ふたりのフツウ

21話 緋色の団結

 体育祭期間に入った最初の朝、春人が教壇に立つなり開口一番、

「今日から体育祭期間! 午後の授業はなしだー!」

 教室がざわめく。チャイムの余韻もろくに消えないうちから、その一言で空気が一変した。午後の授業がないただその事実が嬉しいのだ。

 窓の外には今日も抜けるような青空が広がっていて、体育祭という言葉と一緒に、季節の匂いまで教室に流れ込んできた気がした。

「応援団とパネル制作、それぞれ担当に分かれて動くこと。応援団は渡部、パネルは俺が仕切るから、指示に従ってくれ」

 磯貝拓人が補足を加えながらプリントを手元で整える。隣では宇佐美が教壇の隅にぺたりと腰を下ろし、どこからか取り出した文庫本をさっそく開いていた。

 授業がないのは生徒だけでなく教師も同様らしく、その所作には微塵の罪悪感もない。

 高梨を連れてくるか一瞬考えたが、特にしてもらうことも思い当たらなかったので、大人しくお座りしてもらうことにする。

 春人が立ち上がった。坊主頭の上で蛍光灯の光が鈍く反射している。体格のいい背中が、教壇から見渡すようにぐるりと一周した。

「よし、じゃあさっそく動くぞ。まず全員、午後に体育館前の広場に集合。そこで応援団とパネル隊に分かれる。どっちが希望か、今のうちに考えといてくれ」

 拓人が手元のプリントを掲げた。

「パネル隊は団カラーのパネル制作がメイン。絵が得意なやつ、コツコツ作業が好きなやつ向けだな。応援団は詳しくは湊と響也が仕切る。体動かすのが好きなやつ、来てくれ」

 教室の空気が少しだけ変わった。誰かが隣の席に小声で話しかけ、誰かがどっちが楽か真剣に考えこみ、誰かが窓の外をぼんやりと眺めた。三十人の一年生たちが、それぞれのやり方で体育祭という現実と向き合い始めていた。

 湊は自分の席で、昨夜まとめたノートのページをそっと開いた。几帳面な文字ではないが、書き込まれた構成だけははっきりしている。指でなぞりながら、声に出さずに順を追う。

*****

 午後。広場の日差しは思ったより強く、湊は手の甲で額の汗を拭った。

 1-1の三十人が集まると、改めてその人数の多さと少なさを同時に実感する。

 多い——と思うのは、全員の顔と名前を把握しなければならないという意味で。

 少ない——と思うのは、これで五分間のパフォーマンスを成立させなければならないという意味で。

 太陽が白く照りつける広場の中央で、春人がクリップボードを持って前に出た。

「応援団やりたいやつ、手を上げてくれ」

 ぱらぱらと手が上がる。数えると、十三人。男子が九人、女子が四人。湊と響也も入れればちょうど十五人だ。

「残りのパネル隊も十五人か、ちょうどいい」

 拓人が手元に書き留めながら言う。なんとなく均等に分かれたのが、少し不思議でもあり、幸先がいい気もした。

 湊は上がった顔ぶれをひとりずつ確認する。運動が得意そうなやつ、声の大きいやつ、なんとなく面白そうで手を上げた感じのやつ——それぞれの温度がある。この十三人をまとめて、五分間のパフォーマンスに仕上げる。

 ——やるしかない。

「応援団の十三人、ちょっと集まってくれ」

 湊が声をかけると、ぱらぱらと輪ができた。壁際には響也が立っていて、手元には例の構成図のプリントがある。いつの間にか集めてきたらしいクリアファイルには、すでに何枚かの資料が整然と収められていた。

「まずこっちから動く。パネル隊は拓人に任せる」

「了解」

 拓人が手を振って、残り十五人を連れて校舎の方へ歩き始めた。振り返りざまに湊へ向かって「頑張れよ」と親指を立てる。その背中が遠ざかるのを見送ってから、湊は残った面々に向き直った。

 広場に、十三人と湊と響也、春人が残る。

*****

「えっと——じゃあ、俺から大まかな流れを説明する」

 湊はノートを開いた。昨夜、ベッドに寝転びながらスマホと格闘して書き留めたものだ。文字は少し雑だったが、構成だけははっきりしている。見返すたびに、あのときの集中がよみがえってくる気がした。

