五月の大型連休も過ぎて、学校にも活気が戻ってきた朝。
俺は教室に行くよりも先に、体育館裏にある温室に向かった。
「待ってね。すぐに水をあげるから」
側にある三畳ほどの広さの花壇に向かって、声をかける。
誰に話しかけているかって、もちろん、健気に咲く花たちにだ。ペチュニア、ミニバラ、ダリアなどが花盛りだ。
高校入学と同時に入部した園芸部は、俺を含めて部員は三名。三年の先輩は内心点のため、一年は幽霊部員。実質、園芸部を回しているのは二年の俺一人だ。
ポリカーボネートで作られた温室──花好きの校長が職権を駆使して作ったらしい、という噂がある──に入ると、ミニテーブルに置かれたノートを開いた。
【五月〇日。午前七時三十分。日野一葵。水やり、清掃】
園芸部の活動日誌だ。
昨日も、おとといも、なんなら半年前も、俺の名前しか記入されていない。だが、そんなことは気にせず、ノートを閉じて外に出た。
すぐ側の体育館からは、キュ、キュキュッと床に運動靴が擦れる音が聞こえてくる。
『ナイッシュー!』
バスケ部だろうか。明るい歓声があがり、ボールが跳ねる音がする。いかにも青春って感じの音に耳を澄ませながら、俺はホースを手に、ただ一人静かに花壇へ水を撒いている。派手さも爽やかさも何もない。
(でも、この地味な毎日が好きなんだよなあ)
進学校で、親からの期待や成績に左右される友人関係に疲れ果てていた中学時代を思えば、この穏やかな日々がどれだけ幸せなことか。土いじりと花との対話は、癒しでしかないのだ。
風が、目にかかりそうな前髪を撫でて行った。と同時に、胸の中の冷たい記憶をもかすめる。
『父さんはお前くらいの時、この程度できて当然だったぞ』『また成績二位だったの?』
弁護士の父と、医者の母。両親が俺を叱責する声が聞こえた気がして、一瞬息が詰まった。考えないようにしていても、こうして浮かび上がってくる。落ちない錆みたいだ。
(あの時、少しでも努力を認めてくれる人がいれば違ったのかもしれないけど)
溢れそうになった思いを誤魔化すように花を見つめ、心の中で呟いてホースをまとめた。
朝のホームルームまで、まだ少し時間がある。
俺は温室の横に立てかけてあった脚立を広げた。
週末の台風で、ほこりや木の葉が積もり、せっかく透明な温室の屋根が台無しになっていたのだ。
躊躇いなく脚立に上がって、片手に持ったホース引いた。造園業を営む祖父の手伝いで慣れているということもあるが、高所の作業は得意だ。細身な体格も悪くはない。
入部したての頃。精力的に作業をこなしていたら、『麗しい見た目に似合わず逞しいね』と、顧問に言われた。けれど、俺自身は自分の容姿を麗しいと捉えたことはない。
ホースノズルを高圧散水に切り替えると、勢いよく水が噴き出した。するすると、汚れが落ちていく。
三角屋根の向こう側も綺麗にしないとな。なんて思いながら作業に集中していたせいで、後ろを全然気にしていなかった俺がいけなかったんだろうけど──。
「おい、後ろ!!」
慌てたような声に反射的に振り返ると、脚立のすぐ側に練習着姿の生徒が二人、視界に入った。
(……え?)
二人はじゃれ合っていて、たぶんだけど俺の存在に気づいていない。
俺の後ろがわ。温室のすぐ脇には小道があって、各部活の部室が並ぶ棟へと続く。ぞろぞろと朝の練習を終えた生徒たちは、みんな部室を目指している。……はずなのに。
(危ないっ!)
そう思った瞬間、ガシャンと音がして足場が揺れた。ふざけ合っていた生徒が、脚立に勢いよくぶつかったのだ。
「うわ……あっ……!」
バランスを崩した俺の口から、言葉にならない声が出た。
視界が傾き、手からホースが離れる。噴き出したままの水が空に打ち上げられ、雨粒のようになって頬に落ちてきた。その一連の流れが、まるでスローモーションのように目に映る。このままいけば、地面に落ちるのは確実だ。
痛いのは嫌だけど、どうにも避けられそうにない。
俺はやってくるだろう衝撃に備えてぎゅっと目を閉じた。
案の定、どさっ、と倒れ込む。
(あれ)?
