこと言ってよ。試合身に来てくれてたよね?」
 さっきと同じ質問。これは、正直に白状するしかなさそうだ。
「……うん」
「園芸部は休みだよね?」
「うん」
「俺を突き放したのは、俺のため?」
「うん。……ん? あ、え?」
 頷いたはいいけれど、いつの間にか話の方向が変わっている。だが気づいた時には既に遅し。九条くんは「やっぱりね」と納得顔だ。
「日野のことだから、そうだと思ってた」
 全部見透かしたような涼やかな目元が俺に向く。俺は詳しい説明もせず、一方的に彼を遠ざけたのに。
「どうして?」
 疑問が口をついて出た。
「日野は俺のことを九条陽介として見てくれたからかな」
「へ?」
 なんの滞りもなく発せられた言葉に、更に疑問は深まる。
「俺のこと、努力の人だって言ってくれただろ? 俺の周りのやつらは、みんな俺の見た目とかバスケ部のエースとか、表面だけ見て中身は見ようとしないんだ。でも、日野だけは俺の本質を見てくれた」
 嬉しかったんだ、と九条くんがふわりと笑顔になる。
「それに、パワースポットだし」
 少しいたずらに彼が言った。
 九条くんと会わなくなってからずっと、胸に小さな棘が刺さったような感覚がずっとまとわりついていた。
 誠意は彼に通じていたのだ。そう思うと、すっと胸が軽くなった。恋は叶わなくても、友達ではいられそうだ。安心する前に、勝手に離れたことを謝らなくては。
「あの九条くん、ごめ……」
「新山とは何もないから」
 見事に被って二人とも無言になる。
 というか、今、新山って言った? それって、あの日中庭で俺が隠れていたことを……。
「……っ、知って……!?」
「うん、ごめんね。後夜祭で話すつもりだったんだ。でも、日野から退部を言い渡されてタイミング逃した」
「あ……」
 なんというすれ違い。自分の間の悪さを呪う。
 俺が言葉を失っていると、机を挟んだもう一つの椅子に座った九条くんの指が、雨で濡れた俺の頬を拭った。
「なあ、日野」
 真っすぐに、透明な雨粒が溜まったみたいに澄んだ瞳が俺を見た。
「好きなんだけど」
 いつもより少し低い、けれども甘さを残した声が、俺の鼓膜を揺らした。
 雨は降り続けているのに、温室の中は別世界のように静かだ。息苦しいくらい強く鼓動する心音が、空気を伝って聞こえてしまいそうだ。俺も好きだと言いたいのに、いろんな感情がない交ぜになって声にならない。
 はくはくと唇を喘がせていたら、ふ、と九条くんが目じりを下げた。
「友達としてじゃないよ。恋愛感情としてだから、勘違い禁止ね」
「うん。……うん、わかった」
 俯いて何度も頷く俺の横で、九条くんも「うん」と返してくれる。
 と、何かに気づいたように、はた、と身を固くした九条くんの手が頬に触れた。
「ていうか、こんなに震えてんの。このまま雨が止むのなんて待ってらんないな。風邪ひく」
 そしてしばし何やら思案した彼が、急に立ち上がった。
「どうしたの?」
 驚いて見上げる俺の手を取り、引き上げられた。
「俺の家、学校から近いんだけど」
「あ、そ、そうなの?」
 まだ止みそうにない雨が、温室の屋根を叩いている。近いと言っても、この雨脚ではすぐにずぶ濡れだ。だが、何を思ったのか、九条くんが問うた。
「日野、走れそう?」
「え? わ、待って……!」
 俺の返事を待たず、彼は俺の手をとったまま温室を飛び出した。
 バシャバシャと地面を蹴る音が続く。九条くんは時々俺に視線を配りながら、半歩前をぐんぐんと進んで行く。
 途中から耳に広がっていた雨音は遠ざかり、ただ頬に落ちる雨の感触と、二人分の吐息の音と。つかまれた熱い手の感触だけが俺の全部みたいになった。

「入って」
 あがった息を整えながら立ったのは、清潔感のある一戸建ての玄関の前。
「お邪魔します」
 濡れた体で足を踏み入れるのことに気が引けてかしこまると、「大丈夫だよ。誰もいないから」と手を差し伸べられた。そろりと彼の手を握ると、引き寄せられて玄関の戸が閉まった。
 九条くんのご両親は二人とも仕事で海外出張中、大学生のお兄さんは一人暮らしをしているらしい。「一人で大変じゃない?」と聞いたら、「いや、気楽でいいけど」と爽やかな答えが返ってきた。
 なんだか九条くんらしいなと感心していたら、バスルームに案内された。
「タオルはこれ使って。あと、着替えね。下着は新品。服は俺のだけど、ちゃんと洗ったやつだから。濡れた服はそこの洗濯機に突っ込んで。何かあったら呼んで」
 色々と手際よく準備して、さくさくと説明して九条くんは、自分はタオル一枚だけ持って出て行ってしまった。

