「おはよ、日野」
今朝もいつも通り、温室横で水やりの準備をしていると、後ろから声がかかった。振り返れば、部室棟から体育館へと続く小道をはずれ、九条くんがこちらに歩いてきているところだった。
「九条くん……、おはよう」
少し息が上がっている彼は、半袖シャツにハーフパンツ姿だ。すでにひと運動終えてきたのだろう。
そういえば、朝、彼がランニングする姿をよく見かけていたことを思い出した。まだ九条くんだと認識する前だったから、俺より早く学校に来る人がいるんだ、くらいの感覚だったけど。ほとんど毎日見かけていたことに気づいて、こっそり改めて感心した。
「それ、今から水やり?」
側まで来た九条くんが、俺が握っているホースを指さした。
「うん。そ、そうだけど……」
園芸部がホースを持っている理由は一つしかないのは周知のこと。どうしてわざわざ聞くのだろうと睫毛を瞬かせていると、すっと長い腕が伸びてきた。
「貸して。俺がやる」
「えっ、九条くん?!」
大きな手が俺の手をかすめ、あっという間にホースを取られた。あたふたしているうち、花壇まで進んだ九条くんがこっちに向かって軽く手を振る。
「水出してー」
「あっ、うん」
蛇口をひねると、しばらくして「お、いい感じ」などど聞こえてくる。思いのほか慣れた様子で水をまく九条くん。花たちもどこか嬉しそうに見える。……じゃなくて。
「九条くん、いいよ。俺がするから」
急いで駆け寄って訴えたものの、「日野は休んで見てて」と一向にホースを渡してくれない。
「でも」と食い下がる俺をかわした九条くんが、ふと俺の左手に視線をよこした。
「怪我したとこ、どうだった? 痛くない?」
「うん、痛みはほとんど無いよ。軽度の捻挫だけど、大事を取って全治一か月だって言われた」
昨日、学校帰りに寄った整形外科で言われたことを伝えると、九条くんが気づかわし気に息を吐いた。
「そっかぁ。一か月はけっこう長いよな」
「うん……。でも、利き手じゃなくてよかったよ」
俺は包帯が巻かれた左手を軽く上げてみせると、九条くんが軽やかに言った。
「俺、園芸部に入るよ」
「な……っ、なんて?」
あまりにも想定外な発言に、俺は思わず大きな声で聞き返していた。
「ん? 聞こえなかった? 俺、園芸部に入ることにする」
少しこちらに身を乗り出して、ゆっくりと確かにそう言った九条くんを、俺はきょとんと見返した。どういうことだろう。
「日野、怪我したのに大変じゃん。ホース運んだり、土いじったりは毎日だろ? 俺がいれば、代わりにできるし」
俺が何も言わないまま呆然としているのを見て、九条くんがこてん、と首を傾けて聞いてくる。
「だめ?」
「だめ……とかじゃないけど、俺に決定権はないというか。でもっ、九条くんバスケ部は?」
俺の怪我を心配してくれるのはありがたいけど、バスケ部エースが何を言い出すのだろうか。
直接縁がなさそうな俺のクラスの理系女子たちでさえ、色めき立って噂をするほどの彼が。男子たちも一目置いているような彼が、園芸部に入るなんて。
それも、俺を気遣ってのことだなんて知れ渡ろうものなら、俺の穏やかで平凡な毎日がどうなるかわからない。なんだか頭の中が混乱してくる。しかし、当の九条くんはいたって爽やかだった。
「もちろんバスケ部は今まで通り。園芸部は、日野の手が治るまでの臨時部員ってやつ。どう?」
にっこりと言われて、拒みきれない自分がいて戸惑う。けれど臨時でも、九条くんにとってメリットなんてない。