でも、想像していた痛みは感じない。代わりに、柔らかいような、少し硬いような。何かに包まれている感覚が背中にあった。
おそるおそる目を開けると、長く逞しい腕が俺の胸と腰のあたりをがっしりと包み込んでいた。
「ふえ?」
すぐに状況が飲み込めず、気の抜けた声が出た。
少し先には脚立が倒れていて、地面では水が出っぱなしのホースがとぐろを巻いている。じゃれ合っていたやつらは、青い顔をして立ち尽くしている。
だったら、この腕は誰のだろう?
そう思ったのとほとんど同じタイミングで、後ろからさっき注意をしてくれたのと同じ、よく通る声がした。
「大丈夫?」
振り返ると、目の前で癖のない黒髪が揺れた。
センターで分けられた前髪から覗く凛々しい眉、くっきり二重の切れ長な目。意思を感じさせる結ばれた唇。整った爽やかな顔が心配そうな色を浮かべて、至近距離から俺を見下ろしていた。
彼のうしろから射す陽の光のせいか、髪の色素がわずかに透け、キラキラと輝くヘーゼルベージュにも見える。
(向日葵みたいだ……)
つい、ぼんやりと端整な顔に見入ってしまったせいか、下敷きになってくれた彼が首を傾げた。
「平気?」
困ったように聞かれてようやく、俺は我に返った。
「わっ、ごめん! すぐどくからっ」
慌てて立ち上がろうと、地面に手をつく。だがその瞬間、ズキン、と手首に電流が走った。
痛い。声にならないくらい、痛い。俺は思わず手首を掴んで縮こまった。
「……っ」
「痛むの?」
問いに無言でこくこくと頷くと、「すぐ保健室に行こう。俺も一緒に行くから」と真剣な顔で言って、俺の肩を支え立たせてくれた。
幸い、脚は何ともなかった。助けてくれた彼は、怪我をした様子はなさそうだ。半袖Tシャツとハーフパンツ姿の彼も、おそらくバスケ部の部員だろう。運動部の彼が無事でよかったと、俺はほっと胸をなでおろす。
歩き出そうとしたところに、バスケ部員が二人、走り寄って来た。
「あの、く、九条先輩……」
声を掛けてきた二人はどちらもばつの悪そうな顔をしている。
「すいませんでしたっ。俺らのせいで、こんなことになって……」
九十度に頭を下げた二人を、九条先輩と呼ばれた彼はしばらく見つめ、小さく息をついてから落ち着いた声で言った。
「お前ら、謝る相手間違ってるだろ」
ピシッと指摘された彼らの肩が小さく跳ねる。すぐさま俺の方に向きを変えて、また九十度に腰を折った。
「申し訳ありませんでしたっ」
ピリピリと鼓膜に届くほどの声量に圧倒されて、俺は睫毛を瞬かせた。なかなか上がってこない頭を見て、俺が反応を示すまでそうする気のないことを悟る。
これが運動部の『けじめ』ってやつか。運動部経験のない俺は、思わず感心してしまう。
「えっと……。次から気をつけてくれたら、それでいいから」
二人の後頭部に向かって言うと、隣から「優しすぎるな」と声がした。
困惑した顔で見上げたら、任せろと言わんばかりに頷かれる。
「島田、奈良崎。今日から一か月、毎日部室の掃除と、朝練前にトラック五周な」
言いつけられた二人は、頭を下げたまま「はい!」と返事をし、しょぼしょぼと部室棟がある方へ戻っていった。
九条、という名前には聞き覚えがあった。
スポーツ特待生で入学したバスケ部のエースで、文武両道の超イケメン。と女子たちがきゃあきゃあ騒いでいるのを何度も耳にしたからだ。
他には、校内でいちばん美人の先輩から告白されたのに断ったとか、モデル事務所にスカウトされたらしいなんて噂もよく聞いていた。だがそんな噂話は、教室でいつも窓の外を眺めているか、本を読んでいるかの俺には縁のないものだった。
学年が一緒とはいえ、理系の俺と文系の彼とでは接点はほとんど無いし。男に……そもそも人にあまり興味がない俺には、どうでもいいことだったのだ。
*
「先生いますか~?」
ガラガラと入り口を開けた九条くんが保健室を覗き込んだが、先生は不在だった。
