ふたりのフツウ


 体育祭の歓声が、遠くから波のように押し寄せてくる。

 湊は校舎の廊下を早足で歩いていた。グラウンドの熱気とは切り離されたように、廊下の空気はひんやりとしている。上履きの底が、床を叩く音だけが響いた。

 和哉先輩がいない。

 行き先は、一つしか思いつかなかった。

*****

 茶道室の前に立つ。

 廊下の突き当たり、一段高くなった場所。年季の入った木製の靴箱と、細かな草花の模様が描かれた襖。グラウンドから一番遠い、校舎の隅。体育祭の喧騒が、ここまで来ると不思議なほど遠い。

 湊は靴を脱いで、揃えた。
 つま先を廊下側に向けて。先輩に最初に教えてもらったやり方で。

 そっと、襖を開ける。

*****

 和哉は窓際に座っていた。

 膝を抱えるでもなく、ただ窓の外を眺めている。片手には扇子があって、開いたり閉じたりを繰り返しながら、くるくると指の間で回している。それが癖なのか、それとも手持ち無沙汰なのか、湊には判断がつかなかった。

 外からはまだ歓声が聞こえていた。遠くで誰かがコールをしている声が、ここまで届いてくる。和哉はその声を聞いているのか、いないのか、ただじっと窓の外を見ていた。

 湊が入ってきた気配に、和哉は振り返らなかった。

「失礼します、先輩」

「……なんで来たの」

 声は穏やかだった。怒っているわけじゃない。ただ普段とは少し違う、どこか疲れたような声だった。

「先輩に会いたくて」

 和哉がようやく振り返る。眼鏡の奥のサファイアが、湊を映した。少し、濁っているように見えた。

「戻って。体育祭、まだあるでしょ」

「戻りません」

 湊は迷わずそう言って、和哉の隣に腰を下ろした。畳の感触が手のひらに伝わってくる。イ草の清々しい香りが、ふわりと鼻をくすぐった。

「……湊」

「ここ、涼しいですね」

 湊は天井を見上げながら言った。

「外より全然いい。体育祭の真ん中でこうしてるの、なんか『おつ』じゃないですか」

 和哉が小さく息をついた。

「おつって何」

「風流ってことです」

「そういう意味じゃ使わないと思うけど」

「先輩と二人でここにいる感じが、おつです」

 和哉は何も言わなかった。でも、少しだけ肩の力が抜けたのが、横顔を見なくてもわかった。

 しばらく、二人とも黙っていた。外の歓声が、波のように来ては引いていく。和室の空気だけが、どこか別の時間を流れているようだった。

 湊が口を開いた。

「覚えてます? 中学の時、二人でこうしてたじゃないですか」

 和哉が湊を見る。その目に、一瞬だけ警戒のようなものが宿った。この話の続きに何があるか、探っているような目だった。

「覚えてるけど……」

「ある日、先生にバレかけたの。覚えてないですか。廊下に足音がして、二人でしばらく息止めてたやつ」

 和哉の表情が、少しだけ変わった。記憶を探るように目が動いて、それからふっと笑みが漏れる。

「……覚えてる。あの時、湊が先に笑い出して」

「先輩も笑ってたじゃないですか」

「湊が先だった」

「先輩も笑ってました、絶対」

 二人で笑った。声を出すほどじゃない、小さな笑いだった。でも本物だった。

 笑い声が消えて、静かになる。
 悪い静かさじゃなかった。

 湊が畳の縁を指先でなぞりながら言った。

「先輩、茶道のこと好きですよね」

 和哉が少し驚いたように湊を見る。

「……うん、好きだよ」

「なんで好きになったんですか」

 和哉はすぐには答えなかった。少し考えてから、ゆっくりと話し始めた。

「おばあちゃんがやっててね。小学生の時、一回だけお茶会に連れて行ってもらったんだ。お母さんが急な用事でいなかった時にね」

「どんなお茶会でしたか」

「静かだった」

 和哉の声が、少し遠くなる。

「小さな和室に、知らない着物のお爺さんやお婆さんがいて、静かに正座してるんだ。最初はおばあちゃんにくっついてたんだけど、近くにいた人がお菓子をくれたり、茶道のことを教えてくれたりしてるうちに、なんてことなくなった」

 和哉は手の中の扇子を止めた。記憶の中を歩くような、ゆっくりとした速度で話す。

「少し経ったら亭主の人が挨拶をして、お茶を立てたんだ。シャカシャカって音を立てながら立ててるのを、なぜか夢中で見てて。まだ小さかったから、その時飲んだ抹茶はすごく苦かったけど、なんか特別な味だった。お茶を立てる体験もさせてもらってね」