 九条くんの服は、やはり思った通り俺にはぶかぶかだった。スウェットの袖もズボンの裾も、二回ずつ折り曲げた。そんなちんちくりんな姿でリビングにいた彼に声をかけたら、振り返るなり「あー」と、額に手を当て何やら悩まし気な表情を浮かべていた。
 なんとなく顔を赤らめた九条くんが、「ドライヤー、俺の部屋にあるから」と、部屋に通してくれた。
 九条くんの部屋は、すっきりと整っていて、石鹸みたいな温かい香りが広がっている。九条くんから時々するのと同じ香り。なんだか安心する。
 髪を乾かして、ほくほくしながらシャワー中の彼を待つ。外はまだ雨が降り続けている。
「なかなか止まないなあ」
 なんともない俺の呟きに、「だね」と、肩にタオルをかけた九条くんが入ってきた。
 二人掛けのコンパクトなソファにちょこんと座った俺の横で、わしゃわしゃと髪を拭き始める。
 彼の家なんだから当たり前だけど。自分と同じシャンプーの香りが彼から漂ってきて、少し落ち着かない気持ちになった。
「そうだ」
 手を止めた九条くんが、何やら机から取り出してきた。
「これさ、夏休みに一緒に行かない?」
 差し出されたのは、夏祭りのチラシ。ポストに入っていたらしい。
「いいの?」
 思わず聞くと、九条くんが大きく頷いた。
「もちろん。日野を誘おうと思って取っておいたんだよね」
 どや顔でも、かっこいいのは変わらない。会ってない間も、俺のことを考えてくれたのだと思うとくすぐったい気持ちでいっぱいになった。
「そっか。うん、えっと、誘ってくれて嬉しいです」
「敬語」
 軽くツッコまれて二人して笑う。
 なんだかすっかり元の俺たちに戻ったみたいで、嬉しかったりほっとしたり。しみじみと彼とまた話ができているんだと思うと、つんと目頭が熱くなった。
「日野? えっ、どうした? 俺、なんか変なこと言った?」
 すん、と(はな)をすすった俺を見て、九条くんがわかりやすく狼狽している。
「ごめん。九条くんとまたこうやって一緒に居られるのが嬉しくて。なんか急にぐっときた」
「手首が痛むとかじゃないんだよな?」
「うん。それはおかげさまで完治した。それよりもごめん、九条くん」
「どうして謝るの?」
 安堵しかけた彼の表情が忙しく、伺う色を浮かべる。
「だって、俺、園芸部に来なくていいなんて、勝手なこと言った」
 目に涙を溜めた目で見上げた九条くんは、頭を振る。「そんなこと」と慰めるように長い指が目元を優しく撫でた。
「九条くんの手、大きくて好き」
 戻っていく彼の手を両手で引き留めると、わずかに彼が息を呑むのがわかった。
「無防備すぎ」
「え?」
 九条くんがぼそりと溢した言葉がよく聞こえなくて聞き返すと、「こっちにの話し」と言われてしまった。
「日野」
 俺を呼んで、送られる眼差しが、なんだか甘い。色素が薄めの瞳に吸い込まれそう。と思ったら、いつの間にか九条くんの端正な顔が視界いっぱいにあった。
「ね、キスしていい?」
 吐息が唇にあたるほどの距離で聞かれて、俺は返事をする代わりに静かに目を閉じた。
 温かくて、柔らかな感触が唇に重なる。初めてのキスはひどく優しくて、心が震えるくらい熱かった。
 ゆっくりと唇が離れていく。
 目を開けると、こつんと額を合わせてきた九条くんと視線が絡んで、二人して照れ笑いした。
「そういえば。告白の返事、聞いてない」
「あ……、そういえば言ってない……ね」
 じ、と目線で催促されて、俺は恥ずかしさに戸惑う。けど、ちゃんと伝えなくては。
「好き。俺も、九条くんが好きだよ」
 膝の上で拳を作って言うと、待ってくれていた九条くんが蕩けるように微笑んだ。優しく引き寄せられて、俺をすっぽりと包んだ腕に、ぎゅうぎゅうに抱きしめられた。
「うん、俺も好き」
 すこし体が離れたかと思ったら、ちゅっ、と爽やかなキスが落ちた。
 それから俺たちは、雨が止んだことにも気づかないくらい、たくさん話をして過ごした。



「咲いたなあ」
「咲いたね」
 満開になった温室の向日葵を、九条くんと並んで見ている。
 日差しを浴びてキラキラとその美貌を輝やかせている九条くんも、向日葵みたいに綺麗だ。
「なあ」と大きな手が俺の手を取り、指を絡められる。
「俺、園芸部に復帰したいんだけど」
 だめ?と問われて、俺は数回の瞬きののち、「お願いします?」とまた拍子の抜けた返事をした。
 九条くんが笑い、俺もいっしょになって笑いだす。
 大輪の向日葵たちも、笑っているように見えた。

 END