「どこいったんだろ」
呟いた彼を見上げたら、目が合った。その視線が、俺の手首に移動する。
「待ってらんないから、来て」
九条くんは俺の腰に手を添えて、保健室の奥にある処置台へと促した。俺が座ったのを確認して、「ちょっと待ってて」と彼が離れた。棚から湿布と包帯、テープを取り出す九条くんは、慣れている様子だ。
というか、温室のある体育館脇から保健室に来るまでの道中、まるで姫を護衛する騎士みたいに、同じく腰を支えられていたのだが。
彼の優しさなのだろうか、マメな性格なのだろうか。女子たちが熱を上げる理由が、少しだけわかったような気がした。
実際、噂の九条くんは同性の俺が見ても、確かにかっこいい。俺より頭ひとつ半くらい背も高くて、端整な容姿は光を放っていそうに見える。
でも、噂と違うなと思ったのは、彼には派手な雰囲気は無くて、ただ実直な人だという印象だった。じゃないと、こんなに真剣に、俺の怪我の手当なんてしてないと思う。
「触るけど、痛かったらすぐ教えて」と前置いて触れてくる指は優しかったし、「ちょっと冷たいかも、ごめん」「腕、少し上げれる?」と、絶妙な気遣いと迷いのない手技であっという間に、手首に包帯が巻かれた。
「ありがとう。すごい、上手だね。魔法みたいだった」
思わず本音をこぼすと、九条くんが不思議そうに俺をじっと見て、数秒後「ふは」と破顔した。形の良い唇の隙間から白い歯が覗き、「魔法って」と眉を下げて笑う彼は本当に愉快そうに見えた。助けてもらってから、ずっと難しい顔をしていたから新鮮だ。
「気に入ってくれたならよかったよ。俺、バスケ部だからさ。こういうの得意なんだよね」
巻き終えた包帯をテープで留めて、「だから保健室も常連なんだ」と言う。
どうりで物の場所をよく知っていたわけだ。
片づけも手際よく済ませた九条くんが、「それさ」と振り返った。
「手首。念のため病院行った方がいいかも。捻挫っぽいけど、心配だから」
言いながら彼も腰掛けた。診察台に、二人で横並びになる。九条くんは、少し視線を落として静かに口を開いた。
「うちの部のやつらがごめん。ほんと、大事にならなくてよかった」
「おかげで痛くなくなったよ」
彼のせいではないのに。包帯が巻かれた手首をさすりながら言うと、視線を上げた彼が俺を真っすぐに見た。
「ね、名前、聞いてもいい? 俺、七組の九条陽介。同じ二年だよね?」
「あ、うん。えっと、俺は一組の日野一葵……です」
「っふ、どうして突然敬語?」
柔らかく表情を崩した九条くんに問われて、確かになんでだろう、と自問自答する。
二人きりで自己紹介し合うなんて、なんだかくすぐったいような気持ちになって、つい口からこぼれたのだ。でも正直なところ、自分でもよくわからない。
「えっと、なんとなく?」
疑問文になってしまった。
それが可笑しかったのか、九条くんが「くくくっ」と肩を小さく震わせて笑う。
どう反応すべきか戸惑っていると、「ごめん」と謝られてしまった。
「ほんとゴメン。笑うつもりなんてなかったんだけど。日野って、俺の周りにはいないタイプすぎてつい」
「変だった……かな?」
「いや、その反対。めっちゃいい」
言いながら、まだ微かに笑っている。
こんなに笑う人だったなんて。さっき、後輩にペナルティを言い渡した時の彼からは想像できない。というか、笑われても嫌な感じはしないし、俺まで楽しくなってくる気がして不思議だ。
(最近、花ばかり話し相手にしてた副作用かな……)
なんて考えていたら、朝礼を告げる予鈴が鳴った。俺と九条くんは、それぞれの教室に戻ったのだけど。
俺はその日一にち、包帯が巻かれた手首を見ては、九条くんの笑う顔と、手当をしてくれた時の優しい手の感触を思い出していた。
俺は教室に行くよりも先に、体育館裏にある温室に向かった。
「待ってね。すぐに水をあげるから」