「俺が先輩にして貰ったことと同じですね」

 湊がぽつりと言うと、和哉が少し目を細めた。

「そうだね。そうかもしれない」

 和哉は続ける。何度かおばあちゃんと一緒にお茶会に行ったこと、そのたびに少しずつ茶道の言葉を覚えていったこと。淡々とした口調だったが、その声には確かな温かさがあった。

「お点前してる間、何も考えなくていいんだよ。手順が決まってるから、次に何をするか迷わなくていい。やることが全部決まってて、その通りにやるだけで、なんか……落ち着いた」

「先輩らしいですね」

「そう?」

「はい。先輩、お茶を立ててる時、すごく落ち着いた顔してます。それに、迷ってる時はすごく辛そうで」

 和哉が少し目を伏せた。
 湊は何も言わずに待った。

「あとね」

 和哉が続ける。手の中の扇子を、膝の上にそっと置いた。

「……あれが初めてだったんだ」

「何がですか」

「お母さんがいないところで、自分が好きだって思えたもの」

 和室が静かになった。
 外の歓声が、やけに遠かった。

「おばあちゃんの家に行く時だけ、お母さんがいなかった。その時間に、好きなものを見つけた」

 湊はすぐに何かを言わなかった。
 先輩の声が、いつもより少し小さい。これ以上踏み込んだら、何か壊れてしまうような気がした。だから湊はただ、隣にいた。

 しばらくして、和哉が少し息を吸った。それが話の終わりの合図だとわかって、湊は口を開く。

「先輩」

「うん」

「先輩が戻らないなら、俺もここにいます」

 和哉が湊を見た。

「……なんで」

「だって先輩がいないと面白くないので」

「湊、応援団長でしょ。みんなが待ってる」

「先輩がいない体育祭より、先輩がいるここの方がいいです」

 湊は少し笑いながら続けた。

「それに、言ったじゃないですか。『どんな所でも先輩を一人にさせません』って」

 和哉の表情が変わった。困ったような、でも違う、もっと別の何かが混じっている顔だった。

(この子は、ほんとに……)

「そういうこと言わないで」

 声に、少し力が入った。

「なんでですか」

「……僕のせいで湊が損することになる。それが嫌なんだ」

 湊は和哉を正面から見た。

「先輩、俺の足を引っ張ってると思ってますか」

「……思ってる」

「引っ張られてないです」

 湊はまっすぐに言った。

(いや、引っ張ってるよ。だって僕は、あの時——湊が周りから称賛を受けてる時、僕は……)

 和哉は膝の上に置いた扇子を、物憂げな表情で見つめた。自分の心の中にあるものに、まだ名前がつけられないでいる。

「俺がここにいたいんです。先輩がいるから」

 和哉が答えられないでいる。

 嬉しい。それだけはわかった。でも受け取り方がわからない。自分の中に、こういう気持ちを置く場所がまだない——そう思っていたのに。

 湊はそれでも、言葉にしなくても伝えてくれる。表情で、態度で、目で。

 気づいているのだろうか。さっきから直接「好き」とは言っていないのに、それと同義の言葉を言い続けていることに。

 涼香の声が、頭の中で聞こえた気がした。
 『さっさと付き合えばいいじゃないですか』

 和哉は少し俯いた。

 でも今は、と思う。大学のこと。家のこと。お母さんのこと。何一つ決まっていない。何一つ、自分で選べていない。そんな自分が、湊の隣に立っていいのか。湊はまだ一年生で、先のことを何もわかっていない。巻き込みたくない。