「まず全体のコンセプトは『緋』。赤団の赤を、炎みたいに見せたい。和太鼓と現代的なダンスを組み合わせて、静から動に転換する二段構えで行く」

 十三人の顔が、じっとこちらを向いた。

「入場は篠笛の音源から始める。全員無言で整列して、俺が前に出て一声かける。そこで太鼓が入る感じ」

「太鼓、誰が叩くんすか」

 男子の一人——確か松岡という名前だ——が手を上げた。体格がよく、バスケ部の経験者だと自己紹介していたのを覚えている。 

「叩けるやつがいたら理想だけど、音源でもいい。誰かできる?」

 少し間があって、後ろの方にいた女子グループから手が一本上がった。

「あの、私叩きたいかも」

「えー莉沙、マジで?」

「いや叩きたくね? 絶対楽しいじゃん」

 女子グループのテンションが上がりだす。笑い声が混じって、最初の緊張がほんの少しほぐれた。

「じゃあ、お願いするな?」

「やるやる!」

 湊は内心でガッツポーズした。音源より生の方が絶対にいい。それは直感だったが、確信に近かった。演者が一人増えるだけで、パフォーマンス全体に熱が生まれる。

「ありがとう、助かる。本当に助かる。で——パフォーマンス前半が和のパートで、後半に音が変わってダンスに移る。フラッグを使いたいんだけど、それについては……」

 湊は響也の方を向いた。

「そっちから話してくれるか」

 全員の視線が響也に集まる。これだけの人数に一斉に見られても、響也の表情はほとんど変わらなかった。ただ、クリアファイルの中から静かに紙を取り出す。

「配ります」

 几帳面に人数分コピーしてきたらしく、一枚ずつ丁寧に手渡していく。受け取った面々が図を見て「おっ」とか「なんか本格的」とか声を漏らした。

 湊も手元の一枚を見た。

 ——思っていたより、ずっと精密だった。

 観客席から見た図、横から見た図、真上から見た図、三方向から描かれている。各位置に番号が振ってあり、別紙に番号ごとの役割が書いてある。フラッグの軌道まで矢印で示されていて、矢印の一本一本が、迷いなく引かれていた。

「フラッグは三人。赤・黒・オレンジの三色で持つ。この配置で動くと、観客席の正面から見たときに炎みたいな揺らぎに見える」

 響也が淡々と説明する。声は大きくないのに、不思議とよく通った。

「前半のパートでは大きく動かして存在感を出す。後半のダンスに切り替わるタイミングで、この位置で静止する」

 指が図の一点を示す。細い指先が、ためらいなく正確な場所に触れた。

「静止したフラッグが背景になる。そこに動く人間が浮き上がる」

 しばらく誰も話さなかった。風が一瞬、広場を吹き抜けた。

 湊は図から響也の顔に視線を上げた。

「これ……観客席から見たときの見え方を、全部逆算して組んだのか」

「……まあ」

「すごいな、お前」

「褒めても何も出ないぞ」

 響也は淡々と答えたが、眼鏡の奥の翡翠色の瞳が少しだけ逸れた。照れているわけでも、困っているわけでもない、ただ視線の逃げ場所を探しているような、そんな動き方だった。

 昨夜、二人でパフォーマンス内容を話し合ったとき、「写真を撮られたときのことも考えた方がいいかもな」とは言った。けれどこうなるとは。響也の頭の中にある設計図は、湊が思っていたより何倍も精巧だった。

「衣装も考えてきました」

 響也がもう一枚の紙を取り出す。

 シンプルなラフ画だったが、方向性は明確だった。黒ベースの詰め襟風シャツに、袖と襟のラインを緋色で入れる。全体のシルエットはすっきりしながら、差し色で赤団としての統一感を出す。「絵うま」という声がどこかから聞こえた。湊もそう思った。線に迷いがなく、どこを強調したいのかが一目でわかる。

「動きやすさ優先で、和風のニュアンスを入れた。素材は綿混で頼む予定」

 響也がページをめくる。

「団長のだけ別仕様にしました」

 湊のデザインだけ別の紙だった。同じ黒ベースだが、肩に金の飾り紐が入っている。オプションで帽子もある、と余白に小さく書き添えてあった。

「……これ、俺のか」

「団長だから」

「そうか」

 湊は紙を見つめた。金の飾り紐。朝の光が当たれば、きっとよく反射するだろう。観客席から見えるだろうか——と考えかけて、もう一歩先まで思考が滑った。

 ——先輩の目に、届くだろうか。

 そんなことを一瞬だけ考えて、湊は咳払いをした。

「よし、衣装はこれで行く。デザイン、文句あるやついるか?」

 誰も手を上げなかった。むしろ「かっこいいじゃん」「黒いの好き」という声が上がった。全会一致とはいかないまでも、概ね好評らしい。空気の温度が少し上がった気がした。

「じゃあ一個だけ」

 女子の一人が手を上げた。

「フラッグ、三色全部同じサイズですか? 大きさに差をつけた方が動きに変化が出るかなって思って」

 湊は響也を見た。

 響也は少し考えてから、手元の図に視線を落とした。数秒の沈黙があって、

「……それ、いいな」

 と言って、ペンを走らせた。湊は意見が出るならどんどん出してほしいと思っていたが、これほどあっさり採用するとは思っていなかった。響也は自分のプランに固執するタイプではないらしい。いや——自分の設計に絶対の自信があるからこそ、よりよい意見を組み込む余裕があるのかもしれなかった。