思案する俺を、切れ長の瞳が真っすぐに見てくる。
「俺のせいで、日野が大変な思いするの嫌なんだよね」
真摯な視線は、本当に心からそう思っているんだと証明しているようだった。
でも、これだけは言える。
「俺が怪我したのは、九条くんのせいじゃないよ」
昨日からずっと、彼はなぜか責任を感じているようだけど、むしろ巻き込んでしまったのは俺の方だ。だけど、九条くんは納得していない様子で後ろ頭を掻いた。
「んー、でもあの時俺が声を掛けるのがもう少し早かったら、防げたことだったかもしれないし」
「だとしても、九条くんは悪くないと思うけど」
責めを受けるとするならば、ふざけ合っていた後輩の二人だろう。思い出して、む、と唇を少し尖らせる。すると、九条くんが小さく、ふ、と笑みをこぼした。
「日野って、意外と頑固なのな」
くくくっと、彼の肩が揺れる。
「頑固って、初めて言われたかも」
親にも言われたことのないことを、昨日知り合ったばかりの友達に言われるなんて。まぁ、親はそこまで俺のことを見ていなかっただけかもしれないけど。
俺がぽかんとして言うと、九条くんが慌てたように顔の前で手を振った。
「ごめん、違くて。しっかりしてるなって。いや、じゃなくて……」
ごめん、ともう一度九条くんが言って、また後ろ頭に手を突っ込んでいる。
「あいつらの先輩として連帯責任というか。本当は、俺が日野を手伝いたいだけ」
窺うような視線の九条くんが、優しく口角を上げた。
「へ……あ、う、うん」
なんというか、掛けられる言葉の端々が優しくて、胸の中がムズムズする。
俺の返事ともつかない声を肯定と捉えたのか、九条くんが「そういうことだから決まりね」と締めくくった。
「これ、片づけたらいい?」
ホースをまとめ始めた九条くんに、俺は再度「本当に園芸部に入る気?」と詰め寄った。
九条くんの手に、ホースの土がついているのを見て、やはり申し訳なくなったのだ。
「あとは俺がするからっ」
思わずホースを取ろう手が出た。だが、急に動かしたものだから、捻挫した左手首に痛みが走った。
「……痛っ」
思わず顔をしかめた俺を、「日野?!」と九条くんが心配そうに覗き込む。
「平気? ね、やっぱ俺がいたほうがいい」
九条くんの園芸部入部を、どうにか遠慮してもらいたかったのに。俺自ら席を用意した形になってしまった事に、内心落ち込んだ。もう、折れるしかない。
「う……ごめん。お願いします」
「了解」
そうして、するすると手際よくまとめられていくホース。俺は蛇口を閉めるだけで済んだのだった。
【五月〇日、午前八時。日野一葵・九条陽介(臨時)、水やり】
園芸部日誌に二人の名前が並んだ。書いているあいだ、九条くんはなんだか上機嫌で温室内の花たちを眺めていた。
温室の扉に鍵をかけると、九条くんと目が合った。
「じゃ、また放課後に来るね」
至極当然に言われた言葉に、俺は目を丸くした。
「放課後も来るの?」
「当然。園芸部だからな。日野も来るんじゃないの?」
「それはそうだけど」
「ん、じゃあとで」
制服に着替えるからと、部室棟へ走り去っていく九条くんの背中を見送る。
(本当に園芸部に入る気なんだ)
入部以来、ずっと一人で活動してきたのだ。新入生が入ってこない限り、部の存続も危うい。そんな弱小部に、キラキラのバスケ部のエースが兼部だなんて。
(俺、大丈夫か?)