 でも。
 嫌いになってほしくない。
 嫌いになりたくない。
 この時間を、終わりにしたくない。

 だから。

 和哉が顔を上げた。

「湊」

「はい」

「一個だけ、聞いてもいい」

 湊が頷く。

 和哉は少し息を吸ってから、湊の目を見た。眼鏡の奥のサファイアが、まっすぐ湊を見ている。

「待って、欲しいんだ、卒業まで」

「待つ? えっと……何を待てば……」

「つ、付き合うの」

 湊の時間が、一瞬止まった。

「わかりました! 待ってますね、付き合うの——付き合う?!」

「う、うん。あ! 恋人としてね、どっか行くとかそういうのじゃないよ?」

「こいびっ——!!」

「えっとね、卒業までにいろいろ済ましたいこともあるし受験もあるんだけど、ずっとモヤモヤするのも良くないなって思ってね、それでね……」

「待って! 待ってください!」

「う、うん」

 湊が両手で頭を抱えた。頭の中で何かが高速で回転しているのが、傍目にも伝わってくる。しばらくそのまま固まって、それから顔を上げた。目が真剣になっていた。

「えっとですね! えーっと……俺の気持ち、知ってたんですか」

 和哉が少し目を丸くする。

「え」

「だって先輩の言い方、俺の気持ちを知ってる前提じゃないですか」

 和哉が少し視線を逸らした。否定はしなかった。

「……なんとなく、は」

「なんとなく」

 湊の声が、わずかに上ずった。

「いつからですか」

「中学の……夏頃、くらい」

 湊が顔を伏せた。両手で顔を覆っている。耳まで真っ赤だった。それに俯いたことでつむじが見え和哉は場違いにも「可愛い」という感想が溢れそうになるのを、かろうじてこらえた。

「ずっと知ってたのに、何も言わなかったのは」

「自分の気持ちが、まだわからなかったから」

 沈黙が落ちた。

 湊が顔を上げないまま言う。

「……俺、ずっと隠してるつもりだったのにぃ」

 声に、少しだけ情けなさが滲んでいた。

「ごめん」

「謝らないでください」

 湊が顔を上げた。目が少し赤い。

「なんか、恥ずかしいですね。全部バレてたなんて」

 乾いた笑いが漏れた。情けなさと、でも少し吹っ切れたような、そういう笑い方だった。

 和哉はその顔を見ていた。
 こういう顔をする人だ、と思った。泣きそうな時に笑う。恥ずかしい時に笑う。強がりなのか、本当に強いのか、よくわからない。でもその笑顔が、ずっと好きだった。

 ずっと。

 和哉は、自分の中でその言葉が転がるのを感じた。

 ずっと、好きだった。

「湊」

「はい」

「僕も好きだよ」

 湊が固まった。まるで石にされたように、ピシッと。

 和哉は続けた。言葉が止まる前に全部言ってしまわないといけない気がした。勢いが止まると、また逃げてしまうから。

「恋愛的な意味で」

「…………」

「自分でも気づくのが遅くて、情けないんだけど。でも本当だから」

 湊がしばらく、何も言わなかった。
 和哉が心配になって湊を見ると、湊は口を半開きにしたまま固まっていた。瞬きもしていない。

「……湊?」

「あ、」

 湊が我に返る。

「先輩」

「うん」

「それ、今言いますか」

「え」

「体育祭の最中に、茶道室で、すぐに付き合えないのに」

 和哉が少し目を泳がせた。

「……タイミング、悪かった?」

 湊が笑った。泣きそうな顔で、笑った。

 全く困った人だ、と湊は思った。せっかくウルトラロマンチックな告白方法を考えていたのに、この人の前だとどうして計画通りにならないんだろう。本当に。

「最高のタイミングです」

 和哉は少し息を吐いた。

 でも、表情を引き締める。嬉しいだけじゃ、終われない。

「ただ……」

「はい」

「さっきも言ったけど、今すぐ付き合うのは、まだ無理で」

 湊が頷く。続きを待つ。

「大学のこと、家のこと、ちゃんと自分で決めてから湊と一緒にいたい。今の自分じゃ、湊の隣に立てる気がしないから」

 湊が少し考えてから言う。

「俺の隣に立つのに、条件があるんですか」

「……湊」

「俺は今の先輩の隣がいいです」

 和哉が少し目を伏せた。

「僕が、嫌なんだ。何も決まってない自分が」

 湊が黙る。

 その声の重さは、どこから来ているのか。湊にはまだ全部はわからない。でも軽い言葉で返してはいけないことだけは、わかった。

 しばらく、沈黙があった。

 和哉が、また湊を見た。

「だから……卒業したら、付き合ってほしい。ちゃんと答えを出して、湊のところに行くから」

「……先輩って」

「うん」

「ずるいですよ」

「ずるい?」

「好きって言っておいて待ってって言うんですか」

 和哉が少し笑った。

「……ごめん」

「謝らないでください」

 湊が和哉を見た。目が赤い。でも泣かない。

「待ちます」

 まっすぐな声だった。

「先輩が来てくれるなら、いくらでも」

 和哉は何も言えなかった。

 言葉が、見つからなかった。ありがとうでも、ごめんでも、足りない気がした。

 だから代わりに、湊の手を取った。
 湊が少し息を呑むのがわかった。

 和哉は立ち上がった。湊の手を引いて、一緒に立ち上がらせる。

「行こう」

「……はい」

 和哉が先に扉を開けた。

 外の光が、和室に差し込んでくる。遠くから歓声が聞こえる。体育祭は、まだ続いていた。

 繋いだ手のまま、二人は廊下へ出た。

 イ草の香りが、背中で遠くなっていく。