側にある三畳ほどの広さの花壇に向かって、声をかける。
誰に話しかけているかって、もちろん、健気に咲く花たちにだ。ペチュニア、ミニバラ、ダリアなどが花盛りだ。
高校入学と同時に入部した園芸部は、俺を含めて部員は三名。三年の先輩は内心点のため、一年は幽霊部員。実質、園芸部を回しているのは二年の俺一人だ。
ポリカーボネートで作られた温室──花好きの校長が職権を駆使して作ったらしい、という噂がある──に入ると、ミニテーブルに置かれたノートを開いた。
【五月〇日。午前七時三十分。日野一葵。水やり、清掃】
園芸部の活動日誌だ。
昨日も、おとといも、なんなら半年前も、俺の名前しか記入されていない。だが、そんなことは気にせず、ノートを閉じて外に出た。
すぐ側の体育館からは、キュ、キュキュッと床に運動靴が擦れる音が聞こえてくる。
『ナイッシュー!』
バスケ部だろうか。明るい歓声があがり、ボールが跳ねる音がする。いかにも青春って感じの音に耳を澄ませながら、俺はホースを手に、ただ一人静かに花壇へ水を撒いている。派手さも爽やかさも何もない。
(でも、この地味な毎日が好きなんだよなあ)
進学校で、親からの期待や成績に左右される友人関係に疲れ果てていた中学時代を思えば、この穏やかな日々がどれだけ幸せなことか。土いじりと花との対話は、癒しでしかないのだ。
風が、目にかかりそうな前髪を撫でて行った。と同時に、胸の中の冷たい記憶をもかすめる。
『父さんはお前くらいの時、この程度できて当然だったぞ』『また成績二位だったの?』
弁護士の父と、医者の母。両親が俺を叱責する声が聞こえた気がして、一瞬息が詰まった。考えないようにしていても、こうして浮かび上がってくる。落ちない錆みたいだ。
(あの時、少しでも努力を認めてくれる人がいれば違ったのかもしれないけど)
溢れそうになった思いを誤魔化すように花を見つめ、心の中で呟いてホースをまとめた。
朝のホームルームまで、まだ少し時間がある。
俺は温室の横に立てかけてあった脚立を広げた。
週末の台風で、ほこりや木の葉が積もり、せっかく透明な温室の屋根が台無しになっていたのだ。
躊躇いなく脚立に上がって、片手に持ったホース引いた。造園業を営む祖父の手伝いで慣れているということもあるが、高所の作業は得意だ。細身な体格も悪くはない。
入部したての頃。精力的に作業をこなしていたら、『麗しい見た目に似合わず逞しいね』と、顧問に言われた。けれど、俺自身は自分の容姿を麗しいと捉えたことはない。
ホースノズルを高圧散水に切り替えると、勢いよく水が噴き出した。するすると、汚れが落ちていく。
三角屋根の向こう側も綺麗にしないとな。なんて思いながら作業に集中していたせいで、後ろを全然気にしていなかった俺がいけなかったんだろうけど──。
「おい、後ろ!!」
慌てたような声に反射的に振り返ると、脚立のすぐ側に練習着姿の生徒が二人、視界に入った。
(……え?)
二人はじゃれ合っていて、たぶんだけど俺の存在に気づいていない。
俺の後ろがわ。温室のすぐ脇には小道があって、各部活の部室が並ぶ棟へと続く。ぞろぞろと朝の練習を終えた生徒たちは、みんな部室を目指している。……はずなのに。
(危ないっ!)
そう思った瞬間、ガシャンと音がして足場が揺れた。ふざけ合っていた生徒が、脚立に勢いよくぶつかったのだ。
「うわ……あっ……!」
バランスを崩した俺の口から、言葉にならない声が出た。
視界が傾き、手からホースが離れる。噴き出したままの水が空に打ち上げられ、雨粒のようになって頬に落ちてきた。その一連の流れが、まるでスローモーションのように目に映る。このままいけば、地面に落ちるのは確実だ。
痛いのは嫌だけど、どうにも避けられそうにない。
俺はやってくるだろう衝撃に備えてぎゅっと目を閉じた。
案の定、どさっ、と倒れ込む。
(あれ)?