なんとなくふわふわした足取りで、俺は自分の教室へと向かったのだった。
*
「なあ、これ何の種?」
放課後の温室。
宣言通りにやって来た九条くんが、俺の手の中にある縞模様の種をつつきながら聞いた。
「向日葵の種だよ。今年の夏は、ここを向日葵畑にしようかなって」
園芸部の温室は、スペースの半分は鉢植えの花や観葉植物が置いてあり、半分は畑になっている。その畑部分には、季節ごとに植える植物を変えているのだ。
「向日葵か、いいな」
かがんだ九条くんがスコップを手にザクザクと土をよけ、土に穴を開けていく。
「このくらい掘ればいい?」
「うん。いい感じ」
俺も並んで、向日葵の種をまくポケットを作る。
「意外と難しいもんだな」
隣で九条くんが思わず、というように言った。
「そうだね」
土いじりという極めて地味なことをしているのにも関わらず、ちらりと横目で見た彼の横顔は、煌めいて見えるほど端整だ。
授業後、直行で温室に来た九条くんは、制服のシャツの袖を捲り上げていて、そこから伸びる腕は逞しい。俺のひ弱な腕と勝手に比べ、同じ男としてちょっぴり情けない気持ちになった。
「でも九条くん、センスあると思う。仕事が丁寧だし」
俺が綺麗な横顔に向かって言うと、作業する手を止めた九条くんが、ぱっと表情を輝かせた。
「マジ? そんなに褒めてもらえると思ってなかったから嬉しいかも」
切れ長の目が、楽しそうに細められる。
朝の水やりの時も思ったけど、九条くんは細部まで気を抜かない人だと思った。花一本一本に水が行き渡るように水をかけていた。
たかが水やり、されど水やり。水やりは園芸の基本。園芸店を営む、じいちゃんの教えだ。
「じゃあ、種を穴に入れて、ふんわり土をかぶせて」
仕上げの水やりもして、向日葵の種まきは無事に終わった。
「あっという間だったな」
日誌を置いているミニテーブルを挟んで、俺と九条くんはそれぞれ椅子に座った。
温室のドアを入ってすぐ左、室内全体を見渡せる特等席だ。
「お疲れさまでした」
「うん、日野もな」
あとは毎日水やりをしつつ、発芽をのんびり待つだけだ。
俺は園芸部日誌をつけようと手を伸ばす。すると、九条くんが突然「あっ」と声をあげ、伸びてきた手にそっと左手をすくわれた。
「包帯、土ついてる」
「えっ、あ、ほんとだ」
気をつけて作業していたつもりだったけど、うっかり汚してしまったらしい。
九条くんが、ふうふうと息を吹きかけたりして土を掃おうとしてくれるが、綺麗になる気配はない。
「これ、取り替えないとだな」
「そうみたいだね」
朝、寝起きで包帯が乱れていたのを巻きなおすのに、ほとほと苦労したのに。げんなりとした気分でいると、九条くんが明るい声で聞いた。
「替えの包帯、持ってる?」
真っすぐな眼差しを向けられて、俺は一瞬、思考が停止する。
ごく自然に距離を詰めてくる九条くんと、それをすんなりと受け入れている俺自身に今更ながら驚いたのだ。まだ知り合って二日目なのに、こうして手に触れられても、悪い気はしない。
「……日野?」
俺が返事をしないままでいたせいか、九条くんが困ったように首を傾げる。
「あ……、鞄に新しいのがあるけど」
「お、ナイス。俺にくれる?」
念のためと入れておいた包帯を九条くんに渡すと、汚れた包帯を器用に外し、新しいものを巻き始めた。
「腫れもひどくなくて良かったな」
「うん。あの、ありがとう。包帯してくれるの、助かる」
節がしっかりしている長い指先が繊細に動くの見つめながら言うと、九条くんが緩やかに口角を上げた。
「こういうの、慣れてないと難しいよな」
包帯を巻く手は止めないまま一瞬視線をよこし表情が、なんだか大人っぽく見える。だから、というわけではないが、昨日から思っていたことが口から滑り出た。
「九条くんって、めんどう見がいいよね」
かつ、とても気遣いが上手な人だ。
意外だったのか、九条くんが伏せていた顔を上げた。
「そう? 俺はそんなつもりないんだけど」
「でも、俺にはこんなに親切にしてくれてる」
九条くんの綺麗な切れ長の瞳をまっすぐに見ると、珍しく彼が戸惑ったように視線を泳がせた。何度か瞬きをして、何かを確信したみたいに戻ってきた。
「んー、まあ、日野だからかも」
そう言って、九条くんが手もとに視線を戻す。
俺は再び伏せ気味になった彼の睫毛を見つめながら、『日野だからかも』の意味を必死に考えていた。特別、みたいなことでいいのだろうか。そんな考えがよぎった途端、胸の奥がキュッと甘く絞られた気がした。
(んん?)