「他にあるか?」

 もう春人が手を上げた。

「後半のダンス、振り付けってどうなるんだ?」

「それはこれから考える。誰か、ダンス経験者いるか?」

 一人だけ手が上がった。部活でやっていたわけではなく、習い事で少しだけ、という話だったが、ないよりずっとある。

「じゃあその子に中心になってもらって、みんなで作っていこう。難しいことはしなくていい。そろっていて、声量があって、見ていて熱くなれればそれでいい」

 湊はメンバーを見渡した。十三人の顔がある。それぞれ違う事情で、違う気持ちで、ここに立っている。

「これは俺一人がかっこよくなるためのパフォーマンスじゃない。全員が揃ったときに一番かっこよくなる形を作りたい。だから練習、付き合ってくれ」

 少しだけ沈黙があって、

「おう」

 と松岡が言った。低い、腹から出た声だった。それを合図に、「やってみよう」「頑張りましょう」という声がそこここから上がった。全員の声が揃ったわけではないし、温度差もある。でも——前を向いた十三人の顔が、確かにそこにあった。

 湊は一度深く息を吸った。広場の空気が肺に満ちる。

 やれる気がした。

*****

 準備を終えて解散した帰り道、湊は響也と並んで校舎を出た。夕方の斜光が校庭を橙色に染めていて、昼間より幾分か涼しい風が吹いていた。二人の影が長く伸びて、アスファルトの上を先に進む。

「今日の図、本当によく考えてたな」

 湊が言うと、響也は前を向いたまま短く答えた。

「写真の構図と同じだから」

「どういうこと?」

「写真は引き算だ。何を写すかじゃなくて、何を省くかで絵が決まる。フラッグが静止したとき、観客は動いているものしか見ない。余計な情報を省けば、見せたいものが浮く」

 湊はしばらくそれを反芻した。響也の言葉はいつも、説明のようで詩のような間合いがある。

「……なんか、難しいな」

「別に難しくない」

「俺には難しい。でもお前がいてくれるなら、俺は声の方に集中できる」

 響也が少しだけ足を止めた気がした。一歩分の間があって、また歩き出す。夕暮れの中で、その横顔はいつもより少しだけ柔らかく見えた。

「……それ、俺が便利ってこと?」

「頼りにしてるってこと」

 響也は答えなかった。

 夕方の風が二人の間を通り過ぎる。返事をしない沈黙が、否定でも肯定でもなく、ただそこに漂っていた。湊はそれで十分だと思った。

*****

 夜、部屋に戻った湊はベッドに腰かけてスマホを取り出した。

 外はもうすっかり暗い。机の上には開きっぱなしのノートがあって、昨夜書き込んだ構成がそのままになっている。今日一日で、あそこに書いたことが少しずつ形になり始めた。まだ骨組みにもなっていないが、それでも確かな手応えがあった。

 LINEを開いて、「和哉」の名前を探す。

 何と打つか、少し考えた。

 ——団長になりました、というのは昨日資料室で言ってしまった。だから続きの話として送ればいい。

『応援団長の衣装決まりました、団長の衣装、肩に金の飾り紐が付く仕様です』

 送信してから、少し恥ずかしくなった。なんでそんなことをわざわざ報告しているんだ、と思ったが、送信取消はもっと恥ずかしい。

 画面を伏せて天井を見上げる。白い天井に、先輩の顔が浮かんだりはしなかった。ただ、黒ベースの衣装に金の飾り紐が映える情景だけが、なんとなく頭の中にあった。

 三分ほどして、既読がついた。

『かっこよさそう』

 それだけだった。

 それだけなのに、湊は少しの間スマホの画面を見つめていた。文字は五文字。余分なものが何もない、先輩らしい返し方だと思う。

「……うん」

 誰にも聞こえないところで、小さく呟いた。部屋の中に声が吸い込まれて、消えた。

 スマホをそっと胸の上に置いて、湊は目を閉じた。