でも、想像していた痛みは感じない。代わりに、柔らかいような、少し硬いような。何かに包まれている感覚が背中にあった。
おそるおそる目を開けると、長く逞しい腕が俺の胸と腰のあたりをがっしりと包み込んでいた。
「ふえ?」
すぐに状況が飲み込めず、気の抜けた声が出た。
少し先には脚立が倒れていて、地面では水が出っぱなしのホースがとぐろを巻いている。じゃれ合っていたやつらは、青い顔をして立ち尽くしている。
だったら、この腕は誰のだろう?
そう思ったのとほとんど同じタイミングで、後ろからさっき注意をしてくれたのと同じ、よく通る声がした。
「大丈夫?」
振り返ると、目の前で癖のない黒髪が揺れた。
センターで分けられた前髪から覗く凛々しい眉、くっきり二重の切れ長な目。意思を感じさせる結ばれた唇。整った爽やかな顔が心配そうな色を浮かべて、至近距離から俺を見下ろしていた。
彼のうしろから射す陽の光のせいか、髪の色素がわずかに透け、キラキラと輝くヘーゼルベージュにも見える。
(向日葵みたいだ……)
つい、ぼんやりと端整な顔に見入ってしまったせいか、下敷きになってくれた彼が首を傾げた。
「平気?」
困ったように聞かれてようやく、俺は我に返った。
「わっ、ごめん! すぐどくからっ」
慌てて立ち上がろうと、地面に手をつく。だがその瞬間、ズキン、と手首に電流が走った。
痛い。声にならないくらい、痛い。俺は思わず手首を掴んで縮こまった。
「……っ」
「痛むの?」
問いに無言でこくこくと頷くと、「すぐ保健室に行こう。俺も一緒に行くから」と真剣な顔で言って、俺の肩を支え立たせてくれた。
幸い、脚は何ともなかった。助けてくれた彼は、怪我をした様子はなさそうだ。半袖Tシャツとハーフパンツ姿の彼も、おそらくバスケ部の部員だろう。運動部の彼が無事でよかったと、俺はほっと胸をなでおろす。
歩き出そうとしたところに、バスケ部員が二人、走り寄って来た。
「あの、く、九条先輩……」
声を掛けてきた二人はどちらもばつの悪そうな顔をしている。
「すいませんでしたっ。俺らのせいで、こんなことになって……」
九十度に頭を下げた二人を、九条先輩と呼ばれた彼はしばらく見つめ、小さく息をついてから落ち着いた声で言った。
「お前ら、謝る相手間違ってるだろ」
ピシッと指摘された彼らの肩が小さく跳ねる。すぐさま俺の方に向きを変えて、また九十度に腰を折った。
「申し訳ありませんでしたっ」
ピリピリと鼓膜に届くほどの声量に圧倒されて、俺は睫毛を瞬かせた。なかなか上がってこない頭を見て、俺が反応を示すまでそうする気のないことを悟る。
これが運動部の『けじめ』ってやつか。運動部経験のない俺は、思わず感心してしまう。
「えっと……。次から気をつけてくれたら、それでいいから」
二人の後頭部に向かって言うと、隣から「優しすぎるな」と声がした。
困惑した顔で見上げたら、任せろと言わんばかりに頷かれる。
「島田、奈良崎。今日から一か月、毎日部室の掃除と、朝練前にトラック五周な」
言いつけられた二人は、頭を下げたまま「はい!」と返事をし、しょぼしょぼと部室棟がある方へ戻っていった。
九条、という名前には聞き覚えがあった。
スポーツ特待生で入学したバスケ部のエースで、文武両道の超イケメン。と女子たちがきゃあきゃあ騒いでいるのを何度も耳にしたからだ。
他には、校内でいちばん美人の先輩から告白されたのに断ったとか、モデル事務所にスカウトされたらしいなんて噂もよく聞いていた。だがそんな噂話は、教室でいつも窓の外を眺めているか、本を読んでいるかの俺には縁のないものだった。
学年が一緒とはいえ、理系の俺と文系の彼とでは接点はほとんど無いし。男に……そもそも人にあまり興味がない俺には、どうでもいいことだったのだ。
*
「先生いますか~?」