いつもより鼓動が早い気がして、そっと胸に手を当ててみる。が、深呼吸をしたらすぐに平常を取り戻した。
(なんだったんだろ)
小首を傾げていたら、「はい、おわり」と九条くんが仕上がり告げた。
「ありがとう」
自分で巻いたのとはまったく違う出来栄えに感動していると、九条くんがスマートフォンを突き出してきた。
「なあ、連絡先交換しない? 臨時だけど同じ園芸部員だし、同級生だし友達だろ?」
ほぼボッチの俺の日常では聞き慣れていない単語の羅列に圧倒されかける。でも、それ以上に嬉しい響きに、俺は勢いよく頷いた。
「うん、そうだね」
「よっしゃ。俺、バスケ部に顔出すから、日野は気をつけて帰って」
爽やかに言って鞄を肩に掛けて立ち上がった九条くんにつられて、俺も立ち上がった。
「うん、色々ありがと。……九条くんは部活、頑張って?」
「なんで疑問形?」
ふわ、と九条くんが微笑む。友達への接し方が不慣れすぎて、変な語尾になってしまった。
「ごめん?」
「ふっ、いや。謝らなくていいんだけど。なんか癒された。日野のその感じ、好きかも俺」
さらっと楽しそうに言い渡された九条くんの言葉が、さっき『日野だから』と言われた時と同じ甘さを持って、俺の心臓を直撃した。
くしゃりと目じりを細めた九条くんが、「じゃ、俺行くね」と軽い足取りで出て行く。
俺は少し遅れて「うん」とだけ返事をして、椅子に腰かけた。
何度か深呼吸をしてみるが、胸の中がそわそわと落ち着かない。
(なんだ、これ……)
対処法がわからないまま息を吸って、吐いてと繰り返していたら、テーブルに置いていたスマートフォンが震えた。
九条くんからのメッセージだった。
『また明日ねー!』
短い文章のあとに、向日葵のスタンプが付けられている。俺は思わず、小さく噴き出してしまった。おかげで少し、胸のそわそわが落ち着く。
(早く芽が出るといいな)
俺は明日の朝を楽しみに、温室を出た。
今朝もいつも通り、温室横で水やりの準備をしていると、後ろから声がかかった。振り返れば、部室棟から体育館へと続く小道をはずれ、九条くんがこちらに歩いてきているところだった。
「九条くん……、おはよう」
少し息が上がっている彼は、半袖シャツにハーフパンツ姿だ。すでにひと運動終えてきたのだろう。
そういえば、朝、彼がランニングする姿をよく見かけていたことを思い出した。まだ九条くんだと認識する前だったから、俺より早く学校に来る人がいるんだ、くらいの感覚だったけど。ほとんど毎日見かけていたことに気づいて、こっそり改めて感心した。
「それ、今から水やり?」
側まで来た九条くんが、俺が握っているホースを指さした。
「うん。そ、そうだけど……」
園芸部がホースを持っている理由は一つしかないのは周知のこと。どうしてわざわざ聞くのだろうと睫毛を瞬かせていると、すっと長い腕が伸びてきた。
「貸して。俺がやる」
「えっ、九条くん?!」
大きな手が俺の手をかすめ、あっという間にホースを取られた。あたふたしているうち、花壇まで進んだ九条くんがこっちに向かって軽く手を振る。
「水出してー」
「あっ、うん」
蛇口をひねると、しばらくして「お、いい感じ」などど聞こえてくる。思いのほか慣れた様子で水をまく九条くん。花たちもどこか嬉しそうに見える。……じゃなくて。
「九条くん、いいよ。俺がするから」
急いで駆け寄って訴えたものの、「日野は休んで見てて」と一向にホースを渡してくれない。
「でも」と食い下がる俺をかわした九条くんが、ふと俺の左手に視線をよこした。
「怪我したとこ、どうだった? 痛くない?」
「うん、痛みはほとんど無いよ。軽度の捻挫だけど、大事を取って全治一か月だって言われた」
昨日、学校帰りに寄った整形外科で言われたことを伝えると、九条くんが気づかわし気に息を吐いた。
「そっかぁ。一か月はけっこう長いよな」
「うん……。でも、利き手じゃなくてよかったよ」
俺は包帯が巻かれた左手を軽く上げてみせると、九条くんが軽やかに言った。
「俺、園芸部に入るよ」
「な……っ、なんて?」
あまりにも想定外な発言に、俺は思わず大きな声で聞き返していた。
「ん? 聞こえなかった? 俺、園芸部に入ることにする」
少しこちらに身を乗り出して、ゆっくりと確かにそう言った九条くんを、俺はきょとんと見返した。どういうことだろう。
