ふたりのフツウ


「さて、テント戻ろっか」

「は、はい」

 茶道室を出た二人は、そのまま廊下を歩いた。繋いだ手はまだ離れていない。外の光が廊下の窓から斜めに差し込んで、二人の影を長く伸ばしている。

 グラウンドのざわめきが、近づくにつれて大きくなっていく。体育祭の続きが、ちゃんとそこにあった。

 校舎の出口を抜けたところで、道が分かれる。

「三年のテント、ここだよ」

 和哉が立ち止まって言う。

「そう、ですね」

 湊も立ち止まる。当然の分岐点だった。わかっていた。三年と一年ではテントの位置が違う。ここで別れるのが、普通だ。

「……一年生は向こうです」

 繋いでいた手が、ゆっくりと離れる。

 二人の時間が終わってしまうことを、湊は名残惜しく思いながら「じゃあ」という言葉に思いを込めて、一年生の席の方へ歩き出した。

「……」

「……」

 一歩、二歩。

「あ、湊おかえり」

 テントに戻ると、響也が顔を上げた。いつも通りの、感情の読みにくい声だった。

「ああ、ただいま」

「団対抗リレーまで時間あるから、まだ……」

 響也の言葉が途中で途切れた。

 彼の目は、湊の顔ではなく、その少し隣——左斜め後ろの方を見ていた。翡翠色の瞳が、僅かに細くなる。

「どうした?」

 湊が振り返ると、そこにはキョトンとした顔の和哉がいた。

「ん?」

「え、な」

「なんでいるんですか?」

 思わず小声になった。

「? テントに戻るんでしょ?」

 それはそうなのだが。まさか各学年のテントに戻るという意図が伝わっていなかったのだろうか。

「えっと、観戦は各学年のテントでって決まりがあるんです」

「大丈夫、バレないよ。観戦はグラウンドに張られているロープの内側に入らなければ、外部の人も生徒も自由だし。それに僕はテントにギリギリ入らないで湊の後ろから見てるから」

「そうでした、あなたルールを絶妙に破る人でしたね」

「む、人聞きが悪いなぁ。湊は僕といたくないの?」

 ……か、可愛いぃ。

 うぉっと、これはまずい。さっき想いが通じ合ってからというもの、和哉先輩からの甘え方が凶器的な威力を持って俺の心臓を潰しにかかってくる。

 だがよくない。テントの外ということは直射日光がダイレクトに降り注ぐ。そうなれば涼香先輩の二の舞だ。それに、一年のテントに和哉先輩がいるのは流石に目立ちすぎる。クラスメイトに和哉先輩の魅力が放たれるとまずい。色々と、まずい。

「そ、そういう訳ではなくってぇ。あ、じゃあ俺が先輩のテントにいきましょう」

「え、だめ」

「な、なしてですか?!」

「ミナト、三年テント、クルノ、ダメ」

「か、カタコトで」

「うーん、じゃ木陰があるとこにいきます?」

「!! 僕いいとこ知ってるよ!」

 パァッと和哉の顔が明るくなった。はしゃぎながら湊の手を取り、引っ張って連れていく。

「こっち!」

 ……なんだこの人。幼女か?可愛すぎる。

 引っ張られながら湊は思った。卒業まで待つと言った。待てると思った。でもこれは、想像以上に長い戦いになるかもしれない。

*****

 ただのクラスメイトの湊が、他学年の先輩に手を引かれてどこかへ連れていかれるのを、響也はテントの自席からじっと見ていた。

 話しかけていたのに、一瞬で湊の興味を持っていかれた。後輩からただの空気にされてしまった形になる。だが、怒りはなかった。ただ静かに、その背中が見えなくなるまで目で追っていた。

 先輩、という声の出し方。名前を呼ぶ時の声のトーン。引っ張られながら少し困ったように笑っている横顔。

「あの人……ああ、そういうことか」

 響也の頭の中で、点と点が線でつながり、一つの結論を導き出した。

 手の向きや二人の歩幅、目線。写真を撮り続けてきた人間には、そういうものでなんとなく見える。

「やっぱり、眼中になかったかぁ」

 呟きは、グラウンドの歓声に静かに溶けていった。響也は少しだけ息をついてから、手元の文庫本を開いた。栞が挟まれたページを、ゆっくりとめくる。

*****

「あんれまぁ、久我ったら廊下を全力疾走」

 綾香が手のひらを横向きにして眉の上に当てながら、彼が走っていった方向を見ていた。人にぶつかるなよぉー、とのんびりしたヤジを飛ばしている。

 私と綾香ちゃん、それと久我君は、茶道部の先輩である七瀬涼香さんが体育祭の最中に熱中症で倒れてしまったという話を聞いてお見舞いにきていた。

 保健室は初めて来たけれど、消毒の匂い、どこか落ち着く静けさ、白いカーテンが風にたなびく様子。外の喧騒とは隔絶された、別の時間が流れているような場所だった。

 その一室のベッドに横たわる彼女はさしずめ眠り姫だ。七瀬先輩は、顔色こそ少し悪いものの、しっかりと受け答えができていて体調もほぼ回復しているようで、一安心だった。

 隣に控えているナイトーー村内尚弥先輩は、先輩が少し動こうとするたびにそっと制止している。七瀬先輩は少し煩わしそうにしているけれど、本音を言えば、こんなふうに自分のことを心配してくれる特別な誰かがいる、ということには、憧れてしまう。

 七瀬先輩には不安なことがあるらしかった。茶道部の部長、綿貫和哉先輩が体育祭の途中から『消えた』というのだ。先輩はおっとりしたタイプで、私と同じく運動が得意そうなイメージはない。おそらく、こういう体育祭の喧騒は憂鬱なのだろうと思う。

 きっと私も、綾香ちゃんや久我君がいなければ、今日をこんなに楽しいと感じることはできなかった。ましてや応援団の副団長なんて、絶対にしなかった。

 ……ていうか、服。

 着替えるの忘れてた。私この服でここまで来たの?!

「タオルケット、借りてくるね」

「え! 寒いの?」

 綾香ちゃんが心配してくれた。寒くはない。この服でも暑い。本当にこの暑さは殺人級だ。七瀬先輩に大事がなくて、本当によかった。

「ううん、隠したいの。この寸胴体型を」

「もー、大丈夫だって。むしろ痩せすぎ!」

「はは、ありがとう。じゃあ取ってくるね」

「ぜんっぜんわかってない!」

 綾香ちゃんの声を背中に受けながら、雪は保健室の棚の方へ歩いた。

 白いタオルケットを一枚手に取りながら、ふと思い出す。

 七瀬先輩に和哉先輩を探してほしいと頼まれた久我君が、保健室を飛び出していった。その背中を、私はずっと見ていた。

 廊下を駆けていく後ろ姿が、見えなくなるまで。

 私、なんで。

「行かないで、って思っちゃったんだろ」

 声に出してみると、自分でも少し驚いた。誰にも聞こえていないのを確かめてから、雪はタオルケットをぎゅっと胸に抱いた。窓の外では、遠くからリレーの号砲が鳴り響く音がした。