ガラガラと入り口を開けた九条くんが保健室を覗き込んだが、先生は不在だった。
「どこいったんだろ」
呟いた彼を見上げたら、目が合った。その視線が、俺の手首に移動する。
「待ってらんないから、来て」
九条くんは俺の腰に手を添えて、保健室の奥にある処置台へと促した。俺が座ったのを確認して、「ちょっと待ってて」と彼が離れた。棚から湿布と包帯、テープを取り出す九条くんは、慣れている様子だ。
というか、温室のある体育館脇から保健室に来るまでの道中、まるで姫を護衛する騎士みたいに、同じく腰を支えられていたのだが。
彼の優しさなのだろうか、マメな性格なのだろうか。女子たちが熱を上げる理由が、少しだけわかったような気がした。
実際、噂の九条くんは同性の俺が見ても、確かにかっこいい。俺より頭ひとつ半くらい背も高くて、端整な容姿は光を放っていそうに見える。
でも、噂と違うなと思ったのは、彼には派手な雰囲気は無くて、ただ実直な人だという印象だった。じゃないと、こんなに真剣に、俺の怪我の手当なんてしてないと思う。
「触るけど、痛かったらすぐ教えて」と前置いて触れてくる指は優しかったし、「ちょっと冷たいかも、ごめん」「腕、少し上げれる?」と、絶妙な気遣いと迷いのない手技であっという間に、手首に包帯が巻かれた。
「ありがとう。すごい、上手だね。魔法みたいだった」
思わず本音をこぼすと、九条くんが不思議そうに俺をじっと見て、数秒後「ふは」と破顔した。形の良い唇の隙間から白い歯が覗き、「魔法って」と眉を下げて笑う彼は本当に愉快そうに見えた。助けてもらってから、ずっと難しい顔をしていたから新鮮だ。
「気に入ってくれたならよかったよ。俺、バスケ部だからさ。こういうの得意なんだよね」
巻き終えた包帯をテープで留めて、「だから保健室も常連なんだ」と言う。
どうりで物の場所をよく知っていたわけだ。
片づけも手際よく済ませた九条くんが、「それさ」と振り返った。
「手首。念のため病院行った方がいいかも。捻挫っぽいけど、心配だから」
言いながら彼も腰掛けた。診察台に、二人で横並びになる。九条くんは、少し視線を落として静かに口を開いた。
「うちの部のやつらがごめん。ほんと、大事にならなくてよかった」
「おかげで痛くなくなったよ」
彼のせいではないのに。包帯が巻かれた手首をさすりながら言うと、視線を上げた彼が俺を真っすぐに見た。
「ね、名前、聞いてもいい? 俺、七組の九条陽介。同じ二年だよね?」
「あ、うん。えっと、俺は一組の日野一葵……です」
「っふ、どうして突然敬語?」
柔らかく表情を崩した九条くんに問われて、確かになんでだろう、と自問自答する。
二人きりで自己紹介し合うなんて、なんだかくすぐったいような気持ちになって、つい口からこぼれたのだ。でも正直なところ、自分でもよくわからない。
「えっと、なんとなく?」
疑問文になってしまった。
それが可笑しかったのか、九条くんが「くくくっ」と肩を小さく震わせて笑う。
どう反応すべきか戸惑っていると、「ごめん」と謝られてしまった。
「ほんとゴメン。笑うつもりなんてなかったんだけど。日野って、俺の周りにはいないタイプすぎてつい」
「変だった……かな?」
「いや、その反対。めっちゃいい」
言いながら、まだ微かに笑っている。
こんなに笑う人だったなんて。さっき、後輩にペナルティを言い渡した時の彼からは想像できない。というか、笑われても嫌な感じはしないし、俺まで楽しくなってくる気がして不思議だ。
(最近、花ばかり話し相手にしてた副作用かな……)
なんて考えていたら、朝礼を告げる予鈴が鳴った。俺と九条くんは、それぞれの教室に戻ったのだけど。
俺はその日一にち、包帯が巻かれた手首を見ては、九条くんの笑う顔と、手当をしてくれた時の優しい手の感触を思い出していた。