「日野、怪我したのに大変じゃん。ホース運んだり、土いじったりは毎日だろ? 俺がいれば、代わりにできるし」
俺が何も言わないまま呆然としているのを見て、九条くんがこてん、と首を傾けて聞いてくる。
「だめ?」
「だめ……とかじゃないけど、俺に決定権はないというか。でもっ、九条くんバスケ部は?」
俺の怪我を心配してくれるのはありがたいけど、バスケ部エースが何を言い出すのだろうか。
直接縁がなさそうな俺のクラスの理系女子たちでさえ、色めき立って噂をするほどの彼が。男子たちも一目置いているような彼が、園芸部に入るなんて。
それも、俺を気遣ってのことだなんて知れ渡ろうものなら、俺の穏やかで平凡な毎日がどうなるかわからない。なんだか頭の中が混乱してくる。しかし、当の九条くんはいたって爽やかだった。
「もちろんバスケ部は今まで通り。園芸部は、日野の手が治るまでの臨時部員ってやつ。どう?」
にっこりと言われて、拒みきれない自分がいて戸惑う。けれど臨時でも、九条くんにとってメリットなんてない。
思案する俺を、切れ長の瞳が真っすぐに見てくる。
「俺のせいで、日野が大変な思いするの嫌なんだよね」
真摯な視線は、本当に心からそう思っているんだと証明しているようだった。
でも、これだけは言える。
「俺が怪我したのは、九条くんのせいじゃないよ」
昨日からずっと、彼はなぜか責任を感じているようだけど、むしろ巻き込んでしまったのは俺の方だ。だけど、九条くんは納得していない様子で後ろ頭を掻いた。
「んー、でもあの時俺が声を掛けるのがもう少し早かったら、防げたことだったかもしれないし」
「だとしても、九条くんは悪くないと思うけど」
責めを受けるとするならば、ふざけ合っていた後輩の二人だろう。思い出して、む、と唇を少し尖らせる。すると、九条くんが小さく、ふ、と笑みをこぼした。
「日野って、意外と頑固なのな」
くくくっと、彼の肩が揺れる。
「頑固って、初めて言われたかも」
親にも言われたことのないことを、昨日知り合ったばかりの友達に言われるなんて。まぁ、親はそこまで俺のことを見ていなかっただけかもしれないけど。
俺がぽかんとして言うと、九条くんが慌てたように顔の前で手を振った。
「ごめん、違くて。しっかりしてるなって。いや、じゃなくて……」
ごめん、ともう一度九条くんが言って、また後ろ頭に手を突っ込んでいる。
「あいつらの先輩として連帯責任というか。本当は、俺が日野を手伝いたいだけ」
窺うような視線の九条くんが、優しく口角を上げた。
「へ……あ、う、うん」
なんというか、掛けられる言葉の端々が優しくて、胸の中がムズムズする。
俺の返事ともつかない声を肯定と捉えたのか、九条くんが「そういうことだから決まりね」と締めくくった。
「これ、片づけたらいい?」
ホースをまとめ始めた九条くんに、俺は再度「本当に園芸部に入る気?」と詰め寄った。
九条くんの手に、ホースの土がついているのを見て、やはり申し訳なくなったのだ。
「あとは俺がするからっ」
思わずホースを取ろう手が出た。だが、急に動かしたものだから、捻挫した左手首に痛みが走った。
「……痛っ」
思わず顔をしかめた俺を、「日野?!」と九条くんが心配そうに覗き込む。
「平気? ね、やっぱ俺がいたほうがいい」
九条くんの園芸部入部を、どうにか遠慮してもらいたかったのに。俺自ら席を用意した形になってしまった事に、内心落ち込んだ。もう、折れるしかない。
「う……ごめん。お願いします」
「了解」
そうして、するすると手際よくまとめられていくホース。俺は蛇口を閉めるだけで済んだのだった。
【五月〇日、午前八時。日野一葵・九条陽介(臨時)、水やり】
園芸部日誌に二人の名前が並んだ。書いているあいだ、九条くんはなんだか上機嫌で温室内の花たちを眺めていた。
温室の扉に鍵をかけると、九条くんと目が合った。
「じゃ、また放課後に来るね」
至極当然に言われた言葉に、俺は目を丸くした。
「放課後も来るの?」
「当然。園芸部だからな。日野も来るんじゃないの?」
「それはそうだけど」
「ん、じゃあとで」
制服に着替えるからと、部室棟へ走り去っていく九条くんの背中を見送る。
(本当に園芸部に入る気なんだ)
入部以来、ずっと一人で活動してきたのだ。新入生が入ってこない限り、部の存続も危うい。そんな弱小部に、キラキラのバスケ部のエースが兼部だなんて。
(俺、大丈夫か?)
