ふたりのフツウ


 体育祭の準備期間、午後の自由時間。

 校内のあちこちでポスターや応援団の活動が進んでいるはずの時間帯に、七瀬涼香はひとり職員室の前に立っていた。蛍光灯の白い光が廊下に溶けており、遠くからかすかに聞こえる生徒たちの声が、廊下を緩やかに満たしている。

「じゃあ、七瀬。このプリント、前の授業休んだ奴らに配っといてくれ」

「はい、かしこまりました」

 体育教師から手渡された用紙を受け取り、涼香は軽く頭を下げる。

「いつも悪いな」

「いえいえ。それでは失礼します」

 涼香は静かに職員室を後にした。廊下に出ると、喧騒が遠くから押し寄せてくる。グラウンドから響く掛け声、教室の窓から漏れ出す笑い声、ときおり風に乗ってくる誰かのホイッスルの音。普段とは違う、どこか浮き足立った空気が校舎全体をゆるやかに包んでいた。

 配布先を確認する。斉木、田口、矢野、野比、そして――綿貫。

「ほとんどポスター隊の方々ですね」

 涼香はひとりごとのように呟いて、足を動かした。

*****

 斉木、田口、矢野、野比の四人には、教室や廊下でわりとすぐに行き当たることができた。

「七瀬さん、ありがとう!」

「いえいえ。確かにお渡ししましたよ」

 四枚を無事に捌いて、残るは一枚。涼香は手元のプリントを見下ろし、小さく息をついた。

「残りは、綿貫さんですか」

 クラスを出て、廊下を歩く。掲示板の前、体育館の入り口付近、中庭のベンチ。想定できる場所をひととおり巡ってみたが、綿貫和哉の姿はどこにもない。涼香は軽く眉をひそめながら、ふと階段の方へ目を向けた。

 屋上へ続く最上階の踊り場は、普段から人通りが少ない。屋上そのものは立入禁止とされているため、わざわざここまで上がってくる生徒はほとんどいないのだ。

 手すりに薄く積もった埃と、細長い窓から差し込む斜光が、その場所の静けさをそのまま物語っていた。涼香の靴音だけが、静かな階段に響く。

 ――もしや、と思って足を向けると。

 踊り場の壁を背に体操座りで座り込み、スマートフォンを眺めている人物がいた。黒髪の天然パーマがゆるくほどけた様子で揺れていて、眼鏡の奥のサファイア色の瞳はどこかぼんやりとした光を帯びている。体育祭の喧騒からはるかに切り離されたように、彼はそこにひっそりと収まっていた。

「…最近、よく見つかるなぁ」

 綿貫和哉は気まずそうに呟いた。口調はのんきだったが、わずかに肩が縮んでいる。

「これ、先生からあなたへの特別課題です」

 涼香は特に表情も変えず、プリントを差し出す。和哉は少したじろいでから、おずおずとそれを受け取った。

「う、ありがとう。七瀬さんはいつも先生のお手伝いしてて偉いねぇ」

「クラス委員になりましたからね。このくらい、なんということはありません」

「頼もしいね。これは先生に頼りにされてるよ」

 涼香はそこで改めて、先日目にしたメンバー表を脳裏に思い返した。応援団のリスト、パネル制作の担当一覧、各競技の名簿。

 どれを見ても、綿貫和哉という名前は見当たらなかった。いったいこの人は、体育祭という一日をどこで過ごすつもりでいるのだろう。塀の上の猫のように、どこか遠くから眺めているつもりなのだろうか。


「というか、こんな場所で何をしているんですか」

「誰も気づかなかったから大丈夫かなぁって」

 てへっ、と笑う顔は、どこまでも呑気だった。涼香は小さく息を吐く。

「私は気づきましたけど」

 一拍置いて、続けた。

「それに、きっと彼も気づくと思いますよ」

「彼?」

「久我君ですよ。大方、悩みのひとつは彼のことでしょう? 貴方が変な挙動をしだしたのは勉強会の後、すぐのことですから」

 和哉は一瞬、固まった。

「……ええ、変なことなんてしてないよ〜」

「あら」

 涼香は涼しい顔で言う。

「授業中に虚空を見つめて固まったり、スマートフォンを見ては何かを打ってはすぐ消したり、廊下で久我君を見かけたとたん物陰にサッと隠れて通り過ぎるのをずっと観察してたりするのは、平常運転だと?」

 しばらくの沈黙のあと、和哉は静かに肩を落とした。視線が、膝のあたりをさまよう。

「……想像以上に不審者だ…」

「貴方はドジっ子体質だけで十分なんですよ。これ以上ポンコツになられると、こちらの身が持ちません」

「仰る通りです」

 素直に白旗を掲げる和哉を見て、涼香は一息つく。

「それで、何を悩んでいるんですか? 聞き出すまで逃しませんから、とっとと吐いてください」

「七瀬さん、僕にだけ結構強引だよね」

 涼香の瞳が、とっとと吐けと静かに訴えかけてくる。長い睫毛の奥にある桜色の瞳は、あくまで穏やかでいながら、どこにも逃げ場を残さない。踊り場の光が涼香の横顔を照らし、その静けさがかえって重みを持っていた。

