ふたりのフツウ


 久我家の二階。階段を上がってすぐ左手にあるのが、兄・湊の部屋だ。廊下には夜の静けさが満ちており、わずかに開いた窓から入り込む風が、薄いカーテンをかすかに揺らしている。どこか遠くで虫が鳴いていた。夜特有の、少しひんやりとした空気が肌をなでる。

 その扉の前に、ひとりの少女がいた。

 小柄な体を壁に寄せ、息を潜めるようにして立っている。伸ばしかけの髪が頬にかかっているのも構わず、耳をそばだてて室内の気配を探るその姿は、とてもではないが淑女とは言い難い。廊下に落ちる彼女の影が、電灯の光の下でひっそりと揺れていた。

 ――初めまして皆様。

 私は東雲中学三年の久我渚と申します。

 名前を見ればお分かりかと思いますが、この部屋の主、久我湊の妹です。どうぞ以後、お見知りおきを。

 さて。そんな私が、なぜ実の兄の部屋の前で、こんなにも怪しい行動をしているのかと申しますと。

(あにぃに女ができたかもしれない!!)

 これに尽きます。

 高校に入ってからというもの、兄の様子は明らかにおかしかった。もともと多少変なところはあったものの、ここまで分かりやすい異変は初めてだった。それも、日に日に度合いが増している気がする。

 部屋の中から奇声が聞こえてくることがある。カレンダーを見つめては、にやにやと意味深に笑っていることもある。さらには、一日中どこか浮ついたような、気味の悪い笑顔を貼り付けて過ごしているのだ。普段の兄を知っているからこそ、余計に気持ちが悪い。

 極めつけは――。

「なあ、もしお前がデートするなら、ここどう思う?」

 そう言って、スマホの画面をこちらに突きつけてきたのだ。しかも一箇所ではなく。十箇所近くも候補を見せてきたのだから、正気の沙汰とは思えない。しかも全部、候補のジャンルもバラバラで、一体どんな相手を連れて行くつもりなのか、まるで方針が見えてこないのも不安を煽った。

 当然、私はすべてに対して「どこも向いてない」と返してやった。

 その瞬間の兄の顔といったら――それはもう、見るに耐えないほど悲惨だった。みるみる萎んでいくさまは、叩き落とした凧のようだった。さすがに少しだけ気の毒になり、無難そうな映画館を勧めてやったついでに、観光客にも人気のカフェも教えてあげた。

 ……ああ、なんて、なんて素敵な妹なのでしょう、私は。

 ――いえ、今はそれどころではありません。

 問題は、兄の変化があまりにも顕著すぎるという点だ。

 第一に、あんなチビに相手ができるわけがない。

 つまりこれは――遊ばれている可能性が極めて高い。うちの兄は顔だけは悪くないから、どこかのとんでもないビッチに引っかかっているに違いない。夢と現実の区別もついていない愚かな男を、うまいこと手玉に取られているのだ。きっとそうだ。

 妹として、兄がそんなツツマタセ?のような目に遭っているのを見過ごすわけにはいかない。

 ここは一つ、現実というものを叩きつけてやらねば。

(よし……!)

 意を決し、渚は勢いよく扉を開け放った。ノックなど不要だ。いや、むしろノックをしてしまっては、この勢いが半減する。

「たのもー!」

「うおっ!?……渚、人の部屋に入るときはノックをしろ。特に夜の兄の部屋にはな――」

「この!色ボケ男!さっさと現実を見なさい!」

「急なディスはお兄ちゃん泣いちゃうよ?」

 湊はベッドの上でだらりと横になっていたのを体を起こしながら、困ったように笑う。スマホを手に持ったまま、画面を伏せるあたりが実に分かりやすい。その様子すら、どこか浮かれて見えるのが腹立たしかった。

 渚は腕を組み、びしっと指を突きつけた。

「単刀直入に言います!あなたは今、恋をしていますね?」

「ぎくっ」

 分かりやすすぎる反応だった。動揺を隠す気がまるでない。

「は、はぁ? いったい何の証拠があってそんなことを……」

「ありますとも。あなたはスマホの通知を見るたびに微笑み、デートスポットの下見までしている。この家でそれに気づいていないのは、観察力のないノンデリのお父さんくらいよ!」

「お父さんに謝れ。あれでも頑張ってるんだから」

「お父さんはもっと色んなことに気づくべきです。この前なんて、私が髪を伸ばしてるの見て『美容室に行くのが面倒なのか?』とか言ってきたんだよ? 信じられない!」

「だって、お前今までずっとショートだっただろ。なんで急に伸ばしたんだ?」

 その問いに、渚は一瞬だけ言葉を詰まらせる。

 伸ばしかけの髪の毛先に、無意識に指が触れた。まだ肩につくかつかないかという中途半端な長さ。大人っぽく見えるようになるには、まだもう少しかかりそうだった。

 そして、そっぽを向きながらぼそりと呟いた。

「……こっちの方が大人っぽく見えるし」

 小さな声だったが、湊の耳には届いていたらしい。

「へえ。別に今でも十分子供っぽいけどな」

「はぁ!?なんでお父さんも兄もそうなの!なんでうちの男は揃いも揃ってデリカシーないのよ!父さんの遺伝子がチビすぎるのよ!」

「それ、本人に言うなよ。昔それで俺、ガチ泣きさせたことあるから」

「あ、それなんか覚えてる気がする」

 言い合いの空気は、どこかいつも通りの兄妹のそれだった。勢いよく踏み込んできたはずなのに、いつの間にかこうして流れてしまうのがこの兄妹のパターンだ。渚は少し悔しかったが、まあ悪い気はしなかった。

 だが――そのとき。

 ピコン、と軽やかな電子音が室内に響いた。

 湊のスマホが、通知を告げる。

 一瞬で、空気が変わった。

 兄の目が、すう、と細くなる。口元にかすかな笑みが浮かんだ。それはさっきまでの、妹相手のゆるい笑顔とはまったく違う種類のものだった。

「はっ……! お、おい渚。お兄ちゃん忙しいから出てけ」

「は? 湊のくせに生意気」

「お兄ちゃんとお呼び!……ああもう、ほら! 綿貫先輩に早く返信しないといけないから! 出て行け! 出て行け!」

 半ば強引に背中を押され、渚は廊下へと追い出される。抵抗する間もなかった。

 バタン、と扉が閉まった。

「むぅ……! まだ言いたいことあったのに……」

 頬を膨らませながらも、ふと渚は首を傾げる。閉まった扉の向こうから、小さく弾んだような声が漏れ聞こえた気がした。

「……それにしても、綿貫?」

 どこかで聞いたことのある苗字だった。ありふれた名前でもない。記憶の引き出しをそっと開けるように、渚は思考を手繰り寄せる。

 胸の奥に、かすかな引っかかりが残る。

「『アイツ』と同じ苗字……珍しいなぁ」

 でも、まさか。そんな偶然があるだろうか。

 思考を巡らせようとした、そのとき。

「なぎちゃーん、頂き物のクッキーがあるんだけど食べる?」

 一階から母の声が飛んできた。

「食べる〜!」

 即答だった。

 さっきまでの疑念も、使命感も、すべて一瞬で吹き飛ぶ。クッキーの前には何もかもが些事だ。

 軽やかな足取りで階段を下りていく渚の背中は、年相応の少女そのものだった。伸ばしかけの髪が、ぱたぱたと揺れながら遠ざかっていく。

 ――かくして。

 本来の目的は、見事に忘れ去られたのである。