なんとなくふわふわした足取りで、俺は自分の教室へと向かったのだった。
*
「なあ、これ何の種?」
放課後の温室。
宣言通りにやって来た九条くんが、俺の手の中にある縞模様の種をつつきながら聞いた。
「向日葵の種だよ。今年の夏は、ここを向日葵畑にしようかなって」
園芸部の温室は、スペースの半分は鉢植えの花や観葉植物が置いてあり、半分は畑になっている。その畑部分には、季節ごとに植える植物を変えているのだ。
「向日葵か、いいな」
かがんだ九条くんがスコップを手にザクザクと土をよけ、土に穴を開けていく。
「このくらい掘ればいい?」
「うん。いい感じ」
俺も並んで、向日葵の種をまくポケットを作る。
「意外と難しいもんだな」
隣で九条くんが思わず、というように言った。
「そうだね」
土いじりという極めて地味なことをしているのにも関わらず、ちらりと横目で見た彼の横顔は、煌めいて見えるほど端整だ。
授業後、直行で温室に来た九条くんは、制服のシャツの袖を捲り上げていて、そこから伸びる腕は逞しい。俺のひ弱な腕と勝手に比べ、同じ男としてちょっぴり情けない気持ちになった。
「でも九条くん、センスあると思う。仕事が丁寧だし」
俺が綺麗な横顔に向かって言うと、作業する手を止めた九条くんが、ぱっと表情を輝かせた。
「マジ? そんなに褒めてもらえると思ってなかったから嬉しいかも」
切れ長の目が、楽しそうに細められる。
朝の水やりの時も思ったけど、九条くんは細部まで気を抜かない人だと思った。花一本一本に水が行き渡るように水をかけていた。
たかが水やり、されど水やり。水やりは園芸の基本。園芸店を営む、じいちゃんの教えだ。
「じゃあ、種を穴に入れて、ふんわり土をかぶせて」
仕上げの水やりもして、向日葵の種まきは無事に終わった。
「あっという間だったな」
日誌を置いているミニテーブルを挟んで、俺と九条くんはそれぞれ椅子に座った。
温室のドアを入ってすぐ左、室内全体を見渡せる特等席だ。
「お疲れさまでした」
「うん、日野もな」
あとは毎日水やりをしつつ、発芽をのんびり待つだけだ。
俺は園芸部日誌をつけようと手を伸ばす。すると、九条くんが突然「あっ」と声をあげ、伸びてきた手にそっと左手をすくわれた。
「包帯、土ついてる」
「えっ、あ、ほんとだ」
気をつけて作業していたつもりだったけど、うっかり汚してしまったらしい。
九条くんが、ふうふうと息を吹きかけたりして土を掃おうとしてくれるが、綺麗になる気配はない。
「これ、取り替えないとだな」
「そうみたいだね」
朝、寝起きで包帯が乱れていたのを巻きなおすのに、ほとほと苦労したのに。げんなりとした気分でいると、九条くんが明るい声で聞いた。
「替えの包帯、持ってる?」
真っすぐな眼差しを向けられて、俺は一瞬、思考が停止する。
ごく自然に距離を詰めてくる九条くんと、それをすんなりと受け入れている俺自身に今更ながら驚いたのだ。まだ知り合って二日目なのに、こうして手に触れられても、悪い気はしない。
「……日野?」
俺が返事をしないままでいたせいか、九条くんが困ったように首を傾げる。
「あ……、鞄に新しいのがあるけど」
「お、ナイス。俺にくれる?」