 和哉は観念したように口を開いた。

「えっと悩みは……大学のこと」

「と?」

「……湊のことです」

 短い告白だったが、その声はどこか小さく、ひどく正直だった。言葉にしてしまってから少し後悔したように、和哉は眼鏡の縁を指でそっと押さえる。

「はぁ。まずは大学の方から伺いましょう」

 涼香は切り替えるように、一度小さく息を整えた。

「綿貫さんは確か、志望校がまだ決まっていなかったんですよね?」

「うん。したいこと、分からなくて」

「大学は就職の視野を広げるために行くのも選択肢としてはありだと思いますが……ご両親とは何かお話を?」

「母は、その……国立に行けって」

 涼香は一瞬、驚愕に顔を染めた。いつも纏っている上品な淑女の仮面が、ほんの刹那だけ剥がれる。しかし彼女はすぐに表情を取り戻し、慎重に言葉を選んだ。

「国立、ですか。……失礼ですが、お母様は貴方の成績をご存知で?」

「一応見せてるし、学期末の三者面談とかでも先生の話を聞いてるはずなんだよねぇ」

「それはその……随分と、ご期待をされているようで」

「期待、ねぇ」

 和哉の声に、わずかな陰が混じった。その言葉のかげりを、涼香はしっかりと聞き取った。しかし今はあえて踏み込まない。コホン、と小さく咳払いをして話を戻す。

「進路に関しては、やはり一度進路指導の先生と話をすべきですね。このまま行動も勉強もせずにうだうだしていては、国立どころか進学できるかどうかも怪しいです」

「やっぱり勉強はしないとかぁ」

「当たり前です」

 涼香は続ける。

「そして、その勉強を効率よく進めるためには、余計な悩みをとっぱらってクリーンな状態にするべきです。……という訳で。久我君に関するお悩みを、どうぞ」

「えっと、その、湊に関する悩みは……あまり人に話すものじゃなくて。あ、でも! 湊が嫌いとか、嫌なことされたとかじゃなくて、むしろ逆で……あ! 逆っていうのはその……うう、やっぱり、こんなこと話せないよ」

 和哉は膝を抱え直し、小さく縮こまる。踊り場に斜めに差し込む光が、彼の黒髪をぼんやりと照らしていた。言葉を探しているのか、それとも言葉にすることそのものを恐れているのか、その判別がつかないまま、沈黙がしばらく続いた。

「はぁ、綿貫さん」

「ん?」

「とっとと、貴方から告ったらどうですか」

 一瞬の間があった。

「こくっ……え、」

「えええええええええええ!!!!」

 踊り場に、裏返った叫び声が響き渡る。遠くでグラウンドの笑い声が聞こえるが、それがかえってここの静けさを際立たせていた。

「うるさい。貴方、そんな大声が出せたんですね」

「なん、いつ、え、知って、なんせさん!!」

「七瀬です。日本語がめちゃくちゃですよ」

「だって、だって、だって! 急にそんなこと言うから。ちゃんと隠してたのに」

 和哉の顔は耳の先まで赤くなっていた。眼鏡のレンズの向こうで、サファイア色の瞳が波打つように揺らいでいる。平静を保とうとするたびに視線が逃げ、逃げるたびにまた涼香と目が合う、という不毛な繰り返しを演じながら、彼はひたすら動揺していた。

「今まで無粋の極みだから言いませんでしたけど」

 涼香は静かに言った。

「体験入部のときから、なんとなく分かっていましたよ。貴方達、ふたりとも分かりやすすぎます。あの村内君も気づいていて、久我君にちょっかいをかけていましたし」

「嘘でしょ……」

 和哉は頭を抱えた。赤い顔を膝に沈め、壁にもたれたまま体をさらに縮める。髪が乱れるのも構わず、彼はひたすら小さくなろうとしていた。

「久我君はともかく、貴方は両想いだと自覚できているんでしょう? 勝率百パーセントなんですから、とっとと告って解消すれば良いでしょう」

「簡単に言うけど、僕ら男同士だよ?」

「好き同士なのでしょう? 何の懸念が?」

「いや、その、いろいろあるじゃん。やっぱり同性って、『普通』じゃないし……」

 和哉の声は、そこで少し小さくなった。さきほどまでの赤面とは違う、静かで重い声だった。その言葉の奥に何かが詰まっているのを、涼香は感じ取る。踏み込むべきか、流すべきか、一瞬だけ迷ってから、彼女は前者を選んだ。

「ふぅむ。確かに、好き同士ならなんとでもなる、というのは綺麗事ですね」

 それだけ認めてから、涼香はふと問いかける。

「でしたら、綿貫さんは女性がお好きなので?」

「え?! っと、うーん……たぶん?」

「たぶん? 幼い頃に好きだった子とか、いないんですか?」

 和哉はしばらく宙を仰いだ。眼鏡のフレームの向こうで、瞳が記憶を遡るようにゆっくりと動く。踊り場の天井を眺めながら、本気で思い出そうとしているのが、その沈黙の濃さから伝わってきた。

「……あれ? いないな」

「つまり、彼が初恋相手だと?」

 長い沈黙が落ちた。

 踊り場にはふたりと、差し込む光と、遠くから聞こえる体育祭の喧騒だけが残る。誰かの歓声が、かすかに、遠くから届く。和哉はそれに気づいていないのか、ただじっと、自分の内側のどこかを見つめていた。

「……………そう、なり……ますね」

 ようやく絞り出した声は、答えというよりも、自分自身への発見を含んでいるようだった。三年分の時間が、今この踊り場でようやく一本の線として結ばれたかのような、静かな驚きがそこにある。

 涼香は目を細めて、静かに言った。

「これは、思ったより重症ですね」