ふたりのフツウ


 ゴクッ、ゴクッ、ゴク。

 サイダーが喉を流れていく。炭酸の刺激が、火照った体の中心を通って、少しだけ冷やしてくれる気がした。

「ぷっはぁー」

「そんなおっさんみたいな飲み方したらダメですよ。喉痛めますよ」

「飲まないとやってられないよぉ」

 和哉と湊は、グラウンドから少し離れた体育倉庫の裏に生えている大きな木の下に並んでいた。木漏れ日が二人の足元に斑模様を作っていて、風が吹くたびにその模様が揺れる。

 和哉曰く「ここならグラウンドの様子も見えるし、茶道室よりはセーフ」らしかった。確かに完全に姿を消しているわけではないが、これくらいなら許容範囲だろう、という絶妙な立ち位置だ。

「ヤケジュースしないでください」

「むうぅー」

「そんな顔してもダメです。走る時にお腹痛くなっちゃいますよ」

「それはやだ〜」

 和哉は湊の隣に座ったまま、いつの間にか湊の膝に頭を乗せていた。体育祭の喧騒を背景に、まるで昼寝でもするつもりのような体勢だ。今日に限って何度もこういうことをする。卒業まで待つと言ったのは和哉自身なのに、その間ずっとこの調子なのだろうかと湊は少し遠い目になった。

「……あの、聞きたいんですけど」

「ん」

「俺たち、付き合ってはないんですよね」

「うんそうだね、付き合うのは卒業後」

 和哉がピンッと人差し指を立てた。まるで教師が指揮棒を使うような仕草で、生徒に言い聞かせるように言う。本人はいたって無自覚なのだろうが、そのくせ膝の上に頭を乗せたままというのが、なんとも言えない。

「ですよね」

「ってことは無意識かぁー」

「ん? 湊?」

「なんでもないですよぉ」

 湊は和哉の頭を、そっと撫でた。

「ごろごろごろごろ」

「猫ですかぁ、あなたは」

 悪い気はしなかった。むしろ困るくらい、良かった。

 ピコン。

「先輩のスマホですね」

「うん、なんだろ……あ、」

 和哉の瞳が揺れた。

 ガクン。和哉の体から力が抜けて、そのまま膝の上に倒れ込む。

「あ、先輩が死んだ」

「ちょっとスマホ見ますね」

 走順が決まった旨のLINEが、個人チャットに届いていた。おそらく三年生のグループチャットからアカウントを探して送ってきたのだろう。

 動かない和哉の代わりに了解と感謝の旨を返信し——少し考えてから、アカウントをブロックした。それからスマホを和哉の頭の上にそっと乗せた。

「先輩、四番走者ですか……ってことは、俺が先輩にバトンをもらうってことですかね」

「んん? どーゆうこと?」

 和哉が頭を起こす。スマホが膝に落ちた。

「リレーは団対抗、各学年五人ずつなのは知ってますよね?」

「うん」

「リレーは一年、二年、三年の三つのポイントでバトンの受け渡しをするんです。一年が二年生に、二年生が三年生に、そして三年生が一年生にバトンを渡します」

「俺は一年の最終走者、五番手です。つまり、三年四番手の先輩にバトンを渡してもらうってことはですね」

「僕が、湊に……バトンを」

 和哉がふーん、となにやら考え込む顔になった。何かを頭の中で整理しているのか、視線が宙に漂っている。

「先輩がどんなに遅くても、俺がリカバリーするんで大丈夫ですよ」

「湊」

「ちょっとはモチベーションになりました?」

「……うん」

 静かな返事だったが、その声は少し前より落ち着いていた。

*****

『——これで、教師陣によるコスプレリレーが終わりました!!勝者は青団!圧勝でした!特に鶏のコスプレをした高梨先生が……』

 高梨先生がスタート位置についた瞬間、周囲がツボった。真顔のまま、顔だけくり抜かれた鶏の着ぐるみを着て立っていたのだから仕方がない。隣に立っていたウサ耳のカチューシャをつけた宇佐美先生は、立てないくらい笑っていた。おかげさまで赤団は最下位だ。

『さぁ!楽しい体育祭も最終プログラムになりました。お次は団対抗リレー!代表選手の方々、ご入場よろしくお願いします!!』

 パァン、パァン、と空砲と紙吹雪のファンファーレが、選手たちの入場を祝福した。グラウンドが一段と湧く。赤青黄のカラーが、三列に整然と並ぶ。

「綿貫、急に頼んじまってごめんなぁ」

「大丈夫だよ。でもあまり期待しないでね」

 期待しないでほしい。

 今回参加すると決めたのは、涼香の後押しと、湊の助けになりたいという気持ちと、自分のわがままの尻拭いだ。どれをとっても大義名分があるわけじゃない。そして僕は、きっと足を引っ張ってしまう。

 きっと。

*****

 意識が、遠い記憶へ滑っていく。

「みんな〜、鬼ごっこするの? なら、かずやくんも仲間に入れてあげよ?」

 幼稚園の先生が、いつも一人で絵を描いている和哉のために言った言葉だった。

「えー」
「やだよー、かずやくんおそいんだもん」
「すぐタッチしちゃう」
「つまんない」

「もーそんなこと言ったらダメよ」

「……せんせぇ、ぼく、えかいてたい」

「そう? みんなと遊びたくなったらいつでも言ってね?」

 ——お迎えの時間。

「和哉、どうしてみんなで外遊びしてる時に一人でお絵描きしてたの」

 連絡帳を見た母が言った。

「おえかきしたかったから」

「お絵描きしたかったら、一人で別のことしていていいの?」

「え?」

「みんなで遊ぶ時間に、どうして自分のしたいことを通すの」

「ダメじゃない。『普通』はみんなで遊ぶのよ」

*****

 ゾワっ。

 嫌なことを思い出した。熱くなっていた頭に冷水を一気にかけられたような感覚だった。

 でも。

 今日なんだ。今日、湊に想いを伝えられた。踏ん切りがついた。これからまた卒業までギアをあげなければいけない。変わるんだ——これからの人生を湊と歩けるように。母の言葉に縛られるのではなく、湊の言葉に背中を押されたいから。

 パァン!

 号砲が鳴った。

 はっと現実に戻る。世界は今、太陽が輝き、蝉が鳴き、赤青黄の旗が並び、第一走者が地を蹴って走り出していた。

 走り出しは全員並んでいる。

 二年の黄団の第二走者が差をつけ、独走しはじめる。

 一年の青団がその差を埋める。

 三年の赤団がそれに食らいつき、青団に並ぶ。

 ……もし僕が差をつけられたら。湊にバトンをうまく渡せなかったら。

 息が詰まる。うまくできなくなってきた。

 はぁ、はぁ、はぁ。

 息って、どう吸うんだっけ。

「せんぱーい!!」

 湊の声が聞こえた。

 一年生の待機列の方から、両手を高く挙げて力いっぱい手を振っている。栗色の髪が日差しの中で揺れていた。

 和哉はこちらも、右手を控えめに振り返した。自然に笑みが溢れてくる。

 はー、はー。

 ようやく、満足に息が吸えた。

「綿貫、次頼む」

「うん」

 赤団の二年生からバトンを受け取る。うまく受け取れた、と思う。確か左手に持ち替えるんだよね。手の中でバトンを持ち替えながら、前を見た。

 青団の子が二、三メートル先を走っている。黄団の子はすでに一年生にバトンを渡しており、黄団がリードだ。

 できることなら追いつけなくても、距離は縮めたい。

 足に力を込めて、大地を踏みしめる。さっきよりギアが少し上がる感覚がした。このまま距離を縮めていければ、湊の助けになるだろう。

「はっ、はぁっ」

 ガッ!!

「っ!」

 足に何かが引っかかった。
自分の足だ。普段こんなに走らないから、足がもつれてしまった。

『おっと! 赤団、転倒してしまいました! 派手に転んでしまいましたが、大丈夫でしょうか!』

 はぁっ、はぁっ。

 地面に手をついた瞬間、膝がじくりと痛んだ。でも考えるな。すぐに体に力を込めて、バトンを拾って走り出す。

 恥ずかしさも、焦りも、動揺も、膝のじくじくした痛みも——何も考えない。

 ただ走る。彼にバトンを渡すことだけを考える。

「湊!」

「任せてください!!」

 湊は速かった。和哉が転けたことによるタイムロスなど、ものともしなかった。バトンを受け取るやいなや、すぐに青団を追い越し、二着でゴールした。

 その走り方は迷いがなくて、まっすぐで、和哉が息を切らしながら見ていても彼らしくとても、とても綺麗だと思った。

 三年の第五走者にバトンが渡る。走者は和哉に走ることを頼んできた人だ。

「おぅらーー」

 この人が速い、速い。バトンを受け取るやいなや、さっきの湊と同様に怒涛の追い上げを見せて、すぐに黄団に並び、ゴール直前で追い越した。

 つまりこれは——。

『勝者!! 赤団!!』

 僕らの勝利だ。

「やりましたね! 先輩!」

 自分のリレーを終えた湊が、待機場から走ってくるなり膝の処置を始めた。

 いったいどこからその救急用具を出したのだろうか。気づいた時にはすでにそこにあって、湊が手際よく膝の汚れを拭き、ガーゼを当てていた。その手つきが丁寧で、でも素早くて、和哉は少し呆気にとられながらされるがままになっていた。

 まぁ、それは兎も角として。

「うん、やったね湊」

 二人でハイタッチした。

 全力でしたので、少し手が痛かった。でもそれ以上に、湊の手のひらの感触が温かくて、和哉は思わず笑った。

 グラウンドに、歓声が響いていた。初夏の日差しの中で、赤のカラーが風を受けてはためいていた。