念のためと入れておいた包帯を九条くんに渡すと、汚れた包帯を器用に外し、新しいものを巻き始めた。
「腫れもひどくなくて良かったな」
「うん。あの、ありがとう。包帯してくれるの、助かる」
節がしっかりしている長い指先が繊細に動くの見つめながら言うと、九条くんが緩やかに口角を上げた。
「こういうの、慣れてないと難しいよな」
包帯を巻く手は止めないまま一瞬視線をよこし表情が、なんだか大人っぽく見える。だから、というわけではないが、昨日から思っていたことが口から滑り出た。
「九条くんって、めんどう見がいいよね」
かつ、とても気遣いが上手な人だ。
意外だったのか、九条くんが伏せていた顔を上げた。
「そう? 俺はそんなつもりないんだけど」
「でも、俺にはこんなに親切にしてくれてる」
九条くんの綺麗な切れ長の瞳をまっすぐに見ると、珍しく彼が戸惑ったように視線を泳がせた。何度か瞬きをして、何かを確信したみたいに戻ってきた。
「んー、まあ、日野だからかも」
そう言って、九条くんが手もとに視線を戻す。
俺は再び伏せ気味になった彼の睫毛を見つめながら、『日野だからかも』の意味を必死に考えていた。特別、みたいなことでいいのだろうか。そんな考えがよぎった途端、胸の奥がキュッと甘く絞られた気がした。
(んん?)
いつもより鼓動が早い気がして、そっと胸に手を当ててみる。が、深呼吸をしたらすぐに平常を取り戻した。
(なんだったんだろ)
小首を傾げていたら、「はい、おわり」と九条くんが仕上がり告げた。
「ありがとう」
自分で巻いたのとはまったく違う出来栄えに感動していると、九条くんがスマートフォンを突き出してきた。
「なあ、連絡先交換しない? 臨時だけど同じ園芸部員だし、同級生だし友達だろ?」
ほぼボッチの俺の日常では聞き慣れていない単語の羅列に圧倒されかける。でも、それ以上に嬉しい響きに、俺は勢いよく頷いた。
「うん、そうだね」
「よっしゃ。俺、バスケ部に顔出すから、日野は気をつけて帰って」
爽やかに言って鞄を肩に掛けて立ち上がった九条くんにつられて、俺も立ち上がった。
「うん、色々ありがと。……九条くんは部活、頑張って?」
「なんで疑問形?」
ふわ、と九条くんが微笑む。友達への接し方が不慣れすぎて、変な語尾になってしまった。
「ごめん?」
「ふっ、いや。謝らなくていいんだけど。なんか癒された。日野のその感じ、好きかも俺」
さらっと楽しそうに言い渡された九条くんの言葉が、さっき『日野だから』と言われた時と同じ甘さを持って、俺の心臓を直撃した。
くしゃりと目じりを細めた九条くんが、「じゃ、俺行くね」と軽い足取りで出て行く。
俺は少し遅れて「うん」とだけ返事をして、椅子に腰かけた。
何度か深呼吸をしてみるが、胸の中がそわそわと落ち着かない。
(なんだ、これ……)
対処法がわからないまま息を吸って、吐いてと繰り返していたら、テーブルに置いていたスマートフォンが震えた。
九条くんからのメッセージだった。
『また明日ねー!』
短い文章のあとに、向日葵のスタンプが付けられている。俺は思わず、小さく噴き出してしまった。おかげで少し、胸のそわそわが落ち着く。
(早く芽が出るといいな)
俺は明日の朝を楽しみに、温